なぜYAKUMOなのか?【小泉八雲論】 | 保坂修平のピアノ音楽

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東京藝術大学楽理科卒業。ジャズピアニスト、作曲家。



 昨年9月に発表したアルバム『YAKUMO』について解説します。アルバム購入はこちら↓
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■なぜYAKUMOなのか

 なぜYAKUMOなのか。僕がこの曲に込めた思いを綴ってみたい。

 YAKUMOとは小泉八雲のことである。本名をラフカディオ・ハーンと言い、1850年ギリシャに生まれた。アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、文筆家としてアメリカでの活動を経て1890年日本にやってきた。日本人の妻を娶り1904年に没するまで、日本で教鞭を取ったり執筆活動を行なった。
 
「80日間世界一周」に描かれているように、当時の世界旅行は現在とは比較にならないくらい大変な事だった。それにもかかわらず、八雲が世界を股にかけ移動したのは新しい世界を見たい、聴きたい、感じたいという好奇心の強さと、欧米の文化、価値観に対する反抗心が原動力だったのだろう。現代風に言えば、それは「自分探し」の旅だったかもしれない。ともかくパズルのピースがはまるように最終的に日本に自分の居場所を見つけたのである。ゴーギャンのタヒチでの活動の様相にも合い通じるものがあるかもしれない。


■八雲の視点

 『知られぬ日本の面影』の「東洋の第一日目」で、八雲は初めて見る日本、その小さな事柄にいちいち感動する。まるで初めてディズニーランドを訪れた子供のようだ。ディティールに対する偏愛、そして無邪気な日本賛美には純粋な愛情が溢れていて、すこし気恥ずかしくなるくらいだ。そしてそのような風景が、21世紀の日本ですでに失われていることが、文章を読む僕たちの心を熱くする。こんなに美しく愛おしい日本が存在したのかと。

 また「盆踊り」の章が僕は特に好きだ。暗い山村で催される盆踊りを取材する八雲は、その神秘的な世界に完全に夢中になっている。音楽についても言及があるが、それはどんな響きだったのだろう?とても興味深い。

 「日本」という恋人に完全に惚れ込んだ八雲の姿があり、その姿勢は「上から」国家や文化を論じたり比較したりするものでは全くない。地面に這いつくばるような格好で、日本人と同じ空気を吸い、同じ目線からひたすらディテールを描き、その固有の美しさと必然性を分析する視点がある。

 あるいはこういう姿勢には、恋する人間が盲目であるのと同じような欠点があるのかも知れない。西洋文明批判、それゆえの日本の近代化の批判は、だったら日本はどうすればよかったのかという問いに答えてはいない。僕は、純粋無垢に見えたり思われたりする日本人にも生来の「猛々しさ」があり、単に西洋化したことで帝国主義的な国家に変貌したわけではないと思っている。しかし八雲の「優しい眼差し」は、そんな日本人の複雑な性格を、もう少し単純化しているようにも感じられるし、あるいはそういう日本人がいる事を分かった上で、「本当の日本」と区別しているように感じる。

 その上で、八雲の眼差しは本当に素晴らしく示唆的なものだと言いたい。八雲の両親がそれぞれアイルランド人とギリシャ人であったこと、そしてアメリカや日本で活動した事、これらは八雲という人間のアイデンティティ構成の複雑さを示している。独特の「優しい眼差し」は、この不安なアイデンティティ、そしてそれゆえに負った心の傷から生まれていると思う。

 いわば弱者の視点。そして「日本」は今も昔も弱いのだ。そこに共感が生まれる。 僕が組曲YAKUMOで表現したかったのは、この「共感」の部分だ。


■『YAKUMO』に込めた思い

 そもそも音楽は「映像」や「言葉」のようには表現できない。特に歌詞のない音楽の場合には。僕の音楽が八雲や日本をテーマにしているといっても、音そのものが具象的にそれを描くわけではない。しかし音楽には固有のファンタジーを表現する力がある。そもそも「人間」や「文化」というものは言葉、映像で表現できることもあれば、汲み取りきれない部分もある。まさにその部分こそ、音楽の分野だ。

 そんな意味で、僕が作曲してジャズの方法と精神を用いて描いた世界は、八雲が残した文章や伝記的側面に対して、僕が自由に、個人的に付け加えた注釈のようなものだ。それが、僕「個人」を超えて、誰かの共感に繋がってほしい。僕の音楽、聴く人の心象風景、小泉八雲。この三者の交流によって新しいファンタジーが生まれたら。その願いを込めて作品を作った。


■『YAKUMO』各曲解説

  YAKUMOは3部からなる組曲である。 小泉八雲の精神世界に寄り添って、あえて副題をつければ、こんな感じになるかもしれない。

1 原風景としての日本
2 怪談における女性像
3 日本のモダニゼーション


■パート1


 パート1「原風景としての日本」は、演劇人の大野裕明君の企画「怪談八雲噺」のために書いた「八雲のテーマ」を膨らませたものだ。八雲の来日当時でさえ、すでに「日本」は失われつつあった。明治以来の西洋化の波は容赦なく日本に押し寄せ、日本人のマインドが、牧歌的な風景が徐々に変わりつつあった。

 いつの時代でも「古き良き時代」に対する憧憬がある。それは常に「現在」に対する批判を含んでいると言っていい。そのような過去は、ある種の「幻影」である。しかし人の心はそこに救いを求める。そんな理想郷としての、不在の「日本」。そのロマンチシズムとある種の逃避を描いてみた。僕にも分からない。見えない。触ることができない。喪失感とセットの、ただ憧れるしかない原風景、ユートピアとしての「日本」。
 
 音楽的には、ペンタトニック主体のメロディーを、弦楽器、フルート、ボイスのクラシカルな響きで包み込んだ。室内楽風の中間部が、19世紀ヨーロッパ的な香りを伝えてくれたら嬉しい。日本に少しづつ入り込んできた西洋的なもの。そのあくまでエレガントな上澄みだけを切り取ったような雰囲気かもしれない。そう、日本はヨーロッパに憧れて続けてきた。その文化に、知性に、強さに。そのいじらしいほどの憧れが、日本に多くの「良きもの」をもたらした。同時に悲劇的な運命も。
 そんな先の悲劇を全く知らないかのように振る舞う「無垢」。それが「幻の原風景」だ。
  
■パート2


 パート2「怪談における女性像」は、八雲の代表作である「怪談」の世界を描いてみた。よりフォーカスすれば、有名な「雪女」のおどろおどろしさの表現に対応するかもしれない。幼くして母を失った八雲には「永遠の女性像」のようなものが心の中に形成されていたらしい。母であり恋人であり妻であるような、「ファウスト」終結部の「永遠に女性的なるもの」のような憧憬の対象。これは国境を超えた心理学的テーマだ。そこに日本的な、宗教的、呪術的、家父長制的要素が混じり合って「怪談」は怪しげな光を放っている。
 
 パート1が「不在の日本」を描いていたとすれば、ここでは「不在の女性」といえるかもしれない。フルートとヴォイスはそのような「女」の表象しつつ、変拍子のビートが容赦ない運命の進行を加速する。
 
 しかし「永遠の女性像」のように理想化され抽象化された対象としての性のような考え方は、ジェンダー論がおおいに発達したこの21世紀にはそぐわないかもしれない。それでもなお指摘しておきたいのは、八雲の怪談に登場する女性は常に生き生きとして能動的な存在だということだ。雪女は、男を殺害する力も権利も持っていながらそれを使わず、愛の中で葛藤し、幸福な時間を過ごした後、自らの意思で消えていくのである。男性は運命に翻弄される中、主体的な決断のチャンスはなく、ただただ弱々しい。
 
■パート3


 パート3は「日本のモダニゼーション」。日本の近代化の光と影を描いた。鎖国が解かれた日本は、帝国主義の濁流に飲み込まれるように西洋化、近代化の道を突き進んだ。鉄道が敷かれ、戦艦が作られ、人口が増え、経済が活発になった。いわるゆ富国強兵の路線だ。こうして日本は強く豊かになり、歴史の必然的な帰結として戦争に至る。続いて敗戦、そして戦後がある。もちろん八雲の時代(八雲は1904年没した)、そのような具体的な未来は誰にも見えなかった。しかしその苛烈な運命は、不穏な雨雲が嵐を予感させるように、感じる心のある人には予兆されたのかもしれない。
 ここではパート1、2で現れたメロディーが変形して現れる。しかし元の牧歌的な雰囲気は失われ、目まぐるしく変転する和音と激しいリズムに切り裂かれるように登場する。モダニゼーションは人間の凄まじいエネルギーの産物でもある。人間の知性が極限のしのぎを削る苛烈さがあり、そして固有の輝きがある。


■日本人のコンプレックス

 僕は「日本」という運命に対する、日本人の複雑な心の様相を表現したいのかも知れない。明治以来、それ以外の道を見つけられないままに西洋化し、近代化し、その恩恵をつけつつ、幸福を享受しつつ、どこかでそれを呪詛するアンビバレント。どこにも存在しない原風景を夢見て束の間の逃避を試みる。しかし一方でそれが「幻」であることも知っている。
 
 このアンビバレント、そしてアイデンティティの問題は日本人と音楽の関係にも存在する。
クラシックはヨーロッパの音楽。ジャズはアメリカの音楽。ロックはイギリスの音楽。タンゴやボサノバ、ハワイアン。こうした「本場」のある音楽を僕たちが演奏する意味は何だろう?「本物」に近づくことはできても決して超えることはできないのか?「日本の音楽」とは、尺八や三味線、あるいは演歌なのか?
 
 こういった問いかけの中で音楽活動をしながら、コンプレックスと心の傷に見舞われる音楽家は多いのではないだろうか?特に「本物」「ルーツ」「正統性」の信奉者、ある種の「本質主義的」な価値観の人間ほど傷は深くなる。
 
 しかしこの文化的アイデンティティの問題は夏目漱石をはじめ、文明開化後の日本人の宿痾である。どう付き合って行くかが問題であり、解決したら、完治する病ではないのだろう。
 
 一方で楽天的な考え方がある。音楽は楽しければいいのだ。やりたいこと、好きなことをやればいいのだと。これも一理あるし、ある意味現実的な対処方法である。
 

■「小泉八雲」というヒント

 僕は八雲の生き方、考え方にこのような日本人の心の傷と付き合うひとつのヒントがあると思う。八雲の優しい眼差しは、このようなコンプレックスをないものとして見て見ぬふりをするのではなく、存在を認めながら、かつ現実の一つ一つの美しく良きものを大切に、あるがままの自分を許容するような視点である。八雲が日本を愛したように、僕たちもまた日本を愛せるかも知れない。日本の運命を、弱さを、そして人々の優しさ、たくさんの愛くるしい断片たちを。八雲の視点には、束の間の救済と癒しの効果がある。

 究極的なことをいえば、僕の音楽が日本人の「コンプレックス」や「心の傷」や「弱さ」を正直に映し出した音楽であり、かつそんな心を癒し抱擁するような存在であって欲しいと思う。


2019. 9. 3
JZ Brat 
『YAKUMO』レコ発。


※※※

最後までありがとう。


ピアニスト/作曲家 保坂修平

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