はじめまして!

人生、自分らしく生きるための極意を、笑いと共にお届けしております。「うるるん」こと漆戸恵です。

自分の持っているエネルギーを最大限に活用して、健康で美しく、豊かで楽しい、より自分らしい生活を送るキッカケ(チャンス)を提供させていただいております。

情報過多の現代、知識が豊富で、前向きで、努力家、なのにイマイチ自分らしく生きられていない方、案外多いのではないでしょうか!

やるべきことに追われて、日々の忙しい生活の中で、「自分の好きなこと」が分からなくなっていたり、「夢や希望」を忘れて日常生活しか見えなくなっていたり、はたまた、目標を定め頑張り過ぎて身も心もボロボロになってしまっていたり…

自分の人生を振り返ってみて、そんな経験をたくさんして来たなぁと思うんです。

人生の旅の途中ではありますが、第二の人生の始まりに、第一の人生で得たものを、誰かの役に立たれたら、こんな嬉しいことはないなぁと思い、この活動に取組出しました。

楽しい会社では、
自分だけでは気付きにくい自分を発掘したり、隠れて見えなかった自分の資源の発掘をしたりするお手伝いをさせていただいております。

時間をかけて、じっくり向き合いながら一緒に探っていくので、「夢や希望」は勿論のこと、「夢にも思わなかったとびっきりの人生」や、より自分らしく生きる極意が見つかると思います。

     経歴

1962年4月23日、東京都文京区順天堂病院、篠塚家、社長令嬢、第二子長女として、生まれる。

1966年〜、父親の会社の倒産、両親の離婚、新しい母の家に父と兄と3人で転がり込む。その後2度の引越しなどで劇的な環境の変化に戸惑いながらの生活を強いられる。

1968年妹が誕生し、兄と私は居場所を失う。大人の反応や周りの環境に合わせて自分を偽り生活するようになる。この頃の夢は、芸能界で活躍し、自由なライフスタイルを手にすること。そのための歌や踊りの自主練は唯一の楽しみだったかもしれない。

1972年〜、幾度となる父の事業の失敗で、借金が膨らみ、母方の実家、福島県の郡山市に夜逃げ同然で移転する。当時小学4年生、この頃から、仕事をして稼ぎ家計を助ける羽目になる。子供らしいピュアな心を持てなくなり、登校拒否、万引き、飲酒、喫煙、どんどん生活が荒れていく。

1977年〜、義務教育を終え、就職して自分1人で生きていこうと考えるが、「中卒だと給料が安い」「中卒だと仕事の幅が狭まる」など、周囲の声に耳を傾け、進学を決めるが、「義務教育以降は全部自分で責任を持つこと」と言う親の方針で、仕事と学業を両方賄うことになる。定時制の4年は長過ぎるので、昼間学業で夜働くと言う道を選ぶ。この頃は、経済的な負担が大きくて、グレている場合ではなかったことが不幸中の幸いだったかもしれない。それでも、多感な時期、悪さもする、ズルもする。嘘や誤魔化しもする。恋愛やセックスや夜遊びもする。ありとあらゆる経験をしたのがこの時期だったかもしれない。

1979年〜高校3年生になると、同級生たちが進学の準備に慌ただしくなっていた。バリバリの進学校に入ってしまったため、先生は一度も就職のお手伝いをしたことがない。同期生の中に仕事をしながら学校へ通っている生徒はおらず、一際大人に感じたのか、いろいろな相談を持ちかけられて、学校内では人生相談のような戯言をしていた。
頼りにされても虚しさを埋めることは出来ず、仕事と学業の両立に疲れ果て、家庭内での人間関係も疲れ果て、自殺未遂をするも、失敗。ちょうどその頃、通っていた喫茶店のお客さんの男性に、結婚を申し込まれるが、東京へ戻り芸能界に入り自由なライフスタイルを手に入れる夢を諦められず、断り続ける。3人目の求婚者は諦めが悪かった。「東京へ出て芸能界に入るって言ったって、初めは下積み生活だから、お金も稼げないし、活躍出来る人なんて一握りだよ。」「なんでワザワザ苦労しにいくの、楽させてあげるって言ってるのに」彼の呪文が徐々に私に染み渡り、「そうかもなぁ〜」「こんなに言ってくれるんだし、結婚してみるのもいいかもなぁ〜」「ダメだったら別れて東京行けばいいんだし…」と、言うことで、勢いで結婚、18歳の冬でした。同時に高校3年生の2月1日付けで退学。専業主婦への道を進むことになった。

1980年〜両親とお姉さんと同居希望だったため、青森県は八戸市の漆戸家での生活が始まる。
言葉は通じない、当たり前が違い過ぎる、知り合いはゼロ、今考えると、抜け殻のような自分だった気がする。喜怒哀楽も余りなく、能面になっていた。今の私からは、想像がつかないと思う。

1983年〜待望の?ではなかったが、第一子を出産。否応なく母親役を仰せつかる。まだ自分が子どもだったからか、母親としての自覚も子育ての楽しみも持てないまま、第二子、第三子と生まれ、朝起きてご飯支度や洗濯や掃除や子どもの世話買い物や片付けなど、日々の生活にただただ追われるルーティーン。21歳からスタートして、気付いた時は30歳を目前としていた。「このままで終わるのは、どんなものかなぁ〜?何かもっと出来ることはないのかなぁ〜」そんな思いもあったが、社会に出たことも無く、なんの資格も経験もない。おまけに高校中退となれば、チャンスを手にする以前の問題だ。悶々といていた中で、「取り敢えず仕事に出よう」とパートに出たり、していた。その頃、家庭内では、主人の兄弟が家族連れで転がり込み住み出したため、家族の人数が16人、4世帯同居になっていた。これまた、そうそうあり得ない人数での生活。価値観は違うは、テレビも電話も自分の好きには出来ないは、プライベートが全くない家庭生活になっていた。今思えば、この頃に、周りに影響を受けにくい、自分のワールドを確立する術を習得したのだと思う。更に自分自身に目を向けて自分らしさの追求をし始めたのも、この頃からだった気がする。

1995年〜育児からも少し手が離れ、社会的にも就業者として役柄を得て、自分のことを考えることも出来るようになっていた。大殺界が明けたような感じと言ったらちょっと大袈裟かもしれないが、この頃は夢みる夢子が復活しつつあった。そして、「もっと自分らしく、もっと自由に、もっと楽しく、人生を楽しみたい。」そんな衝動に駆られていた。
ある日の何気ない頼まれごとで、人生が大きく変わっていく。それは、同居していた義理の姉から、「いとこが、なんか分からないけど、洗剤の説明に来るから、私の代わりに聞いておいてほしい。」と言う依頼だった。自分が事業を始めたので、扱っている商品を買ってほしいと言うことだった。どうせ何処かで買う洗剤。誰かのお役に立つのなら!私の価値観は「人の役に立つ」が優先順位の上位だったのかもしれない。。それが、功を奏してチャンスを手にすることになり、ABO、インディペンデントビジネスオーナー(個人事業主)のスタートとなった。
この頃から、人生が更にドラマチックに劇的に変わって行く。
4年間で収入は10倍に、友人知人の数は100倍に、経験値、情報量、思考力、イメージ力、判断力、決断力、も培った。まるで、別人のようで「飛ぶ鳥落として焼き鳥!」と冗談で言ってたぐらい、イケイケで突っ走って行った。

1999年〜自分の収入が夫の収入を超す様になって来た頃、世の中の状況はすっかり変わっていた。バブル崩壊から既に10年近く、土木系の仕事は華やかだった頃の影も形もなく、夫は失業し、プー太郎になった。バブルで腑抜けになったのか、私の収入に頼る様になり、夫婦関係がギクシャクした。ついには離婚を決意したが、子どもたちの猛反対にあい、子どもたちが独り立ちするまで離婚を見送ることにした。家庭環境が悪すぎると、不思議にビジネスに影響が出るもので、騙す者とであってしまったり、信頼関係が崩れて内乱が起きたり、よく、「鼻をへし折られた」と驕り高ぶった者の転落を表現しているが、このことなのだろう。収入も減り、借金に苦しめられることになる。生活費の捻出が出来ないのだ。もっと早くに「弱い自分を認め、許し、立て直し」が出来ていたら、苦しみは半分で済んだかもしれない。
この頃に、弱い者への労りの心や、事実をしっかり把握する勇気や、小さな喜びに対する感謝の思いなどの、包容力が身に付いたのだろう。

2009年〜3人の子育てを修了し、協議離婚を成立させ、事業の再構築を図り、次のステップへ移る準備をしていた。この頃、過去最大の移動距離だった。飛行機も100回を超え、フェリーも100回を超え、車の走行距離は10万キロ超え、日本中を駆け巡った6年間。行動することで、人生の階段を駆け上ろうとしていた気がする。確かに行動しなければ、何も始まらない。が、それだけでは、夢を実現させることはできなかった。

2015年〜人生の転機にはいつもハプニングがつきもので、この頃、私をプロデュースし、かつ一緒にビジネスを頑張っていた相棒(ビジネスパートナー)が突如、他のビジネスに移り、1人取り残された。さてこの先いかに進めていこうかと迷っていた時に、札幌の成功者から声がかかった。「3年ぐらい修行に来ないか!」「札幌で暮らしながら学びに来たらいい」と。流石にすぐ二つ返事が出来ず、出来ない言い訳が頭を駆け巡る。「言い訳を無くすと人生の階段を10段一気に上がれる」と言うロジックは知っているし体験済みだが…。大きな変化を自力で起こすのには、ちょっとした勇気が必要だ。不可抗力でやらざるを得ない状況の時は躊躇も勇気も挟む余地がないが、別にこのままでもなんら不便がない。ただ、夢が叶う兆しもない。50代、もう後がない気がした。
北海道に移住したのは翌年の10月だった。

2016年〜54歳にして人生初の一人暮らしに心躍らせ、海を渡り札幌へ。東京で生まれ、北上して、思えば遠くへ来たものだ。新規事業計画もワクワク感が満載だ。引越しやら何やらで投資金もまあまあ使った。人生、何度再出発をするのだろう。子育て中だったことも手伝って、長い間八戸で暮らし、久しぶりの新天地、踊る心と裏腹に、身体は悲鳴をあげていた。札幌に移り住んで半年ほどしたある日、突然、身体が動かなくなった。病院で原因はストレスだと言う。「楽しくても、急激な環境の変化に身体はストレスと受け止めます。温度が10度違っただけでもストレスになりますから…」と。人生、順風満帆とは行かないものなのか…。身体が新天地新生活に慣れるまで、1年近くかかってしまった。50代と言う年齢も関係あるのだろう。ビジネスも思った以上に手こずり、イライラが募り焦りもピークになる。金銭的にもギリギリになり、このままではマズイと思えば思うほど深みにハマっていった。目の前のことしか見えなくなっていた。俯瞰して物事が見れていれば、打開策もあっただろうに。

2019年〜札幌に来て3年。もがき足掻き、疲れ果てていた。更に追い討ちをかけるかのように、私に援助してくれていたスポンサーから打ち切り宣言があり、ぐーのねも出なくなった。
「もう、無理かもしれない…」ふっとそう思った途端、肩の力がスーッと抜け「ちょっと遊びに行こうかなぁ〜」「今年のGWは、札幌の人にエスコートしてもらって、近場で遊ぼうかなぁ〜」お金も底をついていたこともあり、そんな思いがよぎった。4月初めのことである。いつも通っている道なのに、今まで気付かなかった馬鹿でかい看板が目に飛び込んできた。「GW、誰かと一緒に過ごしませんか!」と言う結婚相談所の看板だ。「えっ、私のことじゃん。」そう思うが早いか、店内に吸い込まれるように入っていった。結局、登録して婚活?成らぬGW活が始まった。この月、過去最高回数のイベントに参加した。GW12連休を誰かと一緒に過ごすアポ取り活動。
そして、運命の時、4月29日30日、平成最後の日である。まさか、この時に会った人と一緒に過ごすことになるとは、思いもしなかった。私の中に再婚と言う文字はかけらもなかったし。
彼との出会いが、後に、自分が最も自分らしく生きることへの入り口になる。人生、誰と出会うか、何と出会うか、これによって方向性が変わってくる。
「うるるんがうるるんらしく生きているのをそばで見ていたい。それが自分の幸せに繋がるから。」
そんな言葉をもらった。
この言葉を自分の都合の良い方に解釈すると、「自分の存在が彼を幸せにする」と言うこと。
人間は、生きている存在価値を認めてもらえることが、何よりもの幸せなのだと気付かされる。
依頼5年、自分の翼を最大限に広げ、変化を楽しみ、より自分らしく生きることをテーマに、1人でも多くの方に、自分の可能性に気付き、開花させていただく機会を提供し続けている。


    伝えたいこと

⭐️自分の可能性に気付いてもらいたい。

人は皆、隠れたエネルギーを、持っているが、今使っているエネルギーの、何倍のエネルギーが眠っているか、知ってますか?

実は、脳科学の専門家が言うには、普通の人で今使っているエネルギーの3万倍の可能性が眠っているとのこと。

3万倍もあるなら、何でも出来そうじゃぁ
ないですか〜



⭐️どのようにすれば、隠れたエネルギー3万倍を使えるのか知ってもらいたい

キーワードは、「楽しむこと」

意外とこれが、簡単そうで出来ないんです。

楽しい時は誰でも出来ます。問題は、楽しくない時です。
うまくいってない時、つまんない時、寂しい時、悔しい時、そんな時にどれだけ楽しめるか!

「自分の機嫌を自分で取るのが大人の責任」
 


⭐️自分らしく生きる極意を発見してもらいたい

一般論では探せない。

頭で分かっただけでは見つからない。

1人では片手落ち。

身体と心は胴体だと知ること。

3次元と4次元を同時に持ち合わせている動物は人間だけ。



⭐️人生は壮大なラボ


試してみないと分からない

思いは奇跡の源です。

一緒に試すお手伝いをさせてください。

1人でも多くの人の夢が叶うことが、第二の人生の楽しみで、チャレンジです。