TSUTAYA書店の熊本市下通り店で購入した田辺聖子「ひねくれ一茶」の文庫本を手にしていると、がねがどんな本を読むのか興味を持ったのだろうか、「見せて、見せて」とある人からせがまれた。

 

ビニール袋を開けて見せると、うけた。一茶に冠された「ひねくれ」がうけた。「ひねくれって・・・」と可笑しがった。

 

そうなのだ。「ひねくれ」という言葉が、ただそれだけでその人には軽い衝撃を与えたのだ。「ひねくれ」に対して鈍感ながねはどうということもなかったのに、「ひねくれ」だけでインパクトを与えたのだ。

 

なるほどなぁ。そんな風な感性の持ち主こそ、佳い俳句が詠めるのかもしれないと思う。

 

 

文庫本は600頁を超える。相当な厚さがある。しかも内容が濃い。さらさらと読み進められる本ではない。すこしずつ、すこしずつ、一歩先へ進めば一休み。これを繰り返しながら晩年の一茶に至れば、なかなか先に進まなくなる。

 

もうオシマイが近い。だけど、そのときには一茶にすっかり感情移入している。これは田辺聖子の筆力のなせる業である。田辺聖子の筆は優しい。一茶を温かく見守っている。

 

それにあることがあれば、それに対する一茶の句が記される。読む人が読めば俳句の勉強になるというか、授業にもなるんじゃないか。

 

残念ながら、がねは「ひねくれ」も笑わなかったくらい感性が乏しいから、まったく俳句の勉強にはならなかったけど・・・。

 

ま、そうはいっても、次から次に性懲りもなく句を詠み続ける一茶の姿というか、生き方を見ていると、詠んだまんま表にさらしてもいいんじゃないかという気がしてきた。佳い句とか佳くない句とかあるだろうけど、それらもなにもかもひっくるめてまずは句を詠む方がいいんじゃないか。人に褒められたいとか、そんなことばっかり考えていては前に進まないじゃないか。

 

感想文にはならないけれど、田辺聖子の筆になる「ひねくれ一茶」を読んで一茶の生き方や存在が尊いものに思えてきた。

 

 

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