個人の権利を認めない(尊重できない)ハラスメントや相手国の権利を蹂躙する戦争行為など、これらは人権問題であり、人権に関する教育が足りていないと感じるところです。
人権への意識とは、ヒトとヒトとの相対的な認識として考えると、これは解決できない様に思います。だから、宗教や哲学などの人文科学では解決できない。
一見、他人の尊重とはヒトとヒトとの問題であるのが当然に見える。それしかない様に感じる。だから、宗教や哲学に解があると思うヒトがいてもしょうがない。
実はそうではない。
人権問題には、どの人権にも共通するベースがある。それを見失っているのだ。
それはヒトは生き物である、自然の一部であるという部分だ。
ヒトには生き物である部分と脳で考えている部分の両方があって、現在は養老孟司さんが言うようにヒトは脳の部分だけで世界が存在しているかのように振る舞っている。(「唯脳論」を参照ください)
脳で考えている部分は、宗教や哲学で語り尽くされているが、生き物である部分というのは、地球という星の陸地に住んで、雨風凌いで、獣から逃れつつ、生活しているという部分だ。
そうして生命を維持しているということを忘れている。
おそらく、それは「虫が嫌い」という一言に現れている。もし虫がいなくなれば、生き物としてのヒトは生きていけないのに。それを忘れがちなのだ。
「ヒトは生き物として辛くしんどい自然の中で生きていくために、ヒト同士が協力して生きていかなくてはならない。」
これが、ヒト同士を想う人権意識のベースである。
これは、辛い自然の中で生活していないと忘れてしもうことも仕方がないかもしれない。
だからこそ、J.ルソーが「エミール」の中で書いているように「自然を学ぶ」必要があるのだ。
自然を学ぶことで、ヒトが協力すること、ヒトを愛することを学び、人権意識のベースを学び、社会の必要性を学ぶ。
その上で、その社会で自分はどうありたいのか、何で貢献したいのかということを認識したら、次に言語や数学や物理や生物について学ぶ。
教育を効率的に行うというのは、そういうことで、たぶん世界共通だろう。
人権の意識もなく、社会の必要性も感じることもなく、数学や英語を学べと言っても、生徒が学びたくもないというのは理解する。
だから勉強しなくていいというのではない。なぜ勉強しないといけないかというのは生徒自身が考えるべきことではあるからだ。
教師もその必要性を教える、気づかせるのは必要なことで、それが教育の基本だろうし、教育要領で最初に提示すべき内容だと思う。
ヒトはおだてられ、お金を積まれたら、間違いを犯すくらいの存在だろう。(悪いことと判っていてもふざけたり、誤ったりしてしまうだろう。)
それを避け続けることは容易なことではない。その為に、何度も繰り返し学び、教え、身につける教育というものがなきゃならない。
そういうことをしっかり議論し続けないとならない。