しっかり思い出に浸りたいと思っていたが、追悼番組はどれも彼の偉大さをプロ野球選手として、あるいはプロ野球監督として伝えることが多く、その人間性を素晴らしかったと讃えて終わるというもので若干違和感がある。もちろんそれらは事実ではあるのだろうし、各個人の感慨としてもその通りだとは思うのだが、長嶋さんはそれで片付けられる様な存在ではないような気がする。きちんと評論家が整理すべき課題だとは思うのだが、やはり野球人という範疇は超えた存在だと思う。
長嶋さんが選手だった当時は、野球のメジャーやサッカーのワールドカップの報道はほとんどなく、Jリーグもなく、プリクラもなく、スマホもない時代。あったのは相撲とプロレスと芸能くらい。中でテレビの巨人戦はゴールデンタイムのコンテンツ、当時の視聴率と現在のプロ野球の視聴率の比以上に日本人は熱狂していたと言って良いだろう。(20倍くらい?)中でも長嶋さんは主要なコンテンツとしてテレビや新聞で擦られ続けた。そう言った意味で、今で言えば、登録者数2億人超えのYoutube/Tiktok/Xのインフルエンサーみたいなものだろう。(1000万人登録者数の20倍程度として?)その結果として、長嶋さんは戦後日本にアメリカから占領され続けていることを忘れさせた。第二次大戦の日本の戦後を背負わさられた存在だったかもしれない。長嶋さん自身もインタビューで「長嶋茂雄という存在から逃げ出したいと思ったことがある」と言われていた。ご本人、周辺のご家族も大変だっただろうと思う。
長嶋さんは、やはりコンテンツとして「神」だった。
ご本人の偉大さにも増して、彼をコンテンツとして時代が彼を利用した。利用し尽くした。そして、彼は神になった。
大谷翔平さんは大活躍によりスーパーヒーローにはなるかもしれないが、神にはなれない。時代が違うせいだ。大谷さんがいるからと言って、誰も人生の選択を変えない。
大谷さんで人生を狂わせる人はいない。長嶋さんで人生が狂わされた人は多くいるような気がする。
そして、長嶋さんという神が居なくなった。プロ野球を見ながらビールを飲んでいる時代は本当に終わったのである。いよいよ新しい日本を考えていくべき時だろうと思う。
米の価格とか、関税とか、消費税とか、年金とかもあるのだろうが、どういう姿が必要なのか、歴史はどう定義するのか、明治維新で混濁され、第二次大戦で喪失している日本の歴史を振り返り、日本の幸せを考える時期なのだろう。ただ、深く考える場や機会はあるのだろうか、当面の利益とか個別の最適化ばかりしか考える余地がないとすればそれは心配なことだ。
長嶋さんを野球選手としてはリアルタイムでは見ていなかった人も日本人なら彼の存在は胸に刻んでおくべきだと思う。哀悼の意を捧げたい。