しょうがないかもしれないですね。たいへんですものね。

 

現場の負担が大き過ぎる。だから、全教員がたいへんで、下っ端の教師はさらにたいへんである、教員からも責められる。過酷である。辞めたくなる。だからなろうとしない。

 

ヒトの教育とは、ベースとしての道徳(ヒトとしてやっていい事と悪い事)があり、その根拠となる倫理(なぜ、ヒトの道徳を実践するのかという理由)を幼少時から身に付け、社会の一員として働くための知識を身に付けるというものだと思う。

 

その教育を、我々は家族、地域、社会と学校で行なってきたが、明治以降その比重が学校で重くなってきている。

工業化社会の中で、家族では個人の部屋を持ち、兄弟姉妹や祖父母は居なくなり、両親とも休日にしか会話がないとか、地域では、以前は生涯をその地域で暮らす地主や商店主や町工場の子息を中心に地域のつながりや平安を訴求してきたが、今やそういう子息もいないし、地域でのつながりもない。さらに市町村大合併で地域とは何か分からなくなった。社会では、ど正論を語る有名人がいなくなった、誰も何も言わなくなった。それらの「しわ寄せ」が学校に来ている。

児童や生徒は、教育のベースを持たず、倫理においてはその語句すら知らない。受験以外に学習の意味を感じていない生徒と教師。そういう場所で、全責任を背負わされている現場の教師である。やはり、過酷に過ぎる。

 

さて、対策は、教育のベースを整備することと、学校での働き方を見直すことであろう。

小中学校の時代に、道徳や倫理を身に付ける体系が必要であろう。学校だけではだめだろう。社会全体で考えないとならない。また、学校での働き方は、児童と生徒の拘束時間短縮、地元のスポーツクラブなど学校以外での拘束を行うとか、教師の副業化とかの多様な働き方も検討されるべきだろう。

 

おそらく、現状では、初任給をいくら上げても、ましてや休暇を増やしても、教師になろうとするヒトは増えないかもしれないですね。応援したいと思いますが…。