おそらくこの映画に共感する日本人は1割もいないように思う。


そういった意味で、この映画は、逆説的に言えば、残りの9割以上の日本人に対するメッセージが与えられているとも言える。



冒頭、長野の山林でのシーンは音楽とともに続く。

おそらくここで、「ついていけない」、「退屈だ」と脱落するヒトが3割はいる。

ここでは、観客自身が、この自然の中にいるということをイメージできなければ、最後のメッセージに辿り着けないようになっている。



そして、現在、ブームとも言えるキャンプであるグランピングが話題になる。

地元住民は杜撰な計画で大反対で、

グランピングやキャンプが好きなヒトたちは、ここで脱落しそうだ。

自分達の行っているグランピングやキャンプとは違うもっと自然の多い場所での

お話であって、自分達とは関係ない話だろうという立場でこの映画を見始める。

そうして、この映画のメッセージからは脱落する。これが2割。



グランピング場に反対する地元住民は浄化槽や地下水について博識である。

そういう意識高い系の住民で、移住してきたヒトたちである。

彼らは、自然を守る意識が高い。グランピング場の開発業者に対して嫌悪感を抱く。

その長老である区長は、自分達も長野の山林の開発を始めたヒトの一部であることを理解しているので、開発業者に対しても寛容な態度を示す。

ここが、日本人の理解しにくいところで、さて、「この映画は何を言いたいのだろう」とわかりにくくなる。

大概の日本人にとって、地元の環境に意識高いヒトたちは正義だからである。

よって、日本人はここでまた2割が脱落する。


ちなみに、ヨーロッパのヒトは、移住してきたヒトたちもグランピング場の開発業者と同類で自然を破壊してきたということを理解しているので、この部分では比較的脱落しないように思う。


「ポツ○○家」とか、田舎とか、自然とともに暮らしているヒトたちが自然に対してストレスを与えているというスタンスで紹介することは日本ではないことからそう思う。



そして、少女が帰り道一人で行方不明になり、グランピング開発業者の二人が表面的に長野の自然に共感し、血を見て、気を失って、立ち上がり、倒れ、また、オープニングの風景がでて

そうなるともう訳がわからなくなり、

2割のヒトが脱落して「この映画訳わからん」となる。


そういう映画のように感じた。



そこでメッセージは

「自然はヒトだけのものではない、土地はヒトだけのものじゃない。皆んな考え直せ。

ただ、それはヒト社会には存在しない考え方かもしれない。皆さん考えてみてください。」

というもののように感じた。



そういうメッセージが通じると、この映画は素晴らしく傑作に見える。笑

全部が回収されている映画のように感じるので。