現状、イジメは、小中高と件数が増加して、深刻化し、地方にも拡散している。
教育現場だけでは、すでにお手上げ状態のように見える。もはや、スパイ児童やスパイ生徒の導入も考えないとならないかもしれないようである。
社会問題は常に弱い立場で表面化するが、その病巣は問題の発生現場に留まらない。
ストレスフルな小中高の現場で、疲弊した教師とストレスフルな児童と生徒がいれば、イジメの火種が発生するのもムリはなく、隠そうとする教師と児童と生徒はその火種を処理できるはずもなく…となってしまう。
日本の社会と親は、まだ十分な生命力を備えていない子供に対して個性を求める。
「かわいい!」「好きなことをやれ!」「個性が大事だ!」「何が得意?」「将来何をしたい?」などなど。
一方で学校では、協調性を要求する。制服、校則、朝の全校集会、修学旅行。
個性と協調性の衝突は、狭い教室でのヒエラルキーでストレスを産む。そのランキングがストレスだ。トップの子供は感じることは無い。トップ以外は皆感じている…感じているはずである。戦後の学校は、皆が貧しく、個性もヒエラルキーも無い、皆で豊かになろうと、不味い給食を食べて、遊び、一体化した。幼年期の個性が認められないという訳ではないが、それはひとまず置いといて、クラスや学校が一体化できる空気が必要ではないか。
結論を言えば、やはり教育の考え方が基本的に間違っている。
ヒトの成長は、まず生命力を付け、社会を構成する力を付け、その社会の課題を解決するための力を付けるというのがベースである。つまり、身体を使って自然の中で遊び、友だちと仲良く遊んで人を好きになる気持ちを育てる、それから、社会問題を解決するための学問を修めるのである。ムツゴロウさんこと、畑正憲さんがムツゴロウ王国を作るのに移住したきっかけは、お子さんが「虫嫌い」と言ったからだとか。生き物として、ヒトやペットしか認めないヒトに未来が、未来の地球がある訳はない。
現状のように、「ゲーム」としての「勉強」を優先させ、それを個性と勘違いしているのでは、社会が要求する人材とマッチングしないのは当然なように思う。
ヒトが種として、もっと深刻なことは、そういう学校に自分の子どもが通うことを想像した時に、「自分は子どもを持ちたくない」と心に刻んでいるのではないかということである。
実に深刻な日本の問題ではないだろうか。