「倫理」って、ヒトがどう生きればいいかというのを表現したものであって、宗教や哲学に似たものだ。
宗教や哲学と何が違うかと言えば、時事刻々と変化するところかもしれない。
宗教や哲学も、解釈として変化している部分もあるのでしょうが、比較的普遍的なものとされていますよね。
そこで、「倫理観」というと、その「倫理」を個人がどう解釈しているか、捉えているかということでしょう。
さて、あなたはどんな「倫理観」でしょうか?
そもそも「倫理観」などあるんでしょうか?
そう言われても…困りますよね。
倫理社会とかの授業はあったりしましたけどね。
倫理や倫理観って、本やネットで調べようとしても、結構判らないです。
だから、正解って、私も判っていないんです。
私見ですが…
「倫理観」は4つの層でできているように思います。
私の場合は、根底から表面まで、
ー(根底)自然の摂理に関する見方と考え方
ー(その上)社会の摂理に関する見方と考え方
ー(その上)家族や世帯の摂理に関する見方と考え方
ー(表面)個人、自分自身の摂理に関する見方と考え方
こういう各層でできているような気がします。
個人によって、宗教や哲学によって、
その並び順や各層の厚みや中身も異なるのでしょうが…。
一例を挙げます。
「ヒト」ではなく「飼い犬のコロ」の倫理観を考えてみます。
「犬の倫理」は現実にはあり得ない言葉ですが。
ー(根底にあるはずの)自然の摂理に関しては、暑い寒いくらいの感覚しかない。
ー社会の摂理に関しては、時々散歩中にいつも会うよその家の飼い犬との表面的な付き合い程度しかない。
ー家族はいないが、世帯としては、我々飼い主との関係性がある。これは誠心誠意重くみているようだ。
ー個人的には、散歩は必須で、お気に入りの毛布は宝物である。
自然や社会に関しては、極めて関心は薄く、世帯や個人に関しては、極めて関心が強い。
そういう倫理観のように見える。
さて、そういう「倫理観」ですが、
個人で、世帯で、社会で、国家で、磨き上げ、高めるために、報道し、議論し、教育していくことが必要な気がします。
「教育勅語」を教えればいいものではなく、宗教や哲学を学べばいいというものでもない。
自然の摂理を学び、観察し、実験し、考察する。
社会の摂理を学び、観察し、実験し、考察する。
世帯や家族を学び、観察し、実験し、考察する。
個人や自分自身を観察し、実験し、考察する。
そういう一連の考察をずっと行っていくことが必要なように思います。
で、現在は、そういう考察の機会や量が減っている。
個人や自身のことしか、考えない。
家族や社会や自然について、何も考えない。
そういう個人が多くなると、社会に倫理観が不足し、社会が劣化していくように思います。
劣化した社会では、個人の負担がより大きくなる。
つまり、悪循環です。
だから、倫理観を取り戻すには、まず一番大事なのは、自然の摂理について、皆が考察するようになることかもしれません。
まあ、同時に、社会や世帯や個人の摂理(あるべき様子)も、議論していくことも必要でしょうけどね。