彼は人としてのモデルだった。
人としてしっかりしたベースがあり、彼にしかない物の見方と言い方があって、それは皆から愛された。ユーモアとウイットで日本のサッカーの行き先を示した。日本のサッカーの歴史で毎回彼のコメントを聞きたい。この試合について、オシムはどう感じたのか、皆が気になっていたはずだ。とても残念だ。
彼にしっかりとしたベースがある。それは、彼のコメントを聞いていれば誰もがすぐにわかることだが、私が思うには、彼はボスニア紛争やサッカー選手・監督の経験をきちんとした宗教観で答え合わせしながら生き抜いてきた人のようだ。そういうベースに裏打ちされたサッカーや社会に対する彼の哲学はブレない。頑固な年寄りは山ほどいるが、ブレない大人というのはそう多くない。
彼は、日本代表監督になって、日本代表のサッカーを「とことん考えながら、走る先に未来がある」と説いた。おそらく現時点でワールドカップ優勝の可能性があるとしたら、その通りだと思う。全てのプレーヤーがしっかり考えて、チャンスを拡大し増やし、ピンチを減らして対応するサッカーだ。
彼のエピソードで有名なもの一つが、「水を運ぶ人」だろう。
自分がボールに触れるとか、点をとることばかりを考えるのでなく、他のプレイヤーにいいプレイをさせるために、チャンスを増やすとかピンチを減らすべく考えて走る鈴木啓太選手を評価するコメントを残したものだ。キリスト教を知っている人は、「水を運ぶ人」というのが誰のことを指しているか理解されているだろう。
また、私が最も印象に残っている彼のエピソードは次のようなものだ。これも有名だ。
彼が監督を務めていたチームが大切な試合で、終了間際に訪れた得点のチャンスを守備的ミッドフィルダーが決めらきれなかった。
インタビュアーはオシムに「あの場面でその選手が決めていれば」という恨み節を要求し、サポーターの共感を得ようとした。
しかし、オシムは、その雰囲気を感じて、そう言わなかった。
彼は言った。「あの厳しい試合のあの時間帯で、あの場面(ゴール前)に現れるほど走っていた○○(守備的ミッドフィルダー)を私は最大限に評価したい」と。
試合が終わるまで、勝利を求めて、気が遠くなるまで走り続けることは、確かに一番大切なことかもしれない。
オシムは常に本質を言う。要らないセリフを吐かない。本当に確かな人間だった。失うのは、全く惜しい。合掌。