湘南HG
僕は今、車を走らせている。行く先は決まっていない。
というのも、車を走らせているのは、1才になる息子を寝かしつける為だったからだ。あいにく今日は妻が朝から、出かけてしまっていた。朝食をとって1時間くらいたった頃だった。それまで一人で遊んでいた息子が、眠くなり始めたのか急にぐずり始めた。息子を寝かしつけるすべを知らない僕は、泣き止まない息子を見て動揺したが、すぐに妻に言われた言葉を思い出した。
「ぐずったら、車に乗せればすぐ寝るから」
僕は妻の言葉通り、泣きわめいている息子を抱え、車に乗り込んだ。
車のわずかな振動が心地よいのだろうか?車を走らせて五分と経たないうちに、息子は寝てしまった。子供を寝かしつけるという、目的を達してしまった僕は、車をどこにむかって走らせればよいのかハンドルを握りながらぼんやりと考えていたが、気がつくと走りなれた海沿いの国道134号線を車は走っていた。
葉山から逗子海岸に抜けると、海岸線が広がった。海にはウィンドウサーフィンの帆が点々と浮かび、海面を行き交っている。 休日の湘南の海を眺めていると、自分も少し海岸を歩きたい気分になった。かといって、車を止めるのにちょうどよい場所は見当たらない。車をどこに止めようか考えている内にも、車は逗子海岸を走り抜けて行った。じきに、海岸も見えなくなるところの道路脇に黄色いバスが僕の目に映った。
僕は反射的にハンドルを切り、車を止めた。黄色いバスには赤い字で「Submarine Dog」と書かれてある。ここは、2階建てバスを客席にしたホットドッグショップだった。以前から気になっていたが、一度も立ち寄ったことはなかった。こんな時でもないと立ち寄ることはないだろうと思い、とっさに車を止めたのだ。駐車場には僕の車があるだけ。人影もなくあたり閑散としていた。後部座席のチャイルドシートをみると、息子はぐっすりと眠ったままだ。僕は細心の注意を払いながら車のドアの開け、車を降りた。店舗に近づいてみると営業は12:00からとかかれた看板があり、シャッターは降ろされていた。自分の時計に目をやると、時計は11:59分を示していた。
「もうすぐ12時か」と僕は一人呟いた。
しかし、開店1分前だというのに、店が開きそうな雰囲気は一切なかった。シャッターの向こう側で物音もせず、人の気配は感じられなかった。ただ、耳を澄ますと、FMのラジオの音がかすかに聞こえてきた。ノイズと海の風にまじりながらもDJの声が僕の耳元まで届いた。
「ハイ、みんな元気かなぁ~。12時になりました。今週もSHONAN PREEZE始まりました。さっそくですが、今日の1曲目はハードな曲でCJクルー・フィーチャリングジョルジオでリヴィン・ラ・ヴィダ・ロカです。どぞ」
♪チャ―チャッチャ、チャチャ、チャッチャ―♪
「あ、これ、郷ひろみがカバーして歌ってた曲か」
その時だった。僕は背中に悪寒を覚えた。
「誰かが僕を見ている」
僕は恐る恐る振り向いた。
「こんにちは」
そこには、毛糸の帽子をかぶったおばあさんが立っていた。
「あなたは・・・」
「覚えている、私のこと」
どこかで会ったことのあるおばあちゃんだった。だけれども、思い出すことができない。
僕はそのおばあちゃんのことをぼんやりとは覚えているのだが、なぜか思い起こしてはいけないという不安にかられた。
「誰だ、誰なんだ。あなたは・・・」
おばあちゃんは僕に微笑みかけていた。車から子供の泣き声が聞こえてきた。何か悪い夢を見ているような気がした。早く車に戻らなければ。気ばかりがせいて、体が思い通りに動かない。僕はいつしかその場に足から崩れ落ちてしまった。意識が遠のいていくのがわかった。その代わりにおばあちゃんとの記憶が徐々に僕の頭を支配し始めた。
「そうだ。この人は十年前の・・・」
1995年、9月。僕は22歳、大学4年生だった時に、ここ逗子海岸を訪れていた。というのも、大学の授業で徳冨蘆花の『不如帰』という作品の存在を知ったからだった。『不如帰』とは明治時代の悲恋物語、その物語の舞台となったのが逗子海岸だった。逗子海岸の近くには物語の主人公、浪子の名前にちなんだ浪子不動なるものがあることを聞き、僕は逗子海岸を訪れたのだった。
浪子不動は逗子海岸沿いに国道134号線を鎌倉方面にむかって走ると、ちょうど海岸が終わる山側に浪子不動は建っている。
浪子不動を訪れた僕はその姿を写真に収めようとしたが、お堂の脇にあった「浪子不動」と書かれてあるのぼり旗が倒れていたことに気がついた。僕が倒れたのぼり旗を立て直そうとすると、僕に手を差し伸べてくれる人がいた。赤い毛糸の帽子をかぶった、かわいいおばあちゃんだった。
「どこからきたの?」と、おばあちゃんはかわいらしく僕に話しかけてきた。おばちゃんのその問いがきっかけで僕達は話し始めた。僕が『不如帰』のゆかりの地である、浪子不動を以前から訪れたかった旨を手短に話すと「そう」とおばあちゃんは頷いた。僕は、これは地元民から「湘南」について聞けるいい機会だと思い、いろいろと尋ねてみることにした。
僕達はベンチに腰掛けた。すると、おばあちゃんは「はい」と言って僕の手のひらに飴玉を二つのせ、さらに手をギュッと握りしめてきた。
「ありがとうございます」
僕はもらった飴玉をなめながら、おばあちゃんの話しを聞いてみるうちに、なんとなく違和感を覚えてきた。
「この間もね、ここを訪れた若いカップルがいたの。バイクで長野の方からわざわざ来たみたいなの」
「へぇ。みんな湘南に来たいんですね」
「ううん、それだけじゃないの。あなた『おこげ』 (※)って映画知ってる?」
※『おこげ』=「おかま」にくっつく女の子のお話し
1992年 中島丈博監督 清水美砂主演
「聞いたことはありますけど」
「その『おこげ』って映画のロケが逗子海岸であったの。それでゲイのエキストラを集めてねぇ、その名残でここにゲイが集まるようになったの」
「えっ。じゃあ、さっきの長野からきたカップルって言うのは、男同士?!」
「決まってるじゃない」
な、何かが違う。僕はなんか、踏み入れてはいけない世界に足を踏みこんでしまったのでは・・・。
「薔薇族とかサブとかにも載ってね、結構有名になっちゃった」
薔薇族ぅ~、サブって、一体この人は??
赤い毛糸の帽子にごまかされていたけど、よくよく見たら、うっすらと口元にヒゲのあとが・・・。
僕は勇気をふりしぼって声をかけた。
「おばあちゃん・・・」
「いやだぁ、私は男よ」
「で、ですよね。あはは」
「おほほほ」
危険を察知した僕はどのようにしてこの場を切り抜けるか考え始めていた・・・。
これ以上、このおじいちゃんと一緒にいては危ない、と思った時だった。
「これから披露山公園までのハイキングコースに行くんだけど、あなたもいかない?」
ど、どうする。
このまま、一緒に行ったら、
きっと僕はゲイだと思われてしまう。
だけど、ある意味、湘南を違った面でとらえることができるのではないか?
そんな好奇心も芽生え始めた。相手は、おばあ…いやいやおじいちゃんだし、いざとなったら走って逃げりゃいい。よっしゃ、ここまできたら湘南の奥の奥まで探索じゃ!
と僕は決意を固めた。
「はい」
僕は元気に返事をした。
僕はおじいちゃんと二人で浪子不動から披露山公園へ歩き始めた。
どのくらいで、披露山公園についたのであろうか?
はっきりとは覚えていないが、ひどく長かったような気がする。
僕は、なんでこんな見ず知らずのおじいちゃんとハイキングしているんだろう?
ふと疑問に思い、横を向くと、そこには満面の笑みで歩いているおじいちゃんの姿があった。
「もう少しよ」
「は、はい」
披露山公園に到着した。
そこからは相模湾が一望できた。
「あれが裕次郎灯台よ」
「あれですか」
と言って僕が指差すと、
「ううん、もう少しこっち」と言い、おじいちゃんは僕の手に触れた。
ゾ、ゾ、ゾッー。
「も、もう少しこっちですか」
と僕は顔をヒクヒクさせながら答えた。
披露山公園には、猿や鳥がいて、ちょっとした動物園となっている。
それを一通りおじいちゃんと眺め、やっとおじちゃんから解放されると思っていたら、
「すぐ近くに江ノ島がきれいに見える公園があるの?行きましょ」
と、おじいちゃんが首を少し右にかしげ、微笑みかけてきた。
「い、いいですね」
もう、僕はいいなりであった。
そこから目指したのは大崎公園。
途中には有名芸能人が住むという高級住宅街を通り抜けた。
その住宅街にあった売地がたまたま僕達の目に入ってきたときにおじいちゃんが言った。
「あなたお金持ちになってあそこに家を建ててよ。
そしたら私、お手伝いで働きに行くから」
「いやいやいや」
「あははは」
「ははは」
僕はもう笑うしかなかった。
大崎公園に着き、見晴らしがよいスポットに行くと、
若いカップル(普通の男女ですよ)がベンチに座っていちゃついていた。
おじいちゃんはそのカップルなど目に入らないのか、
ズンズンとカップルのいるベンチの前に出て行った。
僕はカップルの邪魔をしないように後ろの方で待っていると、
「ほら江ノ島がきれいでしょ」
と後ろにいる僕にむかって話し掛けてきた。
「そ、そうですね」と控えめに僕が答えると、
そのカップルが振り返り、僕を不思議そうに眺めた。
すると、おじいちゃんはカップルが見ている前で、
「こっちにおいしいみかんがあるのよ」
と言って近くにあった竹やぶに入って行った。
えっ。なぜ竹やぶ?
もしかしたら、その竹やぶの中はホモの巣窟ぅ~?
「フォー」なんていって、レーザーラモンHGが腰を振りながら現れたら、僕は一体??
さすがにこれ以上は危ない。
そんなことが僕の頭をよぎった。
はっと、素に戻ると、
一人取り残された僕の行方をカップルが注視していた。
ど、どどうしよう。
こういう時はどういうリアクションがいいのだろうか?
このまま去っていくのか・・・
おじいちゃんに着いていくのか・・・
ええい、ままよ!
「えっ、そんなとこに、おいしいみかんがあるのですか?」
と言いながら僕も竹やぶに突っ込んで行った。
竹やぶの中は、さっきまでいた公園とうって変わって、薄暗かった。
おじいちゃんは大分先の方にいて、すでに手にはみかんを持っていた。
おじいちゃんに追いつくと、おじいちゃんは手に持ったみかんを僕に手渡した。
僕は、いつマッチョメンが飛び出してくるか恐れおののきながら歩いていたが、
気がつくと竹やぶを抜け、車のエンジン音が聴こえ始めた。
潮の匂いととともに波の音も聞こえてきた。
ここは?やっと安全な場所にたどり着いたのか?
そこは国道134号沿いの逗子海岸の駐車場だった。
やった。僕は無事に生還できたのだ!
僕はおじいちゃんとそこで別れた。
おじいちゃんは寂しげに僕に手を振った。
僕を見つめるおじいちゃんの目は
「ここはあなたが来るべき所ではないのよ」
と僕に語りかけているようだった。
「さよなら、おじいちゃん。さよなら、さよなら・・・」
気がつくと、僕の頬の上を一粒の涙が落ちていくのがわかった。
涙をぬぐったその時だった。僕は自分が車中の運転席にいることに気がついた。CJクルー・フィーチャリングジョルジオのリヴィン・ラ・ヴィダ・ロカの最後のフレーズがラジオから聞こえてきた。
あれ?僕は確か車から降りて、そして・・・。
車のボンネットの上に、みかんがひとつ置いてあるのが見えた。僕は車を飛び降りて辺りを見渡した。
さっきのおば・・・、いやおじいちゃんは十年前の、あの時の・・・。
ホットドッグ店の周辺には人影はなかった。ただ、国道134号線を走り抜けていく車のエンジン音がそこに響いているだけだった。
(完)
※この物語は以前このブログで書いた、
を慌ててつなぎあわせたものです。