「ロシアピアニズム研究日記」

「ロシアピアニズム研究日記」

ピアニスト宮崎翔太による公式ブログです。

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これから時々、シリーズで、フェインベルクの「芸術としてのピアニズム(原題: Пианизм как искусство )」の私自身による翻訳を掲載していこうと思います。


充分なロシア語力のある方のチェック等は経ておらず、また状況によってGoogle翻訳等の助けも借りつつ自分の理解のための素人訳という代物ですので、誤訳等の問題点が多分に含まれる可能性はご了承の上でお読みください。

また、語学的な私の理解の鮮明度に応じて、原文との対応が細部で不十分/不正確だったり、直訳的で訳文として熟れない部分があったりすることも、ご承知おき下さい。


なお、私自身のロシア語学習の一環も兼ねて進めますので、原文をしばらく暗唱等で学習した後に翻訳作業をするため、訳文掲載の更新ペースは非常にゆっくりになるかと思います。


今回はナタンソンによる序文の冒頭部分からの1ページ分程になりますが、このまましばらく伝記的な回想が続きますので、次回をこの続きの部分にするかは検討中です。

(もう少し本題に踏み込んだ具体的内容の箇所について、気になるところを断片的に訳していく可能性もあります)


なお、シリーズの進行途中で質の良い邦訳がどこかに発表されたりした場合は、一旦そちらを読めば済みますので、本ブログでの掲載は打ち切ります。

ロシア語はもちろん、邦訳は無いものの英訳は出ていますので、早く正確に内容を知りたい方はそちらをお読み頂くのが良いと思います。

なお本シリーズについては、私の酔狂な趣味によりロシア語原文のみ参照しての訳となります。


もし間違い等に気が付かれた方は、私と他の読者の皆様のために、是非ご指摘いただければ大変幸いです。



原文はブログには載せません。

()内は訳者による補足です。

/は型式段落の位置を訳者が便宜上示したものです。


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この傑出したソヴィエトの作曲家、ピアニスト、そして教育者の名前は、我々に、そして異国においても、よく知られています。

フェインベルクは、ソヴィエト音楽のパイオニアの一人であり、彼らの中で高い目標と理想を主張した一人です。

彼の活動は半世紀以上続き、そして(その活動は)音楽芸術の全ての分野において深い痕跡を残しました。

彼は繊細な芸術家で、豊かな才能があり、そして完全でした。

彼は音楽を作曲していても、楽器を演奏していても、生徒たちと勉強していても  それら全てにおいて自身の道を見出し、(それらは)常に彼そのものでした。

彼の音楽についての発言は、長年の芸術的経験の成果です。



サムイル・エフゲニエヴィチ・フェインベルクは、1890514日(26日)にオデッサで生まれました。

4歳で、彼は両親によってモスクワへ送られました。

(この)男の子には非常に早く、音楽的才能が現れました。

6歳の時、彼は大人達がピアノで弾いた全てを、容易に拾っていました。

彼は、後のフィルハーモニー学校あるいは所謂《フィルハーモニー》の教授である、ピアニストのА. Ф. Иенсен(ジェンセン)の元で勉強するために送られました。

ジェンセンは彼の学生たちの中に、クラシック音楽への愛情を目覚めさせました。

フェインベルクは11歳で作曲を始めました。

彼は、彼の最初の作品を先生に見せました。

彼(ジェンセン)はそれらを認め、フェインベルクに、理論についてのいくつかの授業を与え、そして因みに、楽器なしでカルテットの音楽を読むことを勧めました。



1904年、フェインベルクはフィルハーモニーのА. Б. ゴリデンヴェイゼルの元に入学し、そして1年後、自身の教授(ゴリデンヴェイゼル)とともに音楽院へ移りました。

フェインベルクは、音楽院での年月を温かく思い出しました。

彼曰く、ゴリデンヴェイゼルは、学生たちの間で議論の余地のない権限を使用し、彼等に芸術に対しての真剣な態度を植え付けようと努力していました。

彼のクラスでは、創造的で強制のない雰囲気が占めていました。

大きな注目が、古典と新しいロシアの音楽に向けられていました。

ラフマニノフ、スクリャービン、そしてあまり知られていないメトネル、カタールの作品を演奏しました。



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