4月21日新潟日報文化欄の展レビューより
本展は、昨秋四十四歳という若さで急逝した
「イノセンスは過ぎ去った思い出ではなく、暮らし続けるために、いつも探しているこころのあり方」と、五十嵐自身は書いていた。作品の下地に多用されたガーゼもさりげないが効果的で、詩を想起させる表現は作家の本領だったのだと思う。
五十嵐は大学卒業後東京で活動していたが、九〇年代初め、当時新潟で先進的な活動をしていた創庫美術館の企画へ参加、九九年からは
2005年4月21日 新潟日報より
(text:外山文彦)
展覧会案内
五十嵐祥一追悼展
会期:2005年4月22日~4月30日
会場:新潟絵屋【新潟市】
(カフェ&ギャラリーZen/新潟県長岡市)
出演:エベヨシタカ&ヒズバンド 入場料:500円
エベヨシタカ(アコースティックギター&ボーカル/作詩・作曲)
ジュン若月 (ウッドベース)
気持ち水平線
私の庭には、今年の夏には毎日のように、夕顔がたくさんの花をつけた。春に、妻と買い求め、蒔いたのだ。そのおおくの白い花の、かれんさというか美しさを写真におさめようと思ったが、夕暮れの光は弱く、フラッシュの使い方がわからなかった私は長時間露出を行い、その結果手ブレのプリントが手元にのこり、夏は過ぎた。
私の部屋には、作りかけの絵の材料が床の上にある。作品は美しさを前にして醜く、私の気持ちを逆撫でする。作品はモノではなく夢である。それはけっして空想されず、想像の契機として惣然と変貌する。だから私はプランや設計図を持たず見積書も提出できずに、ただその前にいる。作品をつくることは日常生活のあるべきモラルを再考させる。つくられたシステムを強要され許容していることに気づき、金儲けだけが生活のすべてではなく人間のすべてではないという当然のことを知る。
花は生きるために咲き、またそれ自身が生そのものであり、私はそれを美しいと思う。作品はだれかの生を前提とするコミュニケーションであり、それはシステムではないので私は永遠にたどりつけない地平を志向して、手と眼で思考する。
(五十嵐祥一,1988年11月27日)
ノプラマ・アート展「ラフィン・ザ・ヌード」のカタログ掲載文より抜粋
雑誌記事より
月刊マイスキップ4月号「アート日和」より
44歳の若さで昨年急逝した
コンサートは、高校時代からの親友である江部佳隆(エベヨシタカ)さん率いるバンドによるもの。江部さんは
昨年の12月号で五十嵐祥一さんの書いた文章を本欄で抜粋して紹介したところ、面識のまったくなかった方から、心に残る文章がとても印象的で是非お話をしたかったと、お便りをいただきました。文の力は大きなものです。今号でも古い冊子の中から、五十嵐さんが江部さんに関して書かれた一文を掲載したいと思います。1988年、東京のザ・グラウンドというホールでのソロライブに寄せたものです。
「きみの唄の前に坐りこんで。 -江部の唄に-」
五十嵐祥一
新潟の街は日本海に臨む河口にひろがっていて、ぼくたちの通っていた高校もそんな平らな空の下にあった。木造校舎に終業ベルが鳴りわたると、よく海辺へ遊びに行った。街中ではまだ何もすることのなかったぼくたちにとって、初夏の人気のない海辺の、光と風と波の音はパラダイスだったのだと思う。海は、焦燥を癒すのではなく、より促し、「おまえは無力だ。」と言った。
唄は不思議と想像をかきたてる。あるいは、唄をここまで追い詰めたのはぼくたちのせいかもしれない。ハートを探ること、それを放棄した安易な快楽が「現代美術」にもたぶんに感じられる不毛を招いたのか。
かれの唄にはポーズがなく、それ故にぼくをうろたえさせる。唄の前に坐りこんでいるぼくに、それは「やってくる」のではなく、ぼくが「行くか、行かないか」の課題を得る。
ジャンルという塀が無意味であることを考えた。それはひとつの業界用語でしかなく、全うなコミュニケーションを志向することを阻害するだけだ。マルセル・デュシャンのハートをもう一度ソシャクする必要があるのではないだろうか。
またいつか、かれの唄に会いたい。不安定でいて光るこの振幅が、床にまるいダウンスポットのなかに、残ったままでいる。
(1988年)