前回までで、将棋が才能ゲーである理由を3回に渡って考察したが、今回はその総括的な意味で記事を書こうと思う。

現在、藤井二冠誕生の影響で将棋界がメディア等に取り上げられる機会も増えているが、だからといって競技人口は増えないと断言できる。百歩譲って増えるにしても、それは一時的なもので、大半の人間がすぐ辞めていくことになるだろう。増えるにしても、盛り上がりと比して相対的に増えるとは思えない。その理由は以下の通りである。

 

①将棋の超才能ゲー、糞ゲーすぎるゲームバランス

これについては過去3回の記事で取り上げた通りである。この理由により、万人受けするゲームと言うには程遠く、普通の人間は嫌になってすぐ辞めていくことだろう。

 

②将棋連盟のクソすぎる共産主義的仲良しクラブ体質

これは今までの記事で全く触れていない内容だが、折角だから書いておく。

将棋連盟は、排他的な仲良しクラブであると言わざるを得ない。その根拠として、

 

(1)ソフトが力をつけた時代の対応

(2)ソフト指し冤罪事件時の対応

(3)身内による身内のための運営

 

が挙げられる。(1)について、ソフトがまだ弱かった時代には「ソフトがプロに追いつくことなんてない」というような高慢な姿勢が大勢であり、楽勝で勝てますよムードを漂わせていたにも関わらず、ソフトが力をつけはじめると一転して公式でのソフトとの対局を規制した姿勢のことを指す。電王戦でプロが負けるようになると、回が進むに連れて事前貸出ルールを追加しはじめたあたりは、非常に無様である。ただ、そのようなルールを提案すること自体は問題でなく、負けるようになってから提案しだすのが、最高にダサい。なお、このような後出しについては、ソフトとの公式対局を規制しはじめた経緯(負けそうになってから規制)でも見られ、自分たちの地位を守ることに必死な組織体質が顕著である。ソフトが力をつけた際にも、結果的に敗れはしたが同じ姿勢を貫いていた囲碁界とは、雲泥の差である。

 

(2)について、普通の組織であれば何か問題・不祥事が発生した場合、第三者委員会等をその時点で設置して精査するのが当たり前であるし、それこそが組織としてあるべきガバナンスの形である。ところが彼らには将棋が強い=正義という尺度しか存在しないので、そのような場合も強い棋士の意見が絶対と判断し、実力上位の棋士だけでコソコソ集まって雑な判断をしたのである。これは、将棋界という、将棋だけ強ければ全てが許される極めて特殊な世界で生きてきたことで、彼らにはまともな社会常識が身についていないと言わざるを得ない。一致率からのソフト指し判断は統計学的知識が求められる話であり、中卒高卒が大半である彼らの出る幕はない。

 

(3)について、将棋界は他の競技のプロと比較しても、極めて共産主義的なシステムにより運用されている。具体的には、順位戦参加による基本給支払システムにより、フリークラスに転落さえしなければ生きていくのに困らない訳である。そして、ラッキーで三段リーグを抜けた人間以外は、勝ち星提供要因である窓際ロートルが一定数存在するC2クラスで、降級点を3つも取るなんてあり得ない。

このようなシステムは、他の競技プロには皆無であり、「勝てない=廃業」が競技プロの原則であることは言うまでもない。稀に将棋界は稼げない世界であるという主張があるが、こんだけ身内を甘やかす運営がされているのだから当然である。他の競技プロ並に稼げる世界にしたいのならば、勝てない身内を切り捨てるような「勝てない=廃業」のシステムを構築すればいいだけの話であるので、そこに同情する余地など微塵もない。

また、将棋連盟上層部が「対局との両立ができない」等と泣き言を言っているみたいだが、それならば(場合によっては定款を変更して)役員に外部の人間を取り入れて、事務局運営はある程度一任したらどうか?そのほうが社会常識のない棋士が運営するより、まともな運営がなされると思うのだが。もっとも、その場合今みたいに自分たちを徹底的に甘やかす運営は難しくなることが想定される。

 

-最後に-

現在の将棋ブームは藤井二冠誕生によるものだが、そもそも論としてプロの対局なんてほとんどの人間は見てても全く理解できない。プロの対局を理解できるのは、アマチュアでもそれなりの実力(競技レベルで将棋をやっていると言える将棋倶楽部24の初段以上)が最低必要である。これは、東大の入試問題を解答・解説込みで読んだところで、並の受験生では理解するのが難しいのと同じような話である。

だからこそ強引に盛り上げるために、将棋とは関係のない食事を取り上げたり、王位戦で見られたそこまで意外でもない同飛車成を、神の一手だなんだと強引に持ち上げたりしているのだろう。