2008-02-23 10:09:10

<臨死体験>

テーマ:霊性の科学
立花隆著「臨死体験」上下巻を読了した。臨死体験には共通した一定のプロセスがあり、この体験を経ると、多くの人は死に対する否定的な感情がなくなり、死を肯定的に受容できるようになるとともに、自身の霊性と信仰心に目覚めるという。立花氏は、これを脳内現象説と、現実体験説の二つの解釈が成り立つことを論じ、肉体から遊離した魂の現実体験であるという後者の説に対し、巻末で疑問点を明示した。これに対し、私的に返答を試みてみる。

第一の問い
体験の具体的内容に個人差と文化による差がありすぎるのはなぜか

そもそも、霊的存在への回帰が、共通過程を経なければならぬ理由自体、定かでない。これは、普遍的な共通過程をたどるものであるはずだという一方的な推論に過ぎず、必要条件ではない。
霊的存在としての経験は、それを現実体験と表現してよいものかどうかすらためらわれるが、意識のエネルギーの流動性がもたらす現象に還元されるものであり、これを言語化して表現する際、個々の脳に記憶されたイメージや言語を用いるため、解釈が多様化するだけのことではないだろうか。
所詮は、生ける人間のなしうる表現であり、経験そのものの直接的な開示ではない。
コア体験を言語的に表現、理解しようとする限り、普遍性を見出すのは困難であろう。

第二の問い
夢の中と同様、突然場面が切り替わり、瞬間的に全く違うところに行くのはなぜか

途中のプロセスがあってしかるべきという主張もまた、一方的な推論に過ぎまい。霊性の次元では、リアルな世界での時間と空間の概念を受け付けないということが既に指摘されており、途中のプロセス自体、はじめから必要とされないのは不思議なことではない。
第一、現実体験説なる呼び方にも問題がある。現実の定義すらなく、霊的次元の現象を現実なることばで表現することに無理があるだろう。
脳内現象なら説明可能とあるが、そうした唯物的視点に立脚せずとも、人の意識は瞬時に星雲を駆け抜ける。意識の広がりには時間と空間の制約がなく、その起源が宇宙に偏在する神の意識であるなら、指摘されるようなプロセスは不要となる。

第三の問い
魂が臨死体験の意識的経験主体であるとすると、魂それ自体に視覚、聴覚ほか、考える力も含めたすべての能力があることになる。魂にもともとそのような能力があるなら、感覚器官や脳はそもそも不要ではないのか

肉体は有限にみせかけた現象世界で神が遊ぶためのツールであり、拘束具のようなものだとすれば、肉身をもつことが、この有限世界で戯れるためのルールである。霊的存在にもともとそのような能力があるなら、感覚器官は必要ないはずという主張は、歩ける足があるなら、自転車や自動車は必要ないだろうといっているようなもので、意味をなさない疑問ではないだろうか。

第四の問い
死後の世界であるはずの臨死体験において、なぜ、未だ生きている人に会うのか

霊的存在としての意識が、その全てを肉身化しているとは限らないという解釈もある。マイケル・ニュートン「死後の世界を知ると人生は深く癒される」によれば、エネルギー存在としての意識は、有限世界に現れる際、それらを部分的に肉身化することを指摘している。つまり、死後の世界で会う人物は、有限世界に身を置かないエネルギー体のイメージ化という解釈も成り立つ。

第五の問い
現実体験では説明のつかない体外離脱があるのはなぜか

生者の体外離脱や自己像幻視と、臨死体験に生じる体外離脱を同一次元で語ることに無理があるのではないだろうか。物質としての肉体は、無限存在としての霊的存在が有限世界で生じる幻を観測するための道具であるとみなすこともできる。この道具との関わりを保った状態では、有限と無限の境で生じる矛盾に遭遇するのは当たり前である。体外離脱での経験と、リアルな世界とのギャップも、もともと客観的現実なるものが存在しないのだとすれば、それほど理不尽なことではない。どちらの世界も、主観に修飾される世界であり、その修飾の受けつけ具合の差が、二つの世界の相違となって現れるだけではないだろうか。そして、修飾の受付具合の差をもたらす原因は、顕在意識と潜在意識の不一致によってもたらされるのだと解釈される。意識そのもの重層性が、リアルな世界と体外離脱後の世界に差異を生ぜしめるのだと。

そもそも、霊や魂の世界とリアルな世界という二元論的解釈自体、唯物的世界観の延長にあるといえるだろう。
唯一の至高存在、無限意識のエネルギーが、意識と物質双方に現れているだけであると一元的に解釈するなら、つまり、物質もまた、意識の産物であると解釈するなら、この世に真に不思議といえることは何一つとして存在しなくなる。
科学は、現状の客観的手法なるものに固執する限り、ウィリアム・ジェームズの法則から逃れることができず、霊性を証明することはできないし、否定してしまうこともまたできない。
唯物論的に脳内現象説を受け入れることができたとしても、それで説明できるのは所詮HOWに過ぎない。なぜ、そのような現象を引き起こすシステムを、人間はその脳に構築したのかについては決してこたえることができない。人間が、ただ生きて飯を食らい、子孫を残して死ぬだけの存在なら、そのようなシステムを脳に持つ必要があるのだろうか。脳内現象説は、決してWHYに応えることはできないのだ。
結局、臨死体験は、どのように分析をすすめても、最終的に個人の信仰を切り離して解釈することができない、極めて主観的な意味しか持ち得ない現象であるのかもしれない。
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2006-05-11 11:56:05

<美容外科小話>

テーマ:霊性の科学

カツコは22歳。お世辞にも美人とはいえぬ。もっとも、それはカツコの生きる時代での美的基準においてそうであるというだけの話であり、平安時代であれば絶世の美女であったかも知れぬ。しかし、それは屁理屈。彼女はまぎれもなく不細工そのものであった。
同じ学歴、同じ年恰好であれば、就職は勿論、結婚にいたるまで、より美しい者が得をするに決まっている。その時代で美しいに越したことはないのである。
カツコは現実主義者であったため、こうした社会的事実から自分をごまかして生きようとは思わなかった。即ち、迷わず美容外科のごやっかいになったわけである。

かくして彼女は目の覚めるような美女に生まれ変わった。万々歳。
しかしそれもつかの間、しばらくすると、再び美容外科のごやっかいにならねばならなくなった。老けてしまったからである。今度は若返りの手術が必要だ。
最先端の美容外科手術が施され、彼女は見事、若返ることに成功した。万々歳。
しかしながら、残る人生、彼女は歳をとるたび、そんなことを何度も繰り返さねばならなかった。

さて、こうしてめでたく何十年かの人生を全うしたカツコであったが、死んでから神様のもとへ行くと、次なる人生がすでに用意されているという。
あわてふためいて再び現世に生まれてきたカツコ。
今度の人生はタツコという名であったが、違うのは名ばかりではなかった。なんと、今生での彼女は絶世の美女として人生を歩むという幸運に恵まれていたのだった。
ところが、タツコは22歳を迎えたところで交通事故にあってしまい、せっかくの美貌に傷がつく羽目になってしまった。 顔やからだについた無数の傷。それらは奇しくもカツコに行われた美容外科手術部位に寸分たがわず位置していたのだが、前世の記憶をもたないタツコにはそれを知る由もない。

彼女は再び、いや、タツコとしてははじめて美容外科のご厄介にならねばならなくなった。かくして手術は成功し、タツコは再び美貌をとりもどすことができた。万々歳。
ところが、これに味をしめてしまったタツコは、それからも再々手術を繰り返すことになった。勿論、若返りのためである。
そうしてなんとかタツコとしての人生を全うしたのだが、彼女が死んでから神様のもとへ行くと、またもや生まれ変わりを命ぜられてしまった。

今度の人生はカツオ。そう、男としての人生である。彼は面食いで、結婚するなら絶世の美女と決めていた。かくしてほどよい年頃で彼は思うような美女にめぐり合うことができた。万々歳。
ところがこの彼女、カツコと同じ整形美女であったのだった。。。

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2005-11-29 08:29:49

続編No.57<思いの命>

テーマ:霊性の科学
人の意識には、二つの素因があると私は考えている。一つは、輪廻を繰り返す意識の主体、もう一つは、肉体が先祖代々受け継いだ思考や嗜好の傾向だ。これらの素因は、それぞれに、前世の意識、祖先の意識を従えており、この二つが結合して、新たに無垢な素因の宿った状態が、人の誕生であろうと解釈している。
よって、誕生時、人はゼロからのスタートではなく、前世や、その肉身のもつ特性に、ある程度影響される運命にあると考える。
このことは、単一にみえる人の意識が、実は、こうした複数の意識の複合体であり、極めて重厚な存在であるということを意味している。

霊能者による霊視は、これら複数の意識のうちの何れかを人格化させているのではないだろうか。つまり、特定個人に付随した様々な思念を人格化、視覚化させる再生器をその裡に宿しているのが、霊能者であるということだ。
したがって、ご先祖の誰かが守護霊として認知されたとしても、その転生意識としての主体が、そこにあるわけではないと解釈される。
我々には、もともと、様々な「思い」や「念」が宿っており、祖先から受け継がれた良きカルマ、あるいは本来の転生意識が備えている良きカルマが、守護霊、指導霊といった形で、認識されるだけなのかもしれない。
同様に、地縛霊といった存在も、そこに転生意識の主体があるわけではなく、残された強力な思念が、その場所に付帯しているだけだと解釈される。再生器を宿した人間によって、残留思念が人格化されて認識されたものが地縛霊というわけだ。

結局、人の思いは、それだけで一つの生命であり、死者は生者に思いを託すことで、その裡に生きながらえるのかもしれない。霊能者が死者と語る際、それは託された思念を人格化してとらえているのだと考えられる。我々の思念は、良きにつけ、悪しきにつけ、生きているというわけだ。そして、その思念は、いつの日か現世で具現化されるものでもあるのかもしれない。
ならば、我々は、己が意識の優れた監視者でなければならないことだろう。
清き思いを宿し、行いをそれに一致させなければ、我々の思いは、いつか、この世のどこかで、誰かを傷つけてしまうことになるやもしれない。
思いと行い、どちらも清くなければ、愛の復権、神の復権は遠いといえるだろう。

人の思いが現世に生命を宿すなら、我々の思い描く対象しだいで、ありえない奇跡すら生ぜしめるかもしれない。いつの時代も、我々はありえないテクノロジーを具現化してきたのだ。その原動力こそ、こうした「思い」によって生み出された命であったとはいえまいか。
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2005-11-25 08:28:27

続編No.55<超能力とは>

テーマ:霊性の科学
超能力と一口にいっても、その種別は多岐にわたる。大きくわけて、PK(念動力)などの能動系と、テレパシーなどの受動系にわけられよう。ここでは能動系の能力について、主に言及する。

超能力を語る場合、まず、物質と人の意識との関係に着目する必要がある。私は、人の本質は、その意識の奥深くに宿す神性であり、生命の本質こそ、その逆の性質を有するエゴであると説いた。無限の神が、その客体として有限な生命を表現しているに過ぎないという概念である。

一方、神を宿す意識が人にしか宿らないかといえば、私はそうではないと考える。あらゆる生命、非生命に神の意識は宿っており、神を最も高次で表現できる存在が人であるというに過ぎないということだ。
つまり、人の意識は神の動的意識の最たるもので、無生物のそれは、神の静的意識を宿しているのだと解釈されよう。これは、あらゆる存在に意識とよべるものが存在するという、アニミズムの思想や、神の遍在といった概念にも矛盾しない。
他方、人の動的意識が物質から影響を受けることは、脳の器質的異常が狂気を生み出すことで理解できるかもしれない。また、薬の摂取によって、人の肉体のみならず意識に影響を与えることからも、そのことを部分的に証明していると考える。
結局、人の意識は、物質から影響を受けるということだ。

では、逆に人の意識は物質に影響を与えないのだろうか。病に冒された患者が、医者の予想をはるかに超えて回復することが時にある。また、生命現象は確かに物理化学的現象を伴っているものではあるのだが、肉体を生かす根本原理については未だ解明されてはいない。つまり、臨終に際し、同一の肉体の生死を分ける根本原因については未だ科学的には謎なのだ。であるなら、肉体を生かす根本原因を考える際、そこに見た目の生命現象を越えた意識の存在を仮定するのは、それほど奇怪な発想ではないと私は愚考する。
つまり、人の意識が、その潜在意識の奥深くで生命現象を支えているかもしれないという考え方である。
こう考えると、人の意識が物質に何らかの影響を与えることができたとしても不思議ではなくなる。また、神がこの世界の進化に道筋を与えているのだとすれば、神の手足を見た者がいない以上、まさに、そうした類の力が働かなければならないはずである。
興味深いことに、フリーエネルギーに関わる研究においては、ハチソン効果と呼ばれる現象に、PK能者が意念の力で表す現象と等質の現象が生じるといわれている。即ち、スプーンが自然に折れ曲がっていったり、物体が手も触れずに浮き上がったりといった現象だ。人の意識が無限を宿すことを想起すれば、等質の原理が働いていると考えても不思議ではないかも知れない。

以上より、PK能者が持つ特殊な能力の実在は、人の意識が物質に影響を与える、つまり、物質と人の意識は相互に影響を与え合うという仮説を支持する根拠の一つになるかもしれない。ここから、人の存在は見た目の生命現象を超えており、超能力の実在はその証明になる可能性があると推論されるわけである。

結局、人の意識それ自体は、手足を用いることなくスプーンを曲げることができるといえる。またスプーンに限らず、あらゆる物理現象を引き起こすことができるのではなかろうか。我々の意識は神性から生じる無限のエネルギーの通路であり、蛇口の大きさが、そこから単位時間あたりにとりだせるエネルギーの大きさを左右しているのだと解釈される。つまり、少しずつしか給水できなくても、誰であれ、時間をかければ、バケツを水でいっぱいにすることができるというわけだ。PK能者の場合、通常人よりもこの蛇口が大きいため、短時間に明瞭な物理現象を引き起こせるというだけではないだろうか。

ただ、通常人がこの蛇口の大きさを制限されているのには理由があるはずだ。
たとえば、個々の家庭が町を潤すほど大きな水道管と同じ太さの蛇口から直接引水することを思えば、大変危険なことだ。なぜなら、ちょっとした不注意で家どころか付近一帯が水浸しとなってしまうからだ。
巨大な蛇口にはその分大きな責任とリスクが生じるといえよう。
このことは、我々が物理現象を起こすのに、なぜ手足を用いるのかを説明できる。それは、危険が少なくてすむということと、エネルギー効率が良いからだ。
実のところ、人が手足を動かすという現象も、脳からもたらされる微細な電気信号という物理現象の結果である。けれども、この物理現象を生じさせている原因は人の意識、即ち念であり、心であるともいえる。つまり、人の意識が物質に影響するプロセスが必要不可欠なのであり、この微細な電気信号という物理現象だけで、筋肉に蓄えられたエネルギーを利用できるので、意識にとっては念力でスプーンを曲げるより、手で曲げる方が、エネルギー効率が良いといえる。
結局、我々通常人の蛇口が制限されているのは、リスクマネージメントとエネルギー効率からもたらされた選択であると考えられるのではないだろうか。
状況が変われば、つまり、より多くの直接的な意念の力が必要とされる局面となれば、この蛇口は、今よりずっと拡大される可能性が誰にでもあるのかもしれない。

無論、これらは未だ仮定や推測の域をでるものでは決してない。本格的な科学のメスが入れられる必要はあるのだが、その際に注意すべきことがある。それは、人の存在が抱える不確定性だ。大部分の既存科学は、未だ客観的な再現性を要求する論理の枠組みから抜け出すことができていないが、それはごくごく限られた対象にしか成立しえないものだ。実際、量子力学にみられる不確定性原理において、それは既成事実である。生きた人間を相手にする場合、確実な再現性も普遍性もありはしない。それは、いかなる特効薬も、人によっては毒となったり、無効であったりする事実と大差ないといえる。
つまり、人間というファクターが加われば、「絶対」は絶対にありえないものなのだ。そうした意味で、既存科学が唯物論的で偏狭な思考形態を脱却し、真の謙虚さを取り戻すことができないならば、超能力の謎が解き明かされることは永久にないだろう。
科学が謙虚さを取り戻すためには、まず、個々の存在が学びの謙虚さを取り戻すことが必要だ。私見にしがみつこうとするエゴからの脱却を、個人レベルで実現させることこそ、急務であろう。
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2005-11-25 08:27:49

続編No.54<唯物主義の遺産>

テーマ:霊性の科学
現在、唯物論的な科学が成し得た最大の功績は、霊性の科学における、まがい物の多くを払拭した点にあるといえるだろう。もとより霊性の科学は、論理的、実験的根拠の乏しい性質のものであるため、実際に効能がなければ、淘汰されてしまわざるを得ないからだ。実効性の少ない霊性の科学が淘汰されていくことは、このジャンルを学ぶ者にとって、一つの福音であるかもしれない。もっとも、残された内容が本物であるか否かの判断を怠ってよいというわけではない。やはり、何事にも慎重な姿勢が肝要だ。

とはいえ、私は、ホンモノと思しき超能力者にも心当たりがないわけではない。そして、その方もまた、理想社会の実現に燃えている。
こうした特殊なジャンルを背負って立つ有志に対し、心から賛辞を送るとともに、そこに横たわった可能性を模索してみる。霊性の科学は果たして科学たりうるのか。既存科学との間に調和への糸口を見出すことができるのか。

サヨクに毒され、科学合理主義に凝り固まった偏狭なる輩から、「トンデモ論」に推挙していただける名誉を頂戴することになるかもしれないが(笑)、あえて、そこに挑んでみることにしよう。
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2005-10-21 09:02:09

続編No.26<悟性と共時性>

テーマ:霊性の科学
忘年会など、娯楽の会合において座をつなぐ簡便な方法には、ビンゴゲームがある。このゲーム、毎年経験していると、ある法則に気がつく。
それは、ビンゴを引いた者と同じテーブルに、再度ビンゴを引く者が出やすいという事実だ。ひどい場合、誰もビンゴを引かないテーブルがある一方で、全員ビンゴを引くテーブルがでてきてしまう。
これは、確率的には極めて低い事象であるのだが、現実の世では、統計学者をあざ笑うかのように、こうした現象が起きている。これがいわゆる、実存世界におけるシンクロニシティー、共時性といわれる法則の顕在化である。
この共時性を理性の営みで解明することは難しい。理性によれば、こうした現象は、むしろ起こってはならないこと、あるいは、起こる可能性はあるが、通常はそうそう起こらないことであるからだ。

ところが、私はほぼ毎年、忘年会でこの現象を経験している。ここに、「当りのでたテーブルの同席者には、再び当たりがでやすい」という結論が生まれる。
これは、経験則に基づいた結論で、理性に対し、悟性と呼ばれる感覚的な性質によってもたらされた見解だ。そこには、何ら理性的な根拠は存在しない。
しかしながら、巷には、案外同様な見解を持っている方は多いようだ。
それは、宝くじをどの店で買うのかといった判断によく表れているといえるだろう。通常、当たりくじのでた店から、再び当たりくじのでる確率は、一般的な確率に比べて、特別高くなるわけではない。にもかかわらず、購入者の多くが同じ店を選ぼうとする。これは、多くの方々が、先ほどのビンゴゲームにおいて成立した共時性の存在を感覚的に悟っているからだと私は分析する。
「どの店で買おうが、くじの当選確率は変わらない」は、知性の営みによって導き出された理性による結論であり、「当たりくじのでた店からは、再び当たりくじがでる可能性が高い」は、経験則によって導き出された悟性による結論である。

一方、悟性でしか認識しえないものに、真理や神の所在があげられる。幸運な体験に彩られた幸福な方ならば、神の存在を悟るのは容易であろうが、凄惨な不幸体験を重ねてきた方にとって、それは難しくなってくる場合がある。
このように、経験には個体差がつきものであり、同一の経験から導き出される結論も、主観に負うものである以上、多様化を避けられず、悟性による認識を絶対視することは決してできない。

結局、人の認識は、理性であれ、悟性であれ、主観の枠組みを超越することはできず、真理の所在など、ナンセンスであり、幻想でしかないといえるのかもしれない。
けれども、そうした考え方もまた、理屈の営みに縛られた主観にすぎず、私の悟性は、これに激しく抵抗しようとする。
もっとも、理性による見識が、多数の共有によって客観を構築するなら、悟性もまた、同様に一般認知を構築できるかもしれない。そうした認識が、人の生き方や実生活を支える上で、好ましい影響を与えることができるのだとしたら、それはそれで真理として、我々は受け容れるべきなのではないだろうか。逆に、破壊と悲劇をもたらし、争いの種を作り出すものであれば、いかなる歴史があろうと、断じてそれを真理と容認することはできまい。

悟性の営みの先にある宗教、理性の営みの先にある科学、その中道をいこうとする哲学。これらが互いに調和することで、新たな可能性が開けるように私は感じている。つまり、もともと自然哲学という一つから派生したものを再構築できれば、そこに新たなパラダイムを誘うことができるのではないだろうか。

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2005-06-17 16:36:21

<スプーン曲げ>

テーマ:霊性の科学
「スプーン曲げ」というと「陳腐な話だ。スプーンを自在に曲げる力があるなら、もっとほかのモノを曲げてみろ」
といった発言を再々きくことがある。
実際、この種の発言に対し、当の能力者は辟易しているようだ。
なぜなら、彼らはスプーンを曲げるだけではなく、フォークも曲げれば鍵だって曲げてしまうこともできるし、望まれればもっと別のこともできるからである。
スプーン曲げは、デモンストレーションに用いられた数ある現象の一つに過ぎず、これを胡散臭くしてしまったのは彼らではなく、マスコミである。
マスコミの無責任な論調が、人々の「信じない」あるは「信じたくない」信念を煽って胡散臭くさせてしまっただけなのである。
また、同種の発言に、「スプーンが曲げられても、それが何の役に立つのか」といった指摘がある。
役に立つか立たないかは役立てようとする意思があるかないかの問題であって、それ本来の価値を疑う発言を不用意に行うのは、礼を失した揶揄でしかない。

また心霊治療にしても、これをインチキ手品に位置づけ、それは実証され尽くした事実であるかのように捉える向きもある。
確かに、心霊治療の多くはインチキであることは間違いない。
しかし、意思の力で明白な物理現象を高確率に再現せしめることが可能な能力者は確かに実在し、複数の機関で今も尚、研究され続けている。
それゆえ、インチキが実証され「尽くして」きたという見解には大いに疑問が残る。

実のところ、あるかないかをいうのは、科学的な議論にはなりにくい。
科学は、あるという事実を報告できるだけであって、ないという見識はたった一つの反例さえあればくつがえるものだからだ。本来、あるということを示すのは複数の証人がいれば事足りる。
だがその一方、ないという事実を証明するためには、あるという報告の全てが虚偽であると実証しなければならない。
この意味では、ないという立場は、はじめからやや分が悪い。
それゆえ、科学者の多くは、はじめからないとする側についておかなければ、公平さを保つことができないように感じているのかも知れない。

これまでも、超能力が実在することを示す多くの事実が報告されてきたが、それらを「信じない」科学者の信念、信仰によって、その一般認知は妨げられてきた。
もっとも、その背景には、こうした報告の中に、実際に虚偽があったことも大きく影響しているのだろう。しかし、それらの全てが虚偽であったわけではない。
無論、無闇に何でもあると信じてよいわけではなく、理性による検証は大切だ。
だが、注意しなければならないのは、我々が理性だと信じて行う判断の中に、感情に端を発した信仰が潜んでいるような場合だ。超常現象など、あってはならないという強固な信念が理性の目をくもらせる例証にもまた、事欠かないのである。
結局のところ、あるかないかを判断するのは科学ではなく、ヒトの信条なのではないだろうか。

一方で、超能力という呼び名が誤解を広げているという話もよくきく。
それが誰か特定の人間に宿った特別な能力であるかのように捉えられることで、かえってヒトの心理的抵抗にあっているという指摘がそれだ。
本来、超能力は、特別な能力ではなく、イチロー選手があらわす類稀なスポーツの才能も、画家のあらわす傑出した才能も、また、スプーンを曲げる能力も、本質的に差異はないと私は思う。
それらはいずれもヒトの心、意識のあらわす力であって、表現方法が異なるだけではないだろうか。
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2005-06-17 16:18:49

<神の意識>

テーマ:霊性の科学

創造の意志あるいは意思の存在については、これをヒトの意志や意思のように擬人化して捉えるのでなく、むしろヒトの意識や万物の意識をこそ、擬神化して捉えるべきではないだろうか。
そうすれば、現象のはじめに超智性の介在があったかどうかを「わからない事象」に据え置く必要もなく、ただ神を感じさえすればそれで事足りるはずだ。

実際、スプーンを曲げる超能力者は、曲げるスプーンに宿った意識についても言及することがある。曲がるか曲がらないかはスプーンの材質や強度の問題ではなく、それに宿った意識との「相性」であると。
これは、私の知る能力者に限った発言でなく、古今東西、数多くの霊能者が口をそろえて同様な指摘を行っている。彼らはそれを「感じる」のだそうだ。
そして、それらの意識の深奥には、皆、神が在るという。

一方、彼らのように特別な能力がなくても、瞑想体験は真我とよばれる自己の本質に気付く機会を与えたり、神の意識に我々を誘うことがあるという。
いかに我々が知性を極めても、理性の営みでは、神の存在を実験科学的、客観的に証明することはできない。
やはり、感じるしか認識する手立てがない対象があると私は思う。瞑想体験こそが、その鍵となるのかも知れない。

確かに、感じる者が少数派であれば、それは思い込みの域をでるものではない。
しかし、コミュニティーの大多数がそれを感じたとしたら、それは単なる思い込みでは済まなくなることだろう。
その昔、ヒトはその存在を半ば常識として感じていたのに、唯物に傾倒してしまった我々は、知らぬ間に小利口になってしまい、その「感じ」をどこかに置き忘れてしまったのではないだろうか。
ココロを置き去りにすることで、神を見失ってしまったように思うのだ。

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2005-06-02 12:58:43

<科学原理主義>

テーマ:霊性の科学
現象世界に横たわった諸法則を認識するための手段が、科学だけであると勘違いしている英才は少なくない。
科学は万人にとっての共通理解を深める上で多大なる功績を果たしてきたと彼らの多くが胸を張って主張する。
だが、果たしてそれらは本当に万人にとって事実足りえてきたのだろうか。

実のところ、科学的事実を導き出す実験過程や論理を理解するためには、相応な知性が要求される。それゆえ、「万人にとって」というのは虚妄でしかない。
科学的諸法則は、一部の限られた知性の達人によってのみ、その理解と所有が許された卓見に過ぎない。
つまり、多くの人間は、実験過程の詳細も、そこに構築された複雑な論理も、直接には何ら知ることなく、そこから得られたご利益だけを授かって、これをありがたがっているだけである。

一方、同じようなことは哲学や宗教の世界においてもいえる。
日常、外来診療を営んでいると、ある法則性に気付かされることがある。
それは、共時性(シンクロニシティー)なのだが、この現象、医療現場においては日常茶飯事である。
救急外来では、肩関節脱臼や、小児の特殊な骨折など、多くの症例が、相互に何の関係も無いにもかかわらず、「続く」ことがある。
つまり、一年を通じてこれらを均等に経験するのでなく、特定の時期に集中するという現実に遭遇するのだ。
おかげで、病院内では種々の骨折が伝染病なのではないかといった冗談が囁かれるほどである。
そして、個々の症例に関しては、単に時期的な一致だけでなく、その年齢や周辺状況に至るまで、著しい相似性を呈する場合が多い。

しかしながら、こうした共時性の概念は、哲学者の間では比較的一般認知が得られている事実であるものの、多くの科学者にとっては受け容れがたい法則の一つであるようだ。
確率論的に有意差があっても、確率としてゼロではないのだから、客観性に裏打ちされた法則にはならないと主張するわけである。

また、同様の法則性を宗教の世界観においても見出すことができる。それは、因果応報の理だ。己の成した行いが、良きにつけ、悪しきにつけ、形をかえて己自身に返ってくるという卓見のことである。
無論、これらの法則を認知するには、己自身が感じるしか手立てがない。
それゆえ、理性偏重で感性に乏しい御仁は、個人の「思い込み」といった解釈でことを済まし、そうした世界観のもつ可能性に関しては一顧だにしない場合が多い。
己の世界観から決して抜け出そうとしないのだ。

こうした方々に遭遇すると、いかに知性に秀でていても、感性の乏しい人間には決して認識できない世界があるものだと妙に納得させられる。
科学的諸法則が、限られた知性の達人にしか理解されないのと同様に、共時性や因果応報の法則もまた、限られた感性の達人にしか認識されえないのではなかろうかと。
感じることでしか把握できない存在は、感じる力に乏しい人間、感じた経験を持たない人間には認識できないものである。

知性の営みの先には理性があり、これを具現化するのが優れた科学者であるなら、感性の営みの先には悟性があり、これを具現化するのが優れた霊覚者である。
私の知る限り、科学者が霊覚者の中にペテン師の類を見出すのと同程度に、霊覚者は科学者の中にペテン師を見出すことができる。
優れた科学的法則を探し当てる科学者、そしてこれを真に理解できる科学者が限られているのと同じように、優れた因果律を探し当てる霊覚者もまた限られているのだ。そして哲学的視点は、両者を見極める礎となる。

ところで、哲学には、人間原理という考え方がある。そもそも、宇宙に創造の意志が溢れていなければ、宇宙に思いをめぐらす存在としての人間は存在すまい、人間の存在こそが、神の存在証明であるという考え方だ。
これは、理屈としては間違っていないが、現状の科学的手段、即ち、実験、観測によって正しい選択をしていくという方法では、証明不可能な命題である。

さて、この時点で導き出される結論は、「通常の人間では証明不能」である。
理性的な人間の多くは、ここで、この命題の真偽を追究するのをあきらめてしまう。
科学が証明不能な命題を追究しても始まらないからだ。
だが、謙虚さを失わぬ人間はこう考える。
「通常の人間であることを超えた優れた霊覚者ならば、何かを悟っているかも知れない」と。

ここから、霊性の道への第一歩が始まる。その道には巧妙な罠がいくつもあり、悪質な新興宗教の毒牙にかかってしまう場合もある。
だが、優れた霊的指導者のもとで感性を磨き、瞑想を極めれば、その旅路の果てには、創造主の意識との邂逅があるという。
あるいは、そこまで達しなくとも、人以外の生き物をはじめ、植物や、果ては無生物の存在の中にさえ、意識を見出すことのできる境地に達した者はいくらでもいる。
アニミズムを実感として悟った者は数知れないのである。

科学の論理体系では証明できぬ命題であるからといって、その命題が虚偽というわけではない。
それは、現象世界に対する認識の手段として、科学が不完全であることの証でしかない。
しかしながら、そこを取り違える愚者は後を絶たない。
既存科学の俎上に乗らぬ命題を次々と否定してみせては、自分たちの狭小な世界観を死守せんと躍起になる姿は、科学原理主義といえるものかもしれない。
既存科学が捉えうる世界だけが真実である、絶対であると信じていたい立場のことだ。
これも一つの信仰には違いあるまい。
本来、現象世界の諸法則を認識するには、理性と悟性との調和が不可欠であると私は思う。
ハートを見失っては、世界の半分の姿しか捉えることはかなうまい。
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2005-05-31 12:06:11

<超能力は実在するか?>

テーマ:霊性の科学
巷で議論になるテーマに、超常現象、とりわけ超能力現象の是非がある。この現象は果たして科学的に証明された事実なのだろうか。
科学的というからには、そもそも、我々のいう科学がどういうものであるかを考えねばなるまい。
私の知る限り、科学は、起こった現象に対し、その規則性や法則性を客観的に見出すことで、現象を論理的に把握することである。

とすれば、何かの現象が先験的に起こりえることかどうかをいうのは科学的な態度ではない。
ところが、こと超能力に関する限り、科学者の多くは科学的な態度をとらない。
こうした現象が起こらないのは自明の理であり、それを調べること自体に意味がないと主張して憚らないばかりか、そうした現象を説明しうる理論がないことを理由に、その可能性を否定したりもする。
これは、己の日常感覚に反する現象に対し、理解する努力を怠った偏狭な姿勢である。

実のところ、超能力は、あるかないかを論じるものではなく、どのようにしてそれらが起こるのかを追究すべきテーマなのである。
あるかないかをいうなら、ある程度厳密な条件下での現象の再現と、複数の証人がいるだけで事足りるし、そういう意味での証明はかなり以前に終了している。
にもかかわらず、未だこのテーマが科学の俎上に乗らないのは、先のような偏狭な科学者が多数派であることと、この現象の再現性が100%でないということのゆえである。

人や意識の持つ不確定性が、こうした現象を科学から遠ざけてしまっているわけだが、これは既存の科学における論理体系に問題があるということを意味するものではあっても、現象を否定してしまう根拠たりえない。
にもかかわらず、そこを取り違えている輩は決して少なくない。
現状では、科学の側にこそ、欠陥があるといえるのだ。
超能力とは、人の意識が顕す現象であるが、意識の何たるかを追究する上で、既存の科学では片手落ちになってしまう。
しかしながら、現在、意識を追究する精妙な科学はトンデモ扱いを受けている場合が多い。だが、意識の表す現象を深く追究できる科学でなければ、科学に未来はないと私は思う。

希望は量子力学にあるかもしれない。
この科学は、不確定性原理によって、絶対的客観性を否定してみせた。
物事は観測者の主観のうちにしか存在しえず、確率論でしか捕捉できないことを証明してみせたのだ。
意識の表す現象は、結局、そういう視点でしか理解することはかなうまい。

今のところ、超能力は各自の悟性の中でしか存在しえない現象だが、科学者が謙虚さを取り戻すことで、状況は劇的に好転するかもしれない。
そして、その兆候は既に現れ始めていると、私は私の悟性のうちに強く感じている。
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