続編No.32<教育と宗教> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

続編No.32<教育と宗教>

親や教師の価値観がゆらいでしまい、その行動規範に著しい矛盾を生じている昨今、誰を師とすべきか、子供たちがとまどってしまう場合も少なくない。
けれども、本当は、できの悪い親、教師ですら、反面教師として学び、自己実現すべきなのだと私は思う。勿論、これは小学生には難しい課題である上、大人が大人としての自己責任を放棄してよいということではない。

けれども、このように説かざるを得ない実情が一方で存在している。価値観が多様化し、何が正しいのかを自信をもって説明できる大人が少なくなってきている現状では、そういわざるを得ない。

多様な価値観、常識がひしめく現状で、誰かに何かを説く場合、そこには「なぜ」を明らかにする必要がある。それは、大人に対してだけでなく、子供に対しても同様だ。
私は、可能な限り、先哲の英知に基づいた説明を心がけるようにしている。
これは、かつて私の小学生時分の師が、仏教を基軸に徳育を行っていたことに影響を受けている。今日では難しいのかもしれないが、徳育には、そうした思想の例示が不可欠であると私は思う。実際、これまでの私の人生は、師から受けた仏教思想の是非を検証するのにあてがわれてきた感がある。一方で、こうした思想は、私の精神的に重大な危機を、幾度となく救ってくれたものだった。

なぜ、命は尊いのか、なぜ、礼節が大切なのか。
こうした問題は、人の根源的問題を抜きにして語るのは困難だ。つまり、人同士の相対的な関係形成や、相互依存の概念だけでは、「殺すべからず」や、「死すべからず」に対する説得力に欠けると私は考える。

日本の現代教育が、他の国々の教育と比較して大きく異なる点の一つに、宗教の不在を挙げることができるだろう。
実際、こうした宗教的な概念を全く用いることなく、子供たちの「なぜ」の問いに答えるのは難しいのではないだろうか。
他国では、堂々と宗教上の戒律や教義を根拠に、これを教えている場合が少なくない。
とはいえ、何かの宗教を拝して折伏するような授業をせよということでは決してない。
ただ、世界には多様な哲学、宗教があり、そのエッセンスだけでも学習すれば、普遍的な真理の輪郭をなぞるくらいのことはできるように私は感じている。
良いか悪いかは別として、完全に宗教的な思想を排した教育を行っているのは、世界でも日本の戦後教育くらいではないだろうか。
これは、先の大戦終結まで、日本が神の国であるとの偏向教育が行われていたことに対する全否定の結果か、占領者の都合に負う部分が大きいのかもしれない。

けれども、こうした教育のあり方にも、少なからず疑問を感じずにはいられない。
現代日本では、とかく宗教といえば、そのまま、それが思い込みや狂信、盲信と同義であると認識されがちだ。しかしながら、宗教とは、本来そのようなものではないはずだ。
戒律は別としても、宗教教義の多くは、人の存在理由や命の尊厳に理由を与え得る重要な哲学概念だと私は認識している。
現代の若者にみられる礼節の喪失や命の軽視は、こうした現代教育のありようも、決して無関係ではないだろう。