1 | 2 次ページ >> ▼ /
2008-03-31 09:07:41

<床屋談義>

テーマ:哲学
床屋の主人
「どうも僕は自分のことが好きになれないんですよ~」

「ん~、それって誰にでもよくある感覚なんでしょうけど、もとはといえば自分の正義感が自分自身を追い詰めつめちゃってるってこともあるような気がするんですよね~」
主人
「そうなんですかね~」

「正義感ってやつは、正義に背く輩を赦せないんですよ~。ウルトラマンが正義に背く怪獣にはめちゃめちゃ残酷になれるようにね。んでもってその残酷さってのは、他人に対してだけじゃなく、自分に対しても発揮されちゃうんですよ。たいていは、利己的な部分っていうか、エゴっぽいとこを赦せないんですけど、人間として生きてる以上、完全に自分の利己的な部分をなくしてしまうってことはできないんで、こりゃ仕方がない。でもね、そういう自分の利己的な部分も含めて自分を愛するっつーか、赦しちゃうと、これが随分と楽になれるんですよね~。例えば、誰かに腹を立ててしまったとき、どうしてこんなことで腹を立てちゃったんだろうなんて自分を戒めたり、咎めたりするんじゃなくて、そういう自分の小市民的なとこを含めてぜ~んぶ受け容れちゃうみたいな。自分はなんて器の小さい人間なんだろう。でも、そんな小さな器の自分が大好きさってな感じで赦しちゃう。そうすっと、とっても楽になれるんですよ」
主人
(笑)「それっていいですね~、なんか」

「そうなんですよ。だから、目の前で腹を立ててる人に遭遇しても、あ~この人も自分とおんなじだ~。つまんないことに腹立てちゃって、何て愛おしいんだろうみたいな感覚になるんですよ。自分の中で正義がなくなっちゃって、めちゃめちゃ寛容になれるっつーか。でも、人間なんで、やっぱり感情の浮き沈みはありますよ。でも、腹を立ててしまう自分を愛するようになると、あんまり腹も立たなくなってくるんですよ。振り上げたこぶしの先からへなへなと力が抜けてしまうみたいな感じで、感情のエネルギーがプラトーに達する手前でどこかへいってしまう。腹を立てちゃいけないなんて正義を貫こうとしたって、自分が苦しいし、簡単に腹を立てる輩にはなおさら腹が立ってしまうもんですけど、腹を立てる自分を受け容れちゃうと、不思議とあんまり腹が立たなくなってくるんです」
主人
「なるほど~。なんか楽そうですね~」

「いや実際、楽ですよ~。人に迷惑をかけるのが気になる人ってのは、人に迷惑をかけてはならないという正義でもって自分を裁いちゃってるんですよ。んで、結局誰かに迷惑をかけては自分を咎めてる。でも、それってホントは自分の正義が自分自身を追い込んでるんですよね。だから、自分の中で正義がなくなっていくと、ホントに楽になれるし、人生がとても豊かで味わい深くて、とにかく楽しくてしょうがなくなっちゃう。変な話、自分の中で正義がなくなっていくのと同時に、他人様の正義が何でもかんでも受け容れられるようになってしまうんです。んまいっかってな具合で」
主人
「なんか、僕も楽になってきました~」

「それはよかったです。ただね、そうやって人生を達観してみても、一つだけどうにもなんないことがあるんですよ」
主人
「。。。?」

「精神的な辛さみたいなのは感じなくなってくるんだけど、肉体的に痛いのと苦しいのだけはどうにもなんない。人間の意識ってやつは不滅で、その本質は無限だって私は信じてるんで、いつ死んでもいいとは思えるけど、痛いのと苦しいのだけは極力避けたいなみたいな。」
主人
(笑)「は~、そこまでいっても、痛いのだけは駄目ってのがまたいいですね~」

「これは患者さんから教えてもらったことなんですけどね。交通事故による頚椎捻挫で、痛みのために仕事を休まなくてはならなくなった患者さんがいましてね。仕事がはかどらないことで人に迷惑かけてるって事実でもって自分を追い詰めちゃって、うつっぽくなってたんですよ。夜が眠れないみたいな。んで、人に迷惑かけるご自分を愛してみてはいかがですかってな話をしてみたんですよ。誰に迷惑かけたっていいじゃあないですかってね。励ますんじゃなくって。そしたら、翌週、晴れ晴れとしたお顔で外来にお越しいただいて、眠れるようにはなったんだけど、首の痛みは残ってますみたいなことをおっしゃって、笑わされたんです」
主人
(爆笑)

「そりゃそうだ。心の病は消え去っても、痛いという現実だけはどうにもなんない。この世に地獄があるとするなら、それは歯医者の治療台の上かもしんないみたいな。だから、痛い、苦しいって現実を抱えている人はやっぱりつらい。心頭滅却すれば火もまた涼しみたいなとこにだけは、なかなかいけないもんなんでね」
主人
「そうですね~、死ぬのがこわくなくなるとこまでいっても、痛いのはつらいってとこですか~、なんか笑えるような、笑えないような。。。」

「んま、そんでも当面、生きる上で抱える不安みたいなもんは、たいてい受け容れられるようになるのは間違いないです。何せ楽にはなれる。ただ、今あるのは痛いのヤダってことだけで」
主人
(笑)「なるほど~。痛いのは確かに厭ですね~」

「だから、痛い人はやっぱし何とかしてあげたい。それで今の仕事してんのかもしれませんけど。んま、そんなわけで、私は何でもアリってことで、今度飲みにでも誘って下さいな。合コンでもオッケーですよ!」
主人
「い~ですね~。是非飲みに行きましょう!今度コスプレパーティーやるんすよ!一緒にどうですか?」

「こっ、コスプレ!? 私が持ってるコスプレ衣装って、白衣くらいなんだけど、奥さんに何ていいわけして、それもって出かけたらえ~んやろかい?」
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-29 09:03:58

<全てはあるがままに>

テーマ:哲学

私はこれまで、いかに生きるべきかというテーマを追い求めてきた。しかし、いつしか私は、生き方に「あるべき」姿などないのかもしれないと思うようになっていた。いかように生きるも霊的存在として完璧に自由であり、人はただ、己の選択に応じた人生に遭遇するだけであると。そして、人生を味わいつくすことで、進化、神化するのだと。


ならば、その営みがたった一度の人生で達成されるはずはなく、人は何度でも生まれ変わっては同じことを繰り返すに違いない。それは円を描く営みではなく、螺旋を描いて進化、神化の極みに迫る営みに他なるまい。
全ては、あるがままでよいのだ。正義によって誰かや何かを裁く必要はない。誰かに何かをわからせる必要などどこにもない。神は、無限にして完全なのだから、この世界の在り方を疑う必要はなかったのだ。誰かを裁くとき、それは神を裁いているのと変わりがない。何かを疑うとき、それは神を疑うのと変わりがない。己が、裁き、疑う相手に対し、何かを祈るのは滑稽なことだ。

納得しがたい事件や事故を見つめるたび、それらを何ゆえ全能の神が止め立てしないのか疑問に思った時期があった。あるいは、それを悪魔の仕業というなら、何ゆえ神は悪魔を野放しにしておくのかと疑わずにはおれないこともあった。そこから、神も悪魔もいない、全ては単なる偶然の所産に過ぎないと考えたことがないわけでもなかった。しかし、それでは今ある私の存在について、どうしても納得することができなかった。
神の何たるか、愛の何たるか、あるいは悪の何たるか、人の運命の何たるかについて考えるとき、もっとも納得できる真理を求めずにはおれなかった。

そして今、私は一つの信仰にたどり着いた。あとは、この信仰の内なる因によってもたらされる人生の味わいを経験し、私の選択によって創造された世界を私自身の姿として観るだけだと覚悟を決めた。私は、私の人生の全てを内なる神に託し、委ねることをここに誓う。このブログを終える日は近いのかも知れない。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-29 09:03:02

<統べるということ>

テーマ:哲学
有限存在としての特質であるエゴ。これが節度を失ったとき、人の世の不幸と苦悩が生じるのは間違いない。では、エゴは個々が抑制すべきものなのだろうか。人の感情は抑えつけてしまうのが正しいあり方なのだろうか。私はそれを問い続けた。その結果、エゴは抑制すべきものにあらず、統べるものであると気づいたのだ。

なぜなら、生命の本質であるエゴを否定してしまえば、自身の生をも否定せざるを得なくなるからだ。エゴは閉じ込めようとすればするほど人の内側で力を蓄え、噴出する機会をうかがう。閉じ込めた思いは命であり、形にならずにはおれないのだ。エゴは創造の糧であり、エゴからの脱却は生からの脱却をも意味することになる。

しかしながら、エゴは、開放「すべきもの」でもまた、ない。エゴの抑制がいかなる結果を招くのかを知り、エゴの開放がいかなる結果を招くのかを知らずしてエゴの統御の何たるかを悟ることはできない。
エゴの抑制と開放が、それぞれ何をもたらすのかを「わかって」はじめて、人はエゴを統べることができるのだと私は思う。

だから、エゴは抑制すべきだと信じるのなら、その信仰にふさわしい人生を味わえばよいし、エゴは開放すべきだと信じるのなら、その信仰にふさわしい人生を味わえばよいのである。今の私は、ただ己のエゴを受け容れ、エゴと愛との葛藤を受け容れ、エゴは統べるものという信仰に根ざした人生を選択し、己のあるがままに生き、ただこれを味わうのみである。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-24 11:09:18

<誇るということ>

テーマ:哲学
何かを誇るということは、他者と己とを比較する意識の産物である。それは有限存在として自他を区別する分離意識に他ならず、エゴの一側面である。
無限存在としての視点に立てば、自他の区別は消滅し、そこに何かを誇る意識も霧散してしまう。残るのはただ愛だけなのかも知れない。

しかしながら、誇るということを知らずにおいては、誇らぬことの意味がわからない。有限とはどういうことであるかを知らずに無限を悟ることはできない。
神との一体性を知るために、人は己を他者と差別化すべくもがくのだ。それゆえ、何かを誇る「べきでない」などということはないし、執着もまた手放す「べきもの」ではないのである。

誇れるものを持たぬ者が誇らずの心を語ることはできない。同じように、執着を知らぬ者には無欲の何たるかを語ることは決してできない。
有限存在であるがゆえに派生する諸々の情念を味わいつくすことなく、無限存在としての神にたどり着くことはできない。それゆえ、エゴイストを極める人もまた、自己犠牲を厭わぬ人とともに、神に近いといえるのかも知れない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-24 11:06:23

<犠牲とは>

テーマ:哲学
犠牲は、結果であると同時に因である。
因となった犠牲は、栄光と至福を約束するのかも知れない。
そこにはいかなる悲惨も苦悩もない。
犠牲は子であり、親である。
ただそれだけのことだ。
当然のことだが、イエスはそのことをよくわかっていたのではないだろうか。

私にも、それが本当にわかる日がくればよいのだが、肉体的にしんどいのと痛いのだけは勘弁して欲しいと祈らずにはいられない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-22 08:24:15

<苦しみの値札>

テーマ:哲学
己の苦労や悲しみを誇りに変えて生きる人にとって、その苦労を大したことではないと誰かにいわれてしまうのは受け入れがたいことだ。そんなことをいわれようものなら、お前に何がわかるのかと食ってかかりたくなるのも当然だ。
だから、因果応報や自業自得などといった考え方には抵抗があり、輪廻転生を認めることができない人も決して少なくはない。なぜなら、それらを認めてしまうことは、己の苦労の価値を損ねてしまうことになるからだ。実際、因果応報や輪廻転生の思想を前提にすれば、あらゆる苦しみ、あらゆる悲しみは、大したことではなくなってしまう。

今生で何かの苦労を経験し、それに囚われてしまっている人にとって、その苦労が別の誰かにとっては遠い前世で既に経験済みであるなどという考え方を認めるわけにはいかない。なぜなら、そのようなことを認めてしまえば、己の誇りが傷ついてしまうからだ。ましてや、己自身に内在する因が、そのような経験を招いてしまったなどといわれるのはさらに腹立たしいことである。

しかしながら、目に見える苦労や悲惨についていうならば、この世には苦労というコトバでは決して語りつくせぬ苦労があり、悲惨というコトバでは決して語りつくせぬ悲惨がある。
単純に、自分だけが苦しいわけでもなく、悲しいわけでもないと気づけば、他人と己を比べることの無意味を悟ることができるだろう。
他人の苦しみを本当に思いやることができるなら、人と自分を比べることは決してないはずだ。そして、あらゆる苦労、あらゆる悲惨に納得するための真理を求めずにはおれなくなることだろう。因果応報も、輪廻転生も、そうした希求の先にある思想であり、信仰である。

無論、今生で営まれた己の苦労や悲しみを、自分以外の誰かや何かのせいにして人生を納得するのも良いだろう。けれども、それは結局のところ、己自身の真実から目を背けているだけのことで、そこには何の救いもありはしないと私は思う。誰かや何かを責めたところで、その非難の矛先は、必ずや己自身に向けられるだろうからだ。それがわかるようになるまで、何度でも同じことを繰り返すのが人間であると私は思う。
確かに、苦しみの最中にある人に、自業自得だなどというのは残酷だ。だから、自分を納得させる信仰を誰かに押し付ける必要はない。けれども、己の信仰を包み隠す必要もまた、ない。どの道、信仰には客観的根拠がないのだから、受け入れるか否かは個人の自由である。罰則でもって信じることを強いるのは宗教屋の仕事であり、個人の信仰について口を慎むように諭すこともまた、宗教屋のあり方と大差はないと私は思う。

自分自身の苦しさの所以、悲しさの所以を深くつきつめて行くなら、それらは結局、幻でしかないと私は思う。無限存在としての己を意識するとき、苦しみと悲しみは、その力を失ってしまうのではないだろうか。もとより、苦しさにも悲しさにも、実体はない。全ては因果応報の結果に過ぎず、そこにはいかなる善悪も苦楽もないのかもしれない。そして、そのことを本当にわかるようになるまで、私は人生を繰り返し歩み続けるに違いない。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-18 11:57:19

<エゴイスト>

テーマ:哲学
私はかつて、拙著「眠れぬ夜に思うこと」で、人が生きていく上では、無償の愛そのものである神の反対性質となるエゴと葛藤を演じるのが人間であると論じ、エゴの抑制を説いた。だが、これはそれに続く「目覚めの朝に思うこと」で、間違いであることを認めざるを得なかった。エゴは抑制すべきものではなく、統べるものであると気づいたからだ。しかしながら、どうエゴを統べるのかについて、明確には語れぬままであった。

エゴをいかに統べるのか。エゴによって派生する諸々の感情は、抑えつけようとすればするほど、力を持つ。それゆえ、それをあるがままに開放してしまうことだと今の私は思う。
「エゴを主張するべからず」という正義は、己自身を攻撃するだけでなく、他人のエゴにおいても非寛容を生ぜしめる。自身に湧き起こる感情を無理に抑えつけることなく、自由に解き放ち、エゴに忠実な自分を受け入れ、そのような自分を愛するように努めてはじめて、エゴは力を失ってしまうのではないだろうか。そのとき、エゴに振り回される己を冷静に見つめる意識の深みとの間に同調が生じるのを実感できることだろう。その同調によって、節度は自然に訪れるもののようだ。

抑えようとすればするほど、エゴは人を苦しめる。だが、受け入れられたエゴは己の居場所を得たことに満足するのか、人を苦しめることがなくなってしまう。
同時に、目の前でエゴに振り回される人が愛おしく思えるようにもなってくる。意識の内面から正義が消滅して行くのと歩調を合わせて、寛容になってしまうのだ。
無論、人として生きる以上、感情の浮き沈みや高ぶりがなくなってしまうわけではない。しかし、それらに振り回されてしまうことが少なくなってくることに気づけるだろう。

多感な十代、自己嫌悪に陥って苦しむ人は多いが、それは他人を赦せぬからだ。他人を赦せぬ気持ちがそのまま己を苦しめるのである。それは逆に、己を赦せぬから、他人を赦せぬということでもある。人は、いくつになっても赦しを憶えることで大人になるのだ。エゴを統べるとは、己自身のそれをあるがままに受け入れてしまうことだと私は実感する。

来年、私は不惑の四十を迎える。その年、果たしてどれほど不惑でいられるのかわからないが、いつまでも戸惑い続ける自分を愛していようと私は思う。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-18 08:45:16

<正義と寛容>

テーマ:社会問題
正義と寛容は両立しがたい。正義に生きれば、正義を損ねる者を赦すことはできなくなる。人は己の正義を振りかざして誰かを攻撃する。正義を背負っている人は、それを損ねる相手に対し、実に容赦がなく、簡単に残酷になれる。芸能人の発言にいちいち文句を垂れねば気が済まぬ方々もまた、自身の正義に忠実なだけである。発言に影響力のある芸能人が不用意な発言を行うのはけしからんという正義である。
一方、寛容であることを正義とすれば、狭量は不正義だが、寛容を旨とする限り、それもまた受容せざるを得なくなる。寛容はエゴの受け皿であり、愛の一側面だが、なかんずく全てを受容するには勇気が要る。なぜなら、それは正義を冠した者によって虐げられ続けるかもしれないからだ。だから、愛には勇気が必要とされる。

憲法九条の精神には、寛容と勇気がみなぎっている。確かに、九条は諸外国によるわが国に対する政治的干渉に利用され、幾度となくわが国は政治的劣勢を強いられてきたかもしれない。
しかしながら、わが国と戦勝国アメリカの戦後を顧みたとき、片やたった一度も戦争することなく、経済的繁栄を築いてきた平和国家日本と、未だ武力によって血塗られた繁栄に固執する米国の現状とを比較して、私は圧倒的にわが国に誇りを覚える。勿論、日本は米国の軍事力を傘に繁栄を築いてきたという見方はあるだろうが、それこそが、政治的権謀術数の成果であろう。頼りになるかならぬかわからぬ米国の軍事力を利用して国の平和を築いてきた先人たちの知略に私は深謝する。
軍事的強国でありながら、それでも不戦を貫くわが国の在り方にこそ私は共感する。核を持つことなく、強国と対等以上に渡り合っているわが国を誇りに思う。だから、私はこの国に生まれ、この時代に生きているのだろうと納得している。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-12 12:05:12

<納得させるもの>

テーマ:哲学
自分のおかれた状況に納得し、どうして自分より不幸せな人がいるのか、あるいはどうして自分より幸せな人がいるのかを納得している人にとって、一切の不安はない。たとえば、努力によって人生を築いてきたと納得する人にとっては、努力こそが不安を退ける術となる。

ところが、人はいつか、努力の有無だけでは説明しがたい、目に見える幸、不幸の差異が生じる理由を考えざるを得なくなる。このとき、己を納得せしめる信仰を求める宗教的希求が生まれる。どうやって自分の人生を納得するのかは人それぞれだ。人生を納得させるもの。それは決して客観的に証明することのできない、信仰によるのだ。人は皆、己の信仰に宿る因によって、それにふさわしい人生の浮き沈みを経験するようにできていると私は思う。

時に人生の奈落の底に落ち込み、有限な所有物を次々と失っていく人をみると、私には、その方の潜在意識が、そういう人生を選択しているように見えてしまう。有限存在としての人間にとらわれていると、どうしても失う不安を抱えざるを得なくなる。ところが、その不安は持てることによって生じているものなので、もたざることで不安を解消しようと潜在意識が働きかけるわけである。この結果、現世に存在する有限な所有物を次々と失ってしまう。自らの、失うことへの不安が、不安を解消しようと物事を失わしめるわけである。これが、現世的に不幸と呼ばれる現象を自ら招来するカラクリだと私は思う。

とすれば、既に満たされていることに気付き、これに感謝し、もともと無限存在である我々には失われるものがないと信じることで、不安を受容することができるのではないだろうか。受容されてしまった不安には、いかなる力もなくなってしまう。そのとき、もはや不安に苛まれることはなくなってしまうことだろう。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008-03-12 12:03:49

<わからぬ人々>

テーマ:宗教

先日、ある人の誘いで、ものみの塔の元信者が集う掲示板におじゃまする機会があった。彼らは自分たちがカルト宗教の洗脳から解かれた目覚めたる人で、洗脳に関してはそれぞれが「わかっている人」であると自負する方々であった。

ところがである。板では二酸化炭素による地球温暖化の話で盛り上がっており、正義感に衰えぬ彼らは地球を守れ、温暖化を阻めと威勢が良かったが、私が「二酸化炭素による地球温暖化など嘘っぱちである」「地球を守れなんてナンセンス」と切り込んだとたん、戸惑いと不快を露にした。
温暖化理論にたてつくとはいかがなものかとばかり、私は反論を受けることになったのだが、もっとも私を驚かせたのは、その中の誰一人として、温暖化理論の是非について、もう一度自ら調べて発言しようと試みる者がいないことであった。提示した資料についても、目を通した者がいたのかすら疑わしい。もっともひどい輩にいたっては、マスコミ情報と己の先入観、直感だけで真っ向から反論、攻撃してくる始末だった。

自らの常識と正義、その信仰を疑うことのできる者だけが、洗脳の罠から解かれるのだと私が言っても、「そんなことは言われなくてもわかっている」「私たちは経験済みだ」とばかり、全く自らを顧みようとしない。そこで、自分たちがどういう経緯、内的理由でカルト宗教に入信したのかを問うてみたが、誰一人としてこたえようとしない。少なくとも、その自覚がありさえすれば、自分と異なる見解を目にしたとき、それを即座に敵にみたてて攻撃するような真似は決してしないはずだし、不用意に人を裁くこともないはずだ。結局、地球温暖化理論に対する私見の表明は、彼らがどれくらい「わかっている人々」であるかを測る試金石となってしまった。

実のところ、温暖化理論が正しいのか、あるいは間違っているのか、そんなことはどうでも良いことだ。問題は、自分とは異なる見解を目にしたとき、それを新たな視点の獲得であると楽しみ、自らの見解を再考することができるか否かである。そのような態度を示すことのできる者だけが、洗脳の罠から逃れることができるのだと私は思う。
わかっているということは、知っているということとは違う。己の陥りやすい傾向を自覚し、知っていることを実生活に役立てることができて初めてわかったといえるのだ。わからぬ限り、再び同じことが繰り返されるだろう。確かに、彼らは皆、もはや今生ではカルト宗教のご厄介になることはないかも知れないが、来世においてはどうだろうか。

本当に己はわかっているのか、己のありようを振り返ることのできる者だけが、洗脳の罠を退けることができるのだ。彼らがなぜ、今生でカルト宗教と縁をもってしまったのか、彼らとの対話からその理由を垣間見た心地がした。やはり、因のあるところに結果があるのだ。
ふりかえって、私自身、わからぬ人であるには違いない。いかに優れた叡智も、実生活に生かされねば知らぬも同然だ。わからぬ人としての私自身の因が、この方々とのご縁を導いたのかもしれない。この世は己を映し出す鏡であり、「人のふりみてわがふり直せ」とは至言である。互いが相手の中に己自身のわからぬ人を見出していただけのことだろう。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 次ページ >> ▼ /

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。