2007-04-25 12:02:31

<親の躾、親に躾>

テーマ:社会問題
ニュース番組をみればこそ、知りたくもない報道を目にしてしまうので、最近ではテレビや新聞に目を通すことも少なくなってきた。にもかかわらず、またもやろくでもないニュースを知る羽目になってしまった。尼崎で小4男子児童が同じく小4女子児童に集団で性的暴行を加えたというものだ。

アダルトビデオに触発された児童が起こした事件ということになってはいるが、ネット上には地域性が関与しているという意見もある。実際、公立の小中学校の品位は地域住民の品格に少なからず影響されてしまう。本件には複数の男子児童が関わっており、当該児童の家庭環境のみにとどまらず、地域性が取り沙汰されてしまうのかもしれない。

本来、子供には学校以前に親による躾がなされていてしかるべきである。にもかかわらず、親自身もその親によって躾られておらず、まともな躾を子に施すことができないとなれば、モラルの荒廃は親から子へ、子から孫へと連鎖してしまう。そしてその連鎖が、結局は地域の品位を損ねていくことになるのである。したがって、地域性を原因の一つとするなら、その改善には親世代への再教育が不可欠だろう。

そもそも、未成年者の引き起こす事件では、加害者の年齢が若ければ若いほど、親に責任があるものだ。加害児童は勿論だが、その親にこそ、相応な制裁を加えて社会が躾なければ、モラル荒廃の連鎖を断ち切ることはできまい。
乳飲み子を乗せていても車の中で喫煙し、平気で吸殻を窓から捨てる嘆かわしい親を目撃するたび、子供の躾を語る前に親がしつけられねばならないと痛感する。
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2007-04-25 11:05:13

<ステップアップに必要なもの>

テーマ:哲学
人生においては、幾度となく苦境に立たされる場面に遭遇することがある。そうした場面で逃げを打てば、当座をしのぐことはできたとしても、ほどなく同じ問題と向き合わざるを得なくなるものである。だが、それも学びのチャンスかもしれない。

現状に何か問題があるとすれば、それは過去に行われた選択に問題があるからだと考えられる。現状とは過去に行われた思いと行いの結果であるからだ。
ここでいう選択というのは、どういう考え方で生きてきたかといった全人的な要素が含まれる。現状に問題があるなら、過去に犯された選択の誤りを自覚しなければ、もう一度同じ過ちを繰り返すことになるばかりでなく、今後状況はいっそう強調されることになる。

問題の所在を自分以外に求めると、状況を改善するのは難しくなる。なぜなら、自分自身を変更するのは自分の意志で可能だが、他人に意志がある以上、自分以外の何かを変えるのはとても難しいからだ。全ては因果応報、自業自得の結果であるという哲学的見解を自覚できれば納得できるかもしれない。
現状分析が終われば、そこから先は未来への展望を描き、そこに向かっての努力が必要になる。今ある姿は永遠ではなく、移ろう定めにあるからだ。

多くの場合、問題の原因は一言で片付けてしまうことが可能である。それは努力の不足である。選択の過ちは怠慢に起因することが多いからだ。努力を厭い、そこから逃避しようとする際、過ちが犯されるものである。けれども、努力不足などと指摘されれば、たいていの人は口を尖らせて反論する。私はがんばったと。
問題は、なされた労力が、果たして本当に努力であったかどうかである。

人間、好きなことなら誰でも繰り返し行うことができるが、それを努力とはいわない。
嫌いなことでも、目標達成のために繰り返される行いが努力である。
例えば、ある人がバドミントンを好きだったとする。当該競技が好きで、そればかりやっていたとしても、実はそれは努力ではない。その証拠に、試合好きの上達はすぐにとまってしまう。
上達のないその人に、努力が足りないなどといえば、きっと反論されることだろう。
私はいつも試合をしている。努力していると。
けれども、本当の努力とは、ランニングやノックといった誰もが嫌がる基礎トレーニングだ。目的をもって行われる地味な基礎トレーニングの繰り返しが、いつのまにか人を高みに押し上げるわけである。それは学業も同じ。仕事も同じではないだろうか。

何かにかじりついて同じことを繰り返し行うことのできる人、自分の弱点と向き合ってこれを克服できる人でなければ、たいした業績をあげることはできまい。本当の努力というのは、己の弱点と向き合うことのできる勇気と、同じことを繰り返すことのできる根気のいる作業なのだ。弱点をつきつけられて、傷つかぬ者はいないことだろう。
けれども、弱点を自覚しなければ、本当に必要な努力を行うことは難しくなる。
目的意識のともなわぬ努力を努力と呼ぶことはできない。

人の可能性を広げるには、努力が不可欠だ。どんなテーマでも、わきめもふらず続けることで、色んなことが学べる。学んだことを生かして次のステップを踏める人だけが、将来への展望を実現させられるのだと私は思う。より高く跳ぶためには、より低くかがまねばならない。人生はその繰り返しのように思える。
しかるに、十分に学んでもいないうちから先についての不安、不満を理由として安易に居場所を変えるのは、怠け者に共通した悪い癖である。
無論、ときには逃げを打つことも必要ではあるのだが、そこには常に自己変革という努力の伴う必要があると私は思う。

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2007-04-25 11:03:45

<二種類の人間>

テーマ:哲学
「世の中には二種類の人間がいる。ひとつは、何かの壁につきあたったとき、できない理由ばかりを探してあきらめてしまう人間。もうひとつは、できる方法を探して挑戦する人間。」
某テレビ番組で俳優・石田純一氏が行ったコメントだが、いたく感銘を受けた。彼自身の私生活は決してほめられたものではないかもしれないが、百鬼夜行の芸能界で長らく頂上を生き抜いている男の言葉として納得できた。
勝敗を競うスポーツに取り組む者だけに限らず、社会を生き抜く者にとってこの上なく重要なコトバだ。

前者のタイプには、「できない理由」に無欲なる自己をあげる手合いがいる。しかし、多くの場合、彼らは無欲を装っているだけで、実際には単なる怠け者に過ぎない。巷でも、無欲の意味を取り違えて生きる覇気を失ってしまった若者を目にすることが多くなってきた感がある。欲がなければ何かに執着して努力する必要もない。努力することから逃げ出したいから無欲であろうとするのである。

欲望を否定してしまうことには単純にいって意味がない。己の欲望をよく律する術を学ぶこともまた人生における重要な課題のひとつだ。欲を満たすための「できる方法」は、マナーやルールにのっとったものでなければならず、我欲に押しつぶされて道を踏み外さぬ修練を行うこともまた、生きる目的なのである。極端な話、何もしないで無欲に生きたいならいっそ死んでしまった方がよい。生きているのか死んでいるのかわからぬ人生など無意味だからだ。
欲を見据え、これを昇華して生きる糧とするその先に、欲得を超越した価値ある人生があると私は思う。

近年、負け組みにはチャンスが乏しい格差社会が問題になっている。この格差社会が悪いというものの考え方、あるいは負け組みにはチャンスが乏しいとかいうものの考え方、「できない理由」であるような気がしてならない。我々は生まれながらにして皆不平等なのだ。自然が不平等を許しているのである。これを無視して平等なるチャンスをうたっても、社会には歪が生じるだけだ。不平等な社会、劣悪な条件下でどれだけやれるのか、個々の努力が問われるのである。「できる方法」を探す努力のないところに味わい深い人生など得られようはずがない。
人生とは味わいなのだ。より味わい深い人生を送るにはより多くの努力が必要になる。
人もまた生き物である以上、人生においては多かれ少なかれ生存競争を余儀なくされるものだ。落伍者を生み出すことを悪とし、勝者たらんとする欲望や競争を否定してみても、その先にあるのは衰退だけだと私は思う。
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2007-04-25 10:52:35

<温暖化理論の虚妄>

テーマ:社会問題
日常、異常気象が報道されるたび、それを温暖化のためだと納得して過ごしている人が多い昨今、二酸化炭素による地球温暖化など虚妄であるなどといえば、何を馬鹿なことをいっているのかと思われるかもしれない。
産業革命以降、人間の生産、破壊活動が活発になり、大量の二酸化炭素を温室効果ガスとして排出することで、大気が熱を蓄えて地球が温暖化していくというイメージは大変受け入れられやすい。
ところが、この温暖化理論、ほんの少し調べるだけで、科学的根拠が極めて希薄であるということがわかるのだ。
(参考サイトhttp://env01.cool.ne.jp/index02.htm )

気体は、赤外線を吸収することによって熱エネルギーを蓄積するわけだが、温室効果ガスといわれる気体の赤外線吸収波長域はその種類によって異なり、水蒸気は12マイクロメートル以上の領域を広範にカバーしているのに対し、二酸化炭素は15マイクロメートルの領域に限定されている。このため、温室効果に寄与する気体中、二酸化炭素の占める割合は多めに見積もっても全体の3%(97%は水蒸気)を超えることはない。
その一方、「人為起源の」温室効果ガスのうち、二酸化炭素の占める割合が64%という環境庁のデータについては、これが温室効果に対する二酸化炭素の寄与率ではないということに注意が必要だ。
(参考サイトhttp://psychology.jugem.cc/?eid=57 )
化石燃料の消費によって生じる地球の大気に残存すると考えられる炭酸ガスは、大雑把な地球の炭素循環(http://env01.cool.ne.jp/open/open01/carboncycle.gif )から換算すると、二酸化炭素のうちの100×3/750=0.4%である。
ということは、単純にいって人為起源の二酸化炭素が温室効果に寄与する割合は最大でも100×3/100×0.4/100≒0.01%にすぎないのである。

確かに、1900年以降、大気中の二酸化炭素濃度は増加しているが、それは温室効果ガスの主役である水蒸気量の変動の大きさとは比較にならない。また、実際の気象データにおいても、世界の海面水温、および気温ともに、その変動に対して半年から1年程度の遅れで大気中二酸化炭素濃度が追従して変動しているという事実があり、決して二酸化炭素濃度の変化は先行していないのだ。
(参考サイトhttp://env01.cool.ne.jp/global_warming/index.htm )
実際、長期的にみて、地球気温にもっとも大きな影響を与えていると考えられるのは太陽黒点の活動性であり、観測の始まった1860年ごろからの気温の推移との間には明らかな相関がみられる。
(参考サイトhttp://www.geocities.jp/obkdshiroshige/ondanka/ondanka.htm )
本サイト中、図2-11「太陽黒点の吉村サイクル」、及び図2-3「太陽黒点周期の長さの変化と北半球気温変化との相関」などから、現在の温暖化は太陽黒点の活動性の増大に一致して1970~80年ごろから始まった55年の大周期の前半に相当するものであるといえる。従って、このたびの温暖化は遅くとも2010年ごろまでにピークを迎え、その後20~30年くらいの間は寒冷化に向かうことが予想される。

以上より、一般的に「思いこまされている」ほど、人為起源の炭酸ガスが地球の温暖化に寄与していないという事実を指摘することができる。
とはいえ、マクロ視点でみたわずかな変化であっても、我々の生存環境に予想もしない大きな変化を与える可能性は否定できない。がしかし、所詮その程度の杞憂でしかないのが二酸化炭素による地球温暖化理論なのだ。

そもそも、二酸化炭素による地球温暖化理論の是非は、石炭産業の御用学者グループと、原子力産業の御用学者グループで争われたのが最初であるという。
二酸化炭素を悪玉にしたてあげることで、直接的には二酸化炭素排出の少ない原子力発電が支持されるわけだが、原子力開発には巨額の公的資金が流用されており、各国で行政が味方についている。となれば、勝ち馬に乗ろうとする学者たちがどちらの理屈に味方するかは明白で、それは客観的な事実の積み重ねで議論された科学的理論ではないということだ。

にもかかわらず、何ゆえかくもこの理屈が疑うべくもない科学的事実にまで祭り上げられてしまったのか。
今や地球に優しいをスローガンにして、二酸化炭素排出を低減させた技術には莫大な富が舞い込む。人の不安は商売の種なのだ。
原発産業に関わる利益に群がる寄生虫にとっても、この理屈はとても都合がよいのである。
それゆえ、マスコミはこの理屈に疑問をさしはさまない。スポンサーの利益をそこねるようなことにはクチをつぐむのが当然だからだ。
こうして、今尚、この理屈は科学的事実のような顔をしてのさばっているのである。

参考サイト
http://tanakanews.com/070220warming.htm
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