心が先、現実が後



皆さんは、

朝起きて一番にふと太陽の光を浴びた時

どう感じられますか?


「一日の始まりに相応しく素晴らしい、恵みの光だ!」

と全身全霊で太陽を感じることが出来る方もおられれば、

「また今日が始まってしまう」

と忌々しく目を擦る方もいらっしゃるかもしれません。

もしくは

「今日は晴れか」程度で特に何も感じない方もいらっしゃると思います。


太陽の光が差していることに何の違いもないのに、

なぜこんなにも捉え方が異なるのでしょうか?


それは、

自身の心の状態が異なるからです。


弘法大師空海のお言葉に、

次のようなものがあります。

 


"衆生の心 清浄なるときはすなわち仏を見、

もし心 不浄なるときはすなわち仏を見ず。"

(「弁顕密二教論」より)

 

直訳いたしますと

「人の心が清らかでいるときは、仏の真の有り難さを感じることができ

もし心が清らかでなければ、その有り難さに気付くことはできない」


これは

「見るものや映るものは全て、自分の心のありようと繋がっている」と言い換えられると思います。


心が何の躊躇もなく澄み切って清らかであれば、

見えるもの聞こえるもの全てが澄み渡って美しく、

つい見過ごしてしまいそうな有り難さや恵みも感じることが出来る。

反対に心が重たくどんよりと濁っておれば、

自分を取り囲む全てが煩わしく、さらには自分を攻撃しているかのように感じられてしまう。


たとえば、おそらく大半の方が、

ご自身の今までの人生で

「最高にツイていた日」

「最高にツイていなかった日」

というものに心当たりがあるかと思います。


しかし実際、

起きたことのレベルに大小や幸不幸は無く、

その時の自分の心の状態によって、あみだくじのように物事を判断して辿っていった結果、

自身によって「特別に幸運な」「特別に不運な」一日を創り上げ、そう感じるに至ったにすぎません。


これが、別段

"一日"という規模でなくても

瞬時に起こった出来事に対して同様に考えられる、ということです。


つまり、

自分が生きる世界や環境は、

自分の心のあり様一つで、

美しく楽しいものにも、醜くて過酷なものにも変化してしまうのです。


また、

心が不浄であると、仏がそっぽを向いて真の有り難さを見せてくれないという意味では決してありません。

(ここでは「仏」という言葉を使っておりますが、

ぜひ宗教を問わず

皆さまそれぞれが信奉しておられる「ありがたい存在、エネルギー、神、宇宙の美しさ、恵み」に置き換えて考えてみてください。)


あくまでも、

仏は常に変わらないお姿でそこに、何よりも一番自分に近いところにおられます。


自分自身が気が付いていないだけなのです。


身の回りにありふれた何でもないようなものが美しく、

かけがえの無い恵みであり、

そして宇宙の芸術であり、神秘であります。


こうして見ると、

自分の外側に幸せを求め追いかけるのは

ナンセンスであることがよくお解りいただけるかと思います。


幸せになりたい、と願うなら

まず何よりも自分の心を清らかに保ち

幸せを幸せだと感じられる心を保つことが

最優先であると、

少しでも日常の中で思い留めていただけたら

その瞬間から幸せで美しい現実は創造されるはずです。


ぜひ、

目の前の現実に振り回されるのではなく

自身の心に向き合う時間を作ってみてください。

そして、ご自身が受け取れる最大限の恵みを

一瞬一瞬のなかで、

少しでも多く感じていただけたら幸いです。


合掌