こんばんは。

今日は2月初日ですが、個人的には4日連続の本社幹部対応と2件のイベントを無事終えて一安心したところです。

 

一応、来週も2件本社から偉い方が来ますが、いずれも総務が主担当なので、支社長&総務はともかく私の部署はもう年度内の本社対応は終わった気分が漂っています。

 

…まあ、あまりにも他人事っぽい態度だと反感を買いかねないので、一応手伝う姿勢は見せていますけど(苦笑)。

 

 

【バルセロナの歴史】

 

(Made and uploaded by Huhsunqu. - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=600037による)

 

さて、いよいよ来週末に迫ったスペイン・アンドラ旅行記ですが、予習編の最終回となる今回は、バルセロナの歴史を中心に取り上げます。

 

1 「カタルーニャ」誕生前史

バルセロナの名がカルタゴの名家バルカ家に由来することは、前回お話しましたが、都市としての歴史もまた、そのバルカ家の当主ハミルカル・バルカが第一次ポエニ戦争終結後のB.C.230年代に築いた植民市・バルチーノが起源でした。

(ハミルカルはあのハンニバルの父です。)

 

(Abalg - Travail personnel. La carte est vectorisée à partir de Image:Europe_topography_map.png. Les lieux sont repérés grâce à Image:Battles second punic war.png, Image:Second Punic War full.svg et cette carte sur Britannica. L'image des épées qui symbolisent les batailles a été obtenue à partir d'openclipart.org (Chrisdesign, public domain)., CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3545981による)

 

その後、バルセロナを含むイベリア半島東岸は、事実上バルカ家の私領となりますが、B.C.3世紀末に起きた第二次ポエニ戦争の結果、ローマがこの地を奪取

 

(英語版ウィキペディアのAndrei nacuさん - en.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3274724による)

 

その後、B.C.20年頃にはバルセロナにローマ植民市が建設され、当初からタラコネンシス属州の港湾都市として発展しました。

 

ただ、属州の首都はバルセロナではなく西のタラゴナに置かれ、古代ローマの下のバルセロナはあくまで数多ある植民市の1つに留まっていました。

(写真:5年前に見たタラゴナの水道橋

 

(Spedona - travail personnel (own work) d'après File:Royaume Wisigoths 2.png, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6647127による)

 

そしてローマ帝国の分裂後の5世紀初め、現在のフランス・トゥールーズを首都とする西ゴート王国がイベリア半島に進出し、7世紀までバルセロナはその支配下に置かれます。

 

しかし7世紀後半に入ると、アラビア半島を拠点に勢力を伸ばすイスラム勢力ウマイヤ朝がイベリア半島に進出。

 

711年には西ゴート王国を滅ぼし、バルセロナを含むイベリア半島全域がウマイヤ朝に占領されました。

 

その後、イベリア半島はキリスト教・イスラム教の両勢力の最前線として、1492年のナスル朝滅亡まで長い戦い(レコンキスタ)が続きますが、バルセロナ周辺がキリスト教勢力の下に戻ったのは比較的早く

 

801年にフランク王国のカール大帝がイベリア半島に遠征して、スペイン辺境領を拡大バルセロナ伯領としてフランスの影響下に置かれた際のことでした。

 

その後、バルセロナ伯領はキリスト教国でありながら、イスラムの進んだ文化を進取して大きく発展。

中でも航海技術の発展は海上貿易の活性化を促し、貿易で蓄えた富はさらに多くの人々をバルセロナに集めたのです。

 

さらに987年には、カタルーニャ君主国としてフランスからの事実上の独立を果たし、11世紀を通じて「カタルーニャ」という地域・国家の概念を確立させました。そして、この君主国こそが現在に至る「カタルーニャ」の起源といえます。

 

2 黄金の中世と落日の近世

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=340294)

 

カタルーニャ君主国は、領内が安定した12世紀初期には近隣諸国との連合や戦争などの対外進出を積極的に実施。

 

中でも、1137年に隣のアラゴン王国と婚姻関係を結んで成立したアラゴン・カタルーニャ連合王国の下では、バレンシア・マヨルカ島のほか南イタリアまで勢力下に収めました。

(上の地図の水色部分:連合王国の最大領域(1443年)

 

 

この12~15世紀半ばまでの間、黄金期を迎えたカタルーニャにおいて、バルセロナは首都として大きく発展。現在ゴシック地区と呼ばれる旧市街は、この時代に整備されたものです。

 

しかし、15世紀後半に入るとこうしたカタルーニャの繁栄は、2つの事情によって終焉を迎えます。

 

1つは、13世紀末に現在のトルコ(アナトリア半島西北部)で誕生したイスラム王朝・オスマン帝国が、急速に勢力を伸ばし新たな地中海の覇者となったこと(左:オスマン帝国の国旗)、

 

そしてもう1つが、イベリア半島中央部を拠点にレコンキスタの中心的役割を担ってきたカスティーリャ王国が、1469年にアラゴン王国と連合してスペイン王国を成立させたことであり、

 

前者はカタルーニャの海外領土の喪失、後者はスペインの権力の中心がバルセロナ(カタルーニャ)からトレド・マドリードといったカスティーリャ地方に移る事態をもたらしたのです。

 

(Continentalis - 不明, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16501475による)

 

その後、スペイン王国がイベリア半島内のイスラム勢力を一掃したのと同じ1492年、ポルトガルの支援を受けた探検家のクリストファー・コロンブスが新大陸を発見

 

いわゆる大航海時代、さらにスペインの黄金時代が幕を開けますが、勅令によりスペインと新大陸の交易はセビーリャなどアンダルシア諸港に限定されたため、カタルーニャはその恩恵を受けることなく衰退の一途を辿ります。

 

これは、スペイン王国の中核を成すカスティーリャが、独立心の強すぎるカタルーニャを抑える意図があったとされ、そのためカタルーニャ側の不満は高まる一方でした。

 

こうした中央政府に対するカタルーニャの不満は、三十年戦争の最中の1640年収穫人戦争として爆発。

 

中央のスペイン王国軍とフランスの支援を受けたカタルーニャ諸侯・住民の反乱軍が約20年間衝突を続けました。

 

この戦争、1641年のモンジュイックの戦い(上の絵)で勝利するなど、緒戦はカタルーニャ側が優位に立ちますが、次第に中央側が圧倒し、さらにフランスが火事場泥棒を狙って軍事介入を起こすと泥沼の展開に陥ったのです。

 

そして最終的には、1659年にカタルーニャの反乱軍が鎮圧され、フランスに北カタルーニャ地方を奪われるという、カタルーニャにとって踏んだり蹴ったりの結果となります。

 

その後も、カタルーニャは事あるごとに権限の拡大と独立を求めて反乱。特に18世紀初めのスペイン継承戦争の際には、3度にわたるバルセロナ包囲戦が展開されました。

(上の絵:第三次バルセロナ包囲戦(1713-1714年)

 

こうした反乱の相次ぐ失敗により、バルセロナを含むカタルーニャは大きく荒廃したのに加え、自治政府の廃止や交易権の制限、監視のための城壁の建築、さらにカタルーニャ語の禁止など中央政府の厳しい統制下に置かれたのです。

 

3 バルセロナ大拡張、そして1970年代まで続いた弾圧

(Alhzeiia - Eixample aire.jpg, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=114471109による)

 

そんなカタルーニャの冬の時代は、19世紀にスペインでも産業革命が始まると、政治的・文化的にはともかく、経済的には大きな変化が訪れます。

 

特にバルセロナでは貿易や織物工業が発展するとともに、公衆衛生などの都市問題に対処するため、19世紀後半には市域の大幅な拡張が実施されました。

 

ちなみにこの市域拡張には、カタルーニャ人の都市計画家イルデフォンソ・セルダの「大拡張計画」が採用され、街を囲む城壁を撤去した上で133.4m四方の正方形を一区画として、碁盤の目のように南北に道路を敷いたのがこの計画の特徴です。

(上の新市街の航空写真参照。)

 

 

こうした市域の拡張とともにバルセロナはさらに経済的に発展

また、文化面でも19世紀末~20世紀初期にはカサ・ミラ(写真1枚目)や未だ建設途上のサグラダ・ファミリア(同2枚目)に代表されるアントニ・ガウディの建築群や、

 

カタルーニャ音楽堂に代表されるモデルニスモ建築が次々と建てられ、バルセロナはスペイン屈指の産業・文化都市として見事に復活を遂げました。

 

さらに、20世紀初めのカタルーニャでは文化的・経済的な復権に続き、自治や独立の獲得に向けた政治活動が活発化しますが、こちらは成果を結ぶことはなく

 

(CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=476555)

 

むしろ1936年~1939年のスペイン内戦で敗れた人民戦線側(上の地図の赤色)に与してしまったことで、戦後フランコ政権による強烈な弾圧を受けます。

 

そして、内戦後の約35年間はカタルーニャ語の使用が再び禁止されたり、民族主義者が次々と逮捕・処刑されるなど、カタルーニャの苦難の時代が再び続いたのです。

 

4 自治の復活と再燃した独立問題

1975年にフランコがこの世を去ると、直ちに王政復古がなされるとともに国王の下で急速に民主化が進み、1979年にはようやくカタルーニャが自治権を回復します。

カタルーニャ自治州の成立。写真は州政府庁舎)

 

そして、強い産業基盤を背景に外国企業を州内に積極的に誘致して、工業生産力をスペイン国内で最大にまで成長させ、

 

さらに、1992年にはカタルーニャ色を前面に押し出したバルセロナ・オリンピックを大成功させたことを切っ掛けに、世界有数の観光都市としても大きく花開くに至りました。

 

こうして、スペインではマドリード都市圏と双璧を成す有力地域となったカタルーニャ自治州ですが、2010年代に入ると今度は自治を超えたスペインからの独立を強く要求します。

 

当然、有力な経済基盤を失いかねないスペインは要求を拒絶するも、カタルーニャは2014年に州の住民投票を強行し(結果:独立賛成が多数)、ついに2017年には独立宣言を行ったのです。

自称”カタルーニャ共和国”の成立)

 

 

(国章:Joan M. Borràs (ebrenc), CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11618229による)

 

しかし、これに対しスペイン中央政府及び最高裁は直ちに無効を宣言し、カタルーニャ自治州の自治権を停止

(上の図案は自称”カタルーニャ共和国”の国旗国章

 

”カタルーニャ共和国”首脳部の起訴や中央政府による直接統治などの対抗策を次々と受け、現在もカタルーニャは「事実上の独立」にすら至っていない状況です。

 

なお、この「一方的独立宣言」状態は今も続いているそうですが、現時点では旅行等で行くには全く支障はないそうです。

 

上述の歴史的経緯とカタルーニャ自治州単独の経済力等を見ると、独立したい気持ちは理解できますが、第三者としてはさすがに無理筋だと思いますね…(汗)。

 

 

以上、全3回にわたりアンドラとバルセロナ(カタルーニャ)の概要と歴史を紹介してきましたが、アンドラはともかく(苦笑)、バルセロナについては様々な書籍やHPで詳しく解説されているため、皆さんにとって有益な内容だったかは自信がありません。

 

今後、週末からの旅行中の現地ダイジェスト、そして帰国後の旅行記本編を通じて、より具体的に2つの国の魅力を紹介する予定ですので、各々お楽しみいただけると幸いです。

ではでは。