こんばんは。

実はこの数時間前、今年度2度目の福井日帰り旅行から帰ってきたところですが、その話はまた明日の記事で紹介するとして、今週の大きな話題として、人気アイドルグループ「乃木坂46」の生駒里奈さんの卒業の発表がありました。

 

年度末22歳という、一般人の大学卒業と同じタイミングのこの発表は、先日卒業したばかりの某モモクロの緑の方と相通じる点がありますが、ファンであれば寂しい思いを堪えつつ、今後の活躍を見守ってほしいところですね。

 

創立当初からの人気メンバーとしては、深川麻衣さん・橋本奈々未さんに続きこれで3人目の卒業となりますが、間もなく卒業の季節だけに、同グループで私が最も好きな曲「サヨナラの意味」を聞きたくなる今日この頃です。

 

…あ、同じ乃木坂46の川村真洋さんが昨日、3月末での卒業を発表した件については、ノーコメントにさせてください(汗)。

 

 

【インドの歴史 (2)】

 

さて、ここからは本題のインド旅行記の予習編ですが、今回はその締め括りとしてムガル帝国が全盛期を迎えた17世紀半ばから現代までの歴史を簡単に紹介します。

 

Ⅳ.近代② (ムガル帝国の衰亡)

ムガル帝国は17世紀前半、5代皇帝シャー・ジャハーンの下で最も安定した時代を迎えたというのは前回紹介しましたが、その一方で帝国の統治に歪みが生まれた時代でもありました。

 

1つ目は、シャー・ジャハーンはムスリムの守護者としての気風の強さや、帝国の繁栄への驕りもあってか、国内の統治において父と祖父ほどの宗教的寛容さはなく、彼の治世において異教徒の不満が芽生えつつあった点です。

 

2つ目は、タージ・マハルの建築や文化施策への傾倒が、豊かだった帝国の財政を傾かせた点でした。

 

そんなシャー・ジャハーンの後継者争いに勝利し、1658年に6代皇帝として即位したのがアウラングゼーブです。

 

彼は、父以上に敬虔なムスリムで、アクバル以来の異教徒への寛容な宗教政策を完全に放棄し、帝国の全臣民にシャリーア(イスラム法)による支配を強制しますが、これはヒンドゥー教徒らの激しい反発を招きます。

 

(Nataraja, edited by Safkan - fr:Image:Moghol.jpg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=109778686による)

 

これに対し、アウラングゼーブは武力による反乱の鎮圧とデカン・南インドの征服で応じ、彼の統治下でムガル帝国の領土は史上最大となりました。

 

しかし、史上最大の版図が最高の繁栄をもたらすことはなく、彼の49年に及ぶ治世の末期(17世紀末)は、相次ぐ異教徒の反乱重税による国民生活の悪化、そして帝国財政の崩壊という悲惨な結果となってしまいました。

これは、民族・宗教的多様性が豊かなインドを、単一の宗教の下で治めること自体が非現実的だったということでしょう。

 

1707年にアウラングゼーブが失意の死を遂げた後、帝国で異教徒の反乱と諸王の独立が相次ぐと、これまでゴア(ポルトガル)やカルカッタ(イギリス)など、海沿いの都市への進出に留まっていた西欧列強が、インドに本格進出を試み始めます。

 

その代表格が英仏の両東インド会社であり、会社と言いつつ自ら軍隊を保有する両者は、インドの支配を巡り激しく争いますが、1757年ブラッシーの戦いでイギリス東インド会社(EIC)がムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍を破ると、EICの優勢が確立します。

 

 

(紋章:TRAJAN 117  このW3C-unspecified ベクター画像はInkscapeで作成されました . - 投稿者自身による作品, based upon [1], CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15648243による)

 

ちなみに、上の図はEICの社旗と紋章です。王室に認められた勅許会社らしく、国みたいで格好いいですね。

 

ちなみに、ブラッシーの戦いが起こった18世紀半ばの時点でムガル帝国はすでにかつての領土の大半を喪失しており、辛うじてデリー周辺を治めるに留まる状況にありました。

 

そんな、民族・宗教間の争いを続けるインドにあって、EICは巧みに国内の対立を利用して侵略を進め、19世紀前半にはインドのほとんどの植民地化に成功しました。

 

 

このインド植民地化の中で生まれたのが、アヘンを清に持ち込み流行させたことで悪名高い三角貿易ですが、19世紀初め、この三角貿易のためにインドの伝統的な綿織物業を壊滅させたことはあまり知られていません。

 

わかりやすく説明すると、19世紀初めの三者は、イギリスがインドから綿織物(キャリコ)を、清から茶を輸入することで、イギリスは両者から多額の貿易赤字を抱えていました。

 

その対策として、まずイギリスはインド製の綿織物に多額の関税を課して自国市場から排除しつつ、イギリス製の綿織物をインドに無税で大量輸出します。

その上で、優れたインドの織物職人に対しては、拉致して両腕を切断するなど、経済的にのみならず物理的にも攻撃を加えてインドの綿織物産業を破壊しました。

 

これにより、綿花の納入先がなくなったインドの農家は、代わりにイギリスに綿花を輸出する立場に追い込まれました。それだけでなく、EICの統治の下でアヘンを大量に生産し、対清貿易の赤字解消の道具として利用されたのです。

 

そんな某北朝鮮風に言うと「犬畜生にも劣る人間のクズ」の所業を行うとともに、反対勢力を弾圧するEICには、当然インドの各層・各地の人々が憎悪を抱くようになり、それが爆発したのが1857年に始まるインド大反乱でした。

(注:以前は「セポイの反乱」の呼称が一般的でした。)

 

北インドのメーラトでセポイ(EICに雇用されたインド人傭兵)が蜂起したことに始まるこの反乱は、瞬く間にムガル帝国の首都デリーに到達し、反乱軍は皇帝バハードゥル・シャー2世を盟主としてEIC(=イギリス)に宣戦布告します。

 

盟主を得た反乱は瞬く間に拡大し、その範囲は北インドを中心に全インドの3分の2にまで及び、一時はEIC及びイギリス軍を圧倒しました。

 

しかし、ここでも内部の民族・宗教対立でまとまりを欠く反乱軍は、体制を整えたEIC・イギリス軍の最新の軍備・戦術に次々と撃破され、1年余りで反乱は鎮圧されてしまいます。

 

そして反乱の鎮圧時、フマユーン廟に逃げ込んだ皇帝バハードゥル・シャー2世はイギリス軍に捕えられてビルマに追放され、この時ムガル帝国は名実ともに滅亡しました。

 

反乱の鎮圧後、イギリスは二度とインド人が反乱を起こさないよう、捕虜に対して残虐な報復を行う一方、反乱の責任をEICに負わせてこれを解散1858年インド統治法を成立させ、藩王国による間接統治体制を導入しました。

 

なお、この残虐な報復の一例として、上の絵の大砲に括り付けて木の砲弾を発射したり、ヒンドゥー・イスラム教徒にとって禁忌である牛や豚の血を無理矢理飲ませた後殺害するといったものがあります(汗)。

書いていて、本当に反吐の出る話です。

 

その後、イギリスは藩王国の統治能力の不足を理由に直接統治体制に切り替え、1877年ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立させ、約70年にわたるイギリス統治時代が始まったのです。

 

 

Ⅳ.近代③ (イギリス統治時代)

インド帝国は、現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ネパール・ミャンマーをその版図とし、成立から解体まで一貫して、イギリス人の総督を事実上の最高権力者とする事実上の英国植民地であり続けました。

 

そして、インドにおけるイギリスの植民地政策は、「分割統治」と呼ばれる手法が用いられ、異なる民族・宗教・地域間で意図的に処遇に格差を設け、インド人同士でお互いに対立させ、イギリスに不満の矛先が向かないようにするものでした。

 

悪辣ながら非常に有効なこの方法は、インド人知識層の懐柔のため1885年に設けたインド国民会議注:非知識層は排除)や、民族間の分断を図ったベンガル分割令(1905年)、

 

そしてヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を煽るための全インド・ムスリム同盟(1906年)の設立など枚挙に暇はなく、その徹底ぶりには思わず寒気がするほどです。

 

ちなみに、この分割統治策の1つとして利用されたのがヒンドゥー教の「カースト」であり、イギリスはイスラム文化の流入により薄れていたこの考えを意図的に復活させ、ヒンドゥー教徒内の団結を妨げたのです。

 

つまり、イギリス統治がなければ、今のインドのカーストはもっと弱い観念になった可能性があったわけで、中東だけでなくインドでも、イギリスは今も尾を引く問題を作ったといえます。

うん、やっぱりイギリスは畜生ですね(苦笑)。

 

 

そんな徹底的なイギリス支配の下でも、20世紀に入ると民族運動がインド人の間で高まり、特に1910年代には2人の英雄が、歴史の表舞台に現れます。

 

その2人こそ、後にそれぞれインド・パキスタンの建国の父となる、マハトマ・ガンディー(左の写真)とムハンマド・アリー・ジンナー(右の写真)です。

 

そして、インド独立に向けた運動は、インド人が自治権の獲得を条件に第一次世界大戦に協力し、多大な犠牲を払ったにもかかわらず、戦後に反故にされるというイギリスの背信行為もあってさらに激化。

 

ガンディーとジンナーという2人の優れた指導者の下、前者は有名な非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)、後者は比較的攻撃的な路線と、その方針・行動は大きく異なりましたが、ようやく組織的なまとまりを見せ宗主国イギリスを本格的に揺さぶるに至ります。

 

こうした反英・独立運動の高まりから、1939年に始まった第二次世界大戦では、インドは連合国側として参戦するものの非協力的な姿勢を貫きました。

 

それどころか、スバス・チャンドラ・ボース(写真)ら一部の有力者に至っては、同じ有色人種の国である日本と手を結んでインド国民軍を結成し、日本軍と内応してしまうほどです。

 

 

ただ、イギリスは第二次世界大戦で多大な被害を出しつつも勝利を収め、インド国民軍による独立も阻止することに成功しますが、もうその時点でイギリスは疲弊し、独立運動が激化するインドを植民地とし続けることは不可能となりました。

 

一方、インド人側もヒンドゥー教徒とムスリムの間の対立が激化しており、ガンディーやジンナーら指導者層の間で妥協を図るも功を奏せず、最終的に喧嘩別れの形で1947年にインドとパキスタンが独立したのです。

(左がインド、右がパキスタンの国旗

 

さらにこの翌年、ビルマ(現ミャンマー)とスリランカが独立することで、インド帝国は完全にこの世から消え去り

 

「インドはイギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石

「我々は、インド以外の全ての植民地を失っても生き延びることができるだろう。しかし、インドを失えば、我々の太陽は没するであろう」

 

とかつてその政治・経済的重要性を現した言葉のとおり、インド喪失は落日の大英帝国の象徴となりました。

余談ですが、イギリスが没落しても何の感傷も湧かないのは、やはり過去の畜生ぶりの蓄積故なのでしょうね(笑)。

 

 

Ⅴ.現代

 

独立後のインドは、ネルー親子(左は初代首相ジャワハルラール・ネルー、右はその娘の第5・8代首相インディラ・ガンディー)らの指導の下、国際的にはユーゴスラビアなどと並ぶ非同盟主義の主導的役割を担いつつ、独立運動以来の宿敵パキスタンとは3度の印パ戦争を繰り広げます。

 

特に、1972年の第三次印パ戦争では、中国の後押しを受けるパキスタンに対し、ソ連とともに東パキスタンの独立を支援することで、バングラデシュの分離独立を実現し、東西でパキスタンに挟まれる地政学的な危険を解消しました。

(上はバングラデシュの国旗

 

この後、インドは核兵器の保有や急激な経済成長などを経て現在に至り、インドの歴史の紹介、そして旅行記の予習編は完結となります。

 

この後、来週の金曜日から始まるインド旅行では、また空いた時間にダイジェストを掲載していきますので、予習編に続きこちらもぜひお楽しみに

ではでは。