自分とはどこまでか? | ちびタンクのひとりごと

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自分とはどこまでか?

人は、自分を特別視(えこひいき)しているらしい。

例えば、唾やら、う⚪︎こ💩やらが、自分の中にあるときにはなんとも思わない。
でも自分の外に出した途端に、もう自分の体の中に戻す(出した唾を飲み込めという)のには、相当の抵抗があるでしょう?

自分の中にある時は大丈夫で、外に出した途端に汚く感じる。
それは人間が自分を特別視しているからなんだよ、というのは、敬愛する養老孟司先生の教えである。

おっしゃる通り。


一方で、自分とは全く関係がない事柄なのに、自分のことのように感じるものもある。
それを最初に感じたのは、旦那の中日ドラゴンズ愛だった。

自分には全く関係がなく、かつ、自分の思い通りには全くないのに、毎回試合を観ては一喜一憂する。
負け続きで試合を観るだけでフラストレーションがたまるのに、それでも好きって、なんなんだろう?と、数年前から気になっていた。

それで思った。
これがアイデンティティ=自分の一部
ってやつなのか。

わからないわけでもない。
例えばWBCとか、ワールドカップとか、私もやっぱり日本を応援してしまう。
日本が勝てば嬉しい。

高校野球なんかも、ついつい出身県を応援するし、地元の学校が出れば、もう知ったかで応援してしまう。

これには、自分<地元<出身県<日本人というアイデンティティがあって、そのアイデンティティの属性が社会(世界)的に認められることによって、優越感を得られるからだ。

自分の子どもや身内の子どもなんかは、その最たるものだろう。

私たちは、物質的(唾やう⚪︎こ💩)には自分から一歩出れば異質なのに、思想の上では、自分はどんどん広げることができる。

では、どこまでが自分(の一部)なのか?

逆説的だけど、もしかしたたら、概念上の自分以外のもの(他者、他自治体、他県、他国、地球以外)を感じられたとき、初めて“自分”が広がるのかもしれない。

概念上の自分が広がるのは豊かである一方で、それはどうにもならない存在であるということも自覚すべきである。
さらに言えば、物質上の自分でさえコントロールできる存在ではないことを、私たちは忘れてはならない。