こんばんは☆ しずです。
あああああ(T T)
さっきまで,いい感じで,今日あったことを書き,
それから旅行記も書いてたのよ。
それが・・・
なんかわからんがページがすっ飛んでしまい,
全部消えました。。。(泣)
と言うことで,今日あったことは省略して,旅行記だけ,書き直します。。。(涙)
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私が初めてブッダガヤを訪れたのは,今から4年前。
私はその日,ブッダガヤのマハボディの奥の菩提樹の木陰に座り込み,一日中泣き続けていた。
2008年,9月のことだった。
インド北西部に位置するビハール州の中でも,ブッダガヤは,鉄道駅のあるガヤ駅から車で30分程度かかる,小さな小さな街である。
その小さな町が,私にとって,この旅でどうしても行きたい場所の一つであった。
ブッダガヤ。
仏教の聖地。
そう,ブッダが悟りを開いたと言われる地である。
私は特に熱心な仏教徒と言うわけではない。
むしろ多くの日本人の例に漏れず,
お前の宗教は何かと問いただされれば,仏教であろうという程度の仏教徒である。
実家の寺の宗派も,最近まで知らなかったほどだ。
世界の宗教観のレベルで言ったら,本来は無宗教と言うべきかもしれない。
そんな私の当時のブッダガヤの知識と言ったら,
バックパッカーのバイブル,沢木耕太郎氏の著書「深夜特急」に登場するブッダガヤである。
そこに登場するブッダガヤに仏教的宗教的要素はほとんどない。
ひょんなことから著書がブッダガヤのアシュラム(いわゆる孤児院)に滞在し,
青年や子供たちと過ごした日々が,美しく鮮明に描かれていた。
そんなブッダガヤにあこがれに近い印象があったのは確かである。
しかし私はなぜか,もっと強い意志をももって,ブッダガヤに赴いていた。
確かに私は,いくつか旅を続ける中で,
自分は「信仰の場」が好きだと気づいた。
「祈りの場」には何か不思議な空気が流れており,
そこに居るといつもとてもよい気分になれた。
あるいは,信仰の場には,本当の土地の人が存在していたからかもしれない。
観光客を相手に,お金が介在することで会話を成り立たせるのではない,
本当の,その土地に住む人の日常があり,生活があった。
私はただ,”人”や,そこにある”生活”が知りたかっただけなのかもしれない。
そういう意味で,私は旅にでると必ずその土地の信仰の場に立ち寄っていた。
モスクにも教会にも,寺にも立ち寄った。宗教は問わない。
そのほとんどが,名も知れない,たまたまその土地にあった教会なりモスクなりであり,
こんな風に強い意志をもって,宗教的価値ある場所に行こきたいと思うのは,
初めてのことであった。
そう,この旅に出ることに決めてから,
ブッダガヤは,
「行かねばならない」
なぜかそんな思いに駆られていたのであった。
そしてその土地で,私は訳もなく,一日中,涙をこぼし続けたのである。
---つづく---