| 結婚を前提とした私達・INDEX 

 

 もう元気なのだと分かったところで、はしたない気持ちが生まれ出てきたのはなぜだろう。

 奥村はいつ帰ってくるのだろう。
 と考えるたび、純粋な会いたさの隙間から飛び出てきたよこしまな気持ち。
 帰ってきたら抱きしめてしまいたい。
 抱きしめてキスをして、その先もして欲しい――だなんて気持ちが、湧き出てしまっていた。

(よう子はエロビデオでもみてぐうたらとしてなさい.)

 手紙に添えられていた、馬鹿げていた一文。ふざけてる、と冷笑していた一文。
 でもいまになってあの一文が笑えない。このもやもやした気持ちが引っ込むのなら、アダルトビデオでも何だって見てやるのに。

 いや無理か。
 ますます引っ込みがつかなくなるだろうから。

 ・

 カレーはとうに出来あがった。
 あとは炊飯器にセットした米が炊きあがるのを待つだけ、というところで携帯が鳴った。
 陽が沈み、明かりを点さなければならないほど室内も翳ってきたところで、メールの受信音が。

(連絡もらえて良かった
 陽子の具合もだいぶ良くなったようで何より
 新しい勤務先決まった
 詳しくは帰ってからで
 六時に退勤
 カレー楽しみ
 でもあまり無理せず)

 送り主はもちろん「むらた」。
 いや、奥村だった。

 でもあの置き手紙とはまるで違う。
 かけらもふざけていない。
 向こうは完全にオンモード。仕事の合間を縫って送ってきたような、堅い文。伝えたいことだけ並べたような、羅列文。

 それらを目にしたとたんに、すうと頭が冷えていった。
 なにをさっきまで欲情していたのだろう、と。

 抱きしめてキスをして、その先もして欲しい――だなんて、病み上がりのくせにどうかしている。ばかみたい。
 誰かが欲情にかられているなんて知る由もなく、あの人はあくせく働いていたのに。
 今日は人事異動を言い渡されるような重要日。その通り内示を告げられて、向こうはそれで頭がいっぱいになっているのだろうに。

 ははは、と渇いた笑いをひとつ、こぼしてみる。
 自らのはしたなさを恥じながら。
 携帯のディスプレイに表示された、味気ないメッセージを目にしながら。


 ・


 ところが奥村は帰ってこなかった。

(六時に退勤)
 つまり六時になったら、勤務先のあのドラッグストアから直帰する――と連絡を寄こしておきながら。

 車で帰ってくるとして、このアパートまでそう時間は要しない。まして一時間なんてかかりようもない。

 なのに時計の短針は7のところにまで達しそう。
 だからつい、メールを送りつけてしまっていた。
 極力、催促めいたものにならないように。

(もうすぐ七時だけど奥村まだ仕事中?
 結局残業になっちゃった?)

 でも返しはなかった。何も。味気ない一文すらも。
 
 玄関ドアの鍵をまわし、外への扉を開けていく。
 もう雪が降ってくる気配もない。空の黒と積雪の白とで静まり返っていた住宅街。二階の玄関ドアから下の駐車場を見おろしたって、奥村の車はない。黒のレガシィは。

 はあ、と息をついて家の中へ戻ったら、カレーの匂いにまぎれて鼻をかすめた嫌な匂い。
 
 なんだこれ。

 と、慌てて襟元をつかんでみる。脇にも顔を近づけてみる。

 汗の匂いだった。自分の。
 そういえばずっとお風呂に入っていなかった。

 この寒い時期だ。二日ふつか三日みっか入浴しなくったって正直、身体の汚れなど大してない。
 でも熱を出したとなれば話は違う。普段の体温に戻すため、大量の汗をかいてしまったとなれば。

 急に自分が、汚らしいものに思えてきてしまった。
 こんな状態でいるのが嫌になってしまった。こんな状態で、おかえり、と奥村を出迎えたくはない。

 ・

 大急ぎで入浴を済ましたあとだった。
 奥村の部屋にしばらく置いてあった自分のパジャマを引っ張りだして。それを着て。ばしゃばしゃと化粧水を顔にくっつけて。ドライヤーで髪の毛をざざっと乾かし終えた、そんな時。

 おい、だろうか。
 陽子、だろうか。
 閉めきった洗面所のドアの向こうから、呼ばれているような声がした。

 そうっと開けてみたドアの向こうに、奥村がいた。
 
 カーキ色のブルゾン姿で。
 こうこうと点された部屋明かりの下に突っ立って。背中を見せつけて。

 

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