「神返る(かんがえる)」
2007/5/27
今日のメッセージの映像は、私の意識が、地上の物ではなく、宇宙の一部である理・ことが感じられていた。
そして、私の書いた文章が映し出されて来て、其の文章の中の「考え」との単語の下に、間違いを示す赤い線が引かれていた。
何故「考え」の単語に、間違いの線が引かれていたのかを考えると、日本語の「かんがえる」の言葉に、漢字の「考・コウ」が合っていない事を、伝えて来ているのではないだろうか。
 漢字の「考」は「老+丂」の組み合わせで、「丂」は曲がった彫刻刀の象形だから、長生きして体験を積んだ老人は、技が巧みで、知識も多いとの意味であろう。
其れは、知恵が有り、思慮深くて、生きる為の技術にも、詳しいとの意味を含んでいるのだろう。
しかし、其れが、日本語の「かんがえる」には、合致していない理・ことを知らせて来ている。
 では、どの漢字を、日本語の「かんがえる」に当てれば良いかと言えば、「神返る」が適当なのではないだろうか。
日本語では、神は、古くは「カミ」ではなく「カン」である。
だから「かんがえる」とは、「神の意志が 人間の疑問に対して 応答して来る」との、意味ではないだろうか。
そうであれば、「知」の漢字の方が、其の意味に合っている事になる。
「知」は、「矢+口」の組み合わせであり「手にして居る矢を 神に預けて 神の言葉を受け取る・知らされる」との意味である。
そして、智恵の「智」は、「知+曰」の組み合わせで、其の神に知らされた事を、「口を開いて 皆に知らせる」との意味である。
そして、其の「知」の前の行程に、「聖」と「神」の漢字の概念が有る。
「聖」は、「耳+口+王」の組み合わせで、「耳を澄まして 神の言葉を受け取る人」を意味し、「神」は「示+申」の組合せで、「示」は祭壇の意味で、「申」は神霊からの電気信号の意味であるので、聖と神を合わせると「祭壇を設けて 其の前で 聖人が神霊からの情報を 受け取る」との意味に成る。
其れが「知らされる」との意味である。
 これ等の事を考えると、「考える」の単語の使い方は間違いで、簡単に自分の意志で想った事を、考えとは言えない事になる。
特に、私の文章は、自分の意志で考えた事ではなく、神霊や、宇宙からのメッセージを解読しているものだから、自分の考えだと言うと、間違いに成ってしまうのだ。
だから、今朝のメッセージを、正しく受け取れば、私の文章は、私の「祈り(帰命)」に対して、神が対応して来ている事だから、「神返る」か「神応る」と、記さなければならないのではないだろうか。・・・
「神返る(かんがえる)」