なぜ、いじめは無くならないのか? | 気になるレベルアップ情報

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なぜ、いじめは無くならないのか?

 

世界保健機関、国際労働機関、国際公務員労組連盟などによれば、いじめとは児童に限らず、自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした執念深い・冷酷な・あるいは悪意のある企てによって、長期に亘って繰り返される不快な行為であるとしている。

日本政府による定義では、2006年以前の日本文部科学省の定義は、自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているものとしてきた。しかし、2006年度の文部科学省では、いじめの新定義として当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているものとし、起こった場所は学校の内外を問わないことにした。そして、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断は表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものに変更した。また、具体的ないじめの種類にもパソコン・携帯電話での中傷や悪口なども追加され、いじめの件数についても発生件数から認知件数に変更された。

 

さて、自然は、人類を快楽と苦痛という2つの主権者の支配のもとに置いてきた。

そこで、ジェレミ・ベンサムは、功利主義の中で、人類が何を成すべきかを決定するには、快楽と苦痛のいずれかの選択肢にあると考えた。ここで言う快楽とは善であり、苦痛とは悪に相応する。歴史的に名を残したベンサムの考え方は、快楽が苦痛を上まわることが望ましいとし、少数の犠牲があっても、残りの多数者が幸福になれるなら正しいとした。社会全体の幸福を重視するという発想は昔からあった。功利主義を体系化したのはベンサムの最大多数の最大幸福と呼ばれるキャッチフレ-ズである。功利主義( utilitarianism)とは、行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利・有用性)によって決定されるとする考え方である。

 

例えば、交通事故の犠牲者が多少あっても、車を使用することで大多数が幸せになれるのであれば、車社会を止めようとしない道理に繋がる。コンピュ-タ-が上手に使用できず不便を感じている人がいても、情報化社会の急速な発展が加速するならば、少数派が犠牲になっても、現実的には仕方がないとして受け入れることを意味している。この立場は現代社会でも強く支持されているが、一方ではさまざまな批判的立場もあるようだ。なぜ、いじめは無くならないのか? その理由をベンサムの理論に従うなら、多数の幸福のために少数派が犠牲になり、残酷な現実を受け入れてしまうからとするだろう。ならば、いじめを無くすには、社会が最大多数の最大幸福を放棄すれば (正確には最大幸福を放棄)いじめは回避できることにもなる。もし、誰かが困っていたならば、自分を犠牲にしても、手を差し伸べるような価値観をもった人が増えれば、いじめは自然と減少して行くことになる。小手先のいじめ規制だけでは、残酷ないじめの現実は決して無くならない。そのことを人々や行政は気が付かねばならない。