異説で暴く日本史の謎 | 空想俳人日記

異説で暴く日本史の謎

 実は、子どもの時に学んだ歴史が「ウソピョ~ン」だった。そんなこともあって。学校で習った歴史って、何だったんだあ~。そんな気持ちで、この本を手にした。

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 ずっと、学校で習ってた、聖徳太子。いわゆる厩戸王だよね。 冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣など国家体制を整え、天皇による中央集権を進めた人物。そう習ったよね。でも、「日本書紀」を編纂した連中が、空想上の彼を作ったらしいじゃない。どうなの(何故に捜索したかと言うと、厭らしい争いに屁理屈をつけて正当化するために登場させたみたいだね。詳しくは、この本を読んでね)。
 あと、鎌倉幕府の成立は、僕らは「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」って習ったけど、これ、ウソだって。
 歴史って、終わったことだから、不変だと思っていたら、なんのことはない、学校で習ったことも怪しい。なので、もう一度、本当のことが知りたくて手に取った。

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 冒頭は、今の時流から、徳川家康関連。だいたい、他から情報を入手してたから納得だけど、家康の危機は、三大危機でなく、二つなんだ。三方ヶ原の戦い、それと、本能寺の変の時の伊賀越え。ここでは、もう一つの三河一向一揆については書かれていない。どうした家康。

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 まあ、それは、ともかく、本論に入ろう。というか、日本の歴史は。いつまでが嘘っぱちで、いつからほんまなんやろう。
 どうやら、古事記や日本書紀は、西洋で言う、旧約聖書や新約聖書みたいなところもあって、フィクションだと思えばいい。日本書紀が編纂されたのは、藤原氏の不比等の時代。それ以前の時代は、事実もあろうが、分らんところや、都合が悪いところは、創作されている模様。
 特に、藤原氏と天皇の関係(のちのち摂政関白)を美化するために、聖徳太子が創造上の人物として描かれた、みたいだ。だから、ボクらは、彼を歴史上の人物として学んだが、どうやら、嘘みたい。
 日本の歴史が確かになるのは、日本書紀を編纂した藤原不比等の「日本書紀」以降だねえ。「古事記」も「日本書紀」も、神話伝説。いわゆる西洋の「旧約聖書」「新約聖書」。
 世界の歴史を「旧約聖書」「新約聖書」から紐解くのは真実でないと同じように「古事記」や「日本書紀」は聖書みたいなもんだよね。

 でも、その中で、天皇と藤原氏の関係は、書かれているみたい。天皇も結構眉唾的存在なんだけど(あの天照大神だからねえ)、そこで登場する摂政関白。
 この藤原氏は、道長、頼道でピークを迎える。天皇と癒着し続けるためには、絶えず、我が娘を天皇に献上していた。
 それがなくなるのが、中世の平家や源氏だねえ。この本では、平家はあんまし描かれてないけど。そりゃそうだね、平家は、まだまだ朝廷に癒着したがってた。問題は、武士の登場の源氏だもんね。
 実は、今更ながら大事なのは、このときまで、日本は一つじゃない。西日本と東日本、同じ国じゃないよ~。
 九州を玄関(大陸に向けての)とし、距離を置いて近畿に都を置き、さらに奥の院として伊勢神宮、これが西国日本。それより東は外国諸国。それが日本という国の始まりだと思った方がいいらしい。

 そして、東の諸国外国が一つにまとまっていった、それが鎌倉幕府と。幕府と言う名は後から生まれた。武士の時代として東が成立するとすれば、西の天皇国家の支配下でなく、別の勢力と考えれば、源頼朝の征夷大将軍授かった1192年も、軍事・行政官「守護」や税金集めなどをする「地頭」を任命する権利を得た1185年も、西のお墨付きをもらっただけなので、1180年に頼朝が鎌倉入りし御家人を統率する「侍所」が設置したとき、いわゆる鎌倉殿のはじまりが鎌倉幕府の誕生とした方が、スムーズ。この本では、そう書かれている。
 学校の教科書は、かつて1192年。今は1185年だそうで、テストに答えを書くときは、1185年かな。でも、ボクも1180年説が正しい気がしている。
 では、源氏は、完全に都とは別勢力かと言えば、それが、また、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の時に実質的に権力を13人の御家人に奪われ、3代将軍・源実朝の頃には北条氏が執権となり、政治の実権を握る。頼朝のあとの頼家も実朝も、やはり朝廷を気にするタイプだったので、鎌倉13人衆、特に北条氏が「武士の世界を作るぞ」と権力を揮うわけですなあ。

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 そうして、とうとう朝廷VS幕府、つまり貴族VS武士の戦いが起きるわけですな。これは、日本にとって、最も重要な戦い。1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた承久の変だ。日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争い。
 ただ、この時から日本は武士の世の中になるのだが、なんで、天皇制を壊滅させなんだのかな、そう思うのはボクだけかな。何故なら、そうしていれば、明治維新が随分変わっていたのではなかろうか。尊王攘夷という思想は生まれなかったのではないか。明治・大正・昭和の敗戦まで、日本は天皇主権の帝国主義社会だった。その間の戦争、特に第二次大戦での敗戦に対し、「もしも、○○であったなら」、つまり、早く戦争を止めていれば、という発想があったとしても、天皇主権が残ったら意味がない。国民主権という民主主義化のおかげで、象徴としての天皇になったが、「もしも」を過去の歴史に適用するならば、この承久の変まで遡らなければならない、と思うのはボクだけ?

 さて、承久の変以降、武士の世の中になるのだが、室町幕府や、その後の戦国の世は、実は、それほど大きく取り上げる必要なかろうと思う。いやあ、これも、ボクだけだけどね。特に、戦国の世の武将たちの戦いぶりは、ある人たちにとって今を生きるための戦略に役に立つという、そういう意見もあろうかと。確かにそうかもしれへんが、ボクは、所詮、陣地取り合戦じゃん。そう思うのよ。
 なので、最終的に、武士の世は徳川幕府の時代になるんだけど、江戸時代は250年余り続いてるんだよねえ。明治維新から今日までだって、150年余りだし、終戦から数えれば、まだ80年も経ってないよ。

 とりあえず、鎌倉幕府は後醍醐天皇に滅ぼされた。のではない、というお話は、鋭い。ようは、モンゴル、元寇のせい。対外政策がへたくそなのね。これは、古代の白村江の戦いや、江戸時代末期のペリー来航にも言えること。北条氏は元が交易を求めてきたのに無視したから、元は攻めてきた。その負け戦で武士たちから信頼を失うのね。その隙に後醍醐天皇がねえ。でも、結局、足利尊氏が登場して室町幕府。ただ、なんで、室町幕府は室町なんだろう。
 さ、戦国時代へ参ろう。ちなみに、戦国武将たちは、信長のように誰もが天下を取ろうとしてたのではない。その陣取り合戦は、自らの拠点を守るためのもので、五あゆる隣組との喧嘩みたいなものだ。喧嘩と言っても殺し合いだし、勝つか負けるしかないから大変だ。攻めた方は攻めきれれば勝ちだが、守った方は守り切れれば勝ちだ。よう分からん。

 とにかく、戦国時代は興味がない。武将の戦略・戦術にも興味がない。ところが、天下を取ろうとした信長は、やっぱ凄い。天下を治めるためには拠点をどんどん変えていく。
 ところが、新説としては、信長も中部・近畿の拠点を守る、これまでの戦国武将と変わらない説が出てるそうな。でも、ここに書かれているように、彼の片腕たちの武士に、諸国を統治するように配置したことからすれば、そして、彼が絶えず有利な拠点を求めて動いていることからすれば、ここに書かれていることが正解であり、信長は他の戦国武将とは違う、この本の意見に賛成だ。なんせ、朝鮮まで視野に入れてた人だ。そして、彼がいたからこそ、農民から足軽になって、信長の野望を受け継ぎ、さらには、もともとはそんじょそこらの戦国武将と変わらなかった家康が、その時を見て「俺がやる」と踏んで、徳川幕府を築いたのだ。
 たまたま、信長も秀吉も家康も、中部の人間だから、昔ながらの西国と東国を視野に入れられたのだと思う。

 ちなみに天下分け目の戦として、この本では関ヶ原の戦いは、石田三成を重視するのでなく、豊臣軍と徳川軍の戦いであった、とするのは正解だし、あっという間に終わった戦いとして刻まれているが、いやいや、相当苦労した戦いであったことも、納得できる。あと、この関ヶ原の戦いと古代の壬申の乱と同じ場所であることは、西と東の統合の要がここであった、そんな日本国の成り立ちの重要拠点であることを理解した。

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 そういうわけで、信長は着々と天下統一を進めるのだが、あの、訳の分からない事件が起きる。
 そう、いきなりの裏切りの「本能寺の変」。本能寺の変は変だ。信長の最も需要な片腕である明智光秀が信長を殺すとは? この光秀の背後には黒幕がいる説もたくさんある。そりゃそうだ。味方の需要人物が、いきなり大将を殺すか?
 だから、本能寺の変は、変なのだ。いろいろ諸説紛々ある。信長は死んでない、とか、光秀が殺したのではないとか、光秀は、秀吉に殺されてはいない、とか。もう、ここまで来ると、ロマンだねえ。学んだ歴史がすべて正しいと思ったら、大間違いなんだねえ。
 けれど、事実は小説より奇なり、かもしれへんけど、このあたり、信長死後、秀吉が天下統一を目指し、秀吉死後、家康が天下を治めた。この事実でいいではないか。その途中のロマン的解釈は歴史家さんに任せておこう。とりわけ、信長がいなかったら、家康の徳川幕府もなかったかもね。

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 それよりも、とにかく、江戸時代に入り、250年余りの平和な時代が続く。その中でもちょっと驚きの記述が・・・。生類憐みの令を発した5代将軍綱吉。教科書で習ったときは、彼を犬公方と称し、犬ばかり大切にする悪性政治をした、そう習った。しかし、そうではなかったと。動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称で、保護する対象は捨て子や病人、高齢者、そして動物である。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んでいた。いわゆる、全ての弱者に目を向けていたということだ。綱吉個人の嗜好に帰すのではなく、当時の社会状況に対する一つの福祉施策なのだ。悪性政治でなく、今の政治家が見習うべき将軍だったんだあ。
 こういう歴史の解釈は、間違うと、とんでもないことになる。庶民の中には、「殿は犬ばかりかわいがる」という悪評を立てた者もいるだろうが、今の政治家が見習うべきところが、彼にはあったのだ。歴史の解釈は怖いな。

 あと、江戸時代にも、ちゃんと天皇がいたのだが、知らんかったよ、その中で、二人、女性天皇がいたのだよ。
 女性天皇は、推古天皇(592-628)、皇極天皇(642-645)と斉明天皇(655-661)は同一人物、持統天皇(690-697)、元明天皇(707-715)、元正天皇(715-724)、孝謙天皇(749-758)と称徳天皇(764-770)は同一人物と、飛鳥時代から奈良時代までに8代6人いる。これらはよく知られているが、江戸時代に明正天皇(1629-1643)、後桜町天皇(1762-1770)と二人女性天皇がいたとは知らなかった。
 というか、天皇は、この頃何をなさってたのかな。
 その天皇だが、江戸時代末期(幕末)には、水戸学や国学が「古事記」「日本書紀」を見直すようになる。その影響もあり、孝明天皇の許可を得ず日米修好通商条約を結んだ幕府への批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き、活発な尊王攘夷運動へと展開していく。
 しかし、これは、幕府から外様大名として一番仲間にしたくなった連中、薩摩藩や長州藩や土佐藩じゃん。こいつらが、外様大名がゆえに、いつか討幕を狙ってた。絶好の時が、国学や水戸学、そして、アメリカとの条約。よし、今だ、尊王攘夷だ、でしょ。

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 ところが、もしも、だ。ほんとに、もしもだが、先にも述べたけど、承久の変(1221年)の際に、北条氏が徹底的に朝廷を叩いて天皇制を廃止していたら、薩摩藩や長州藩、土佐藩は、「尊王」論を出していたであろうか。15代将軍徳川慶喜は大政奉還できなかったのではなかろうか。王政復古を唱えて戊辰戦争を起こしていただろうか。
 天皇制のないところなら、西洋のような革命は起こせなかっただろうか。1871年のパリのコミューンのような運動は起こせなかったのだろうか。
 明治維新が明治革命とは呼ばれないのは、イギリスやフランスの革命では国王が権力の座を追いやられたのに対し、それとは逆に明治維新の場合は、天皇の地位と権力を強化・確立する大きな転機となったものだ。しかも、維新変革の担い手となって新しい権力を打ち立てたのは、支配階級の一分派である反幕府諸藩の勢力。
 であることから、実は維新もおかしいのだ。維新とは、すべて改まり新しくなること。結果は新しくなってるかもしれないが、まさに王政復古なのだから、新しくないのだ。
 あと、そこで並ぶ連中は・・・。何のことはない、江戸時代で、外様大名であった薩摩・長州・土佐などの連中でしょ。明治維新は、そんな連中の尊王攘夷よ。と、いいながら、彼らは、明治政府樹立後、攘夷とは裏腹の西洋諸国を吸収していく。
 ここで、間違いやすいのは、西洋諸国を吸収していったことは良しとして、それを行った連中が、もとは、討幕派の連中だということ。そして、明治維新で始めたことは、西洋諸国の概念を取り入って行ったこと。おかしいでしょ、尊王攘夷の「攘夷」はどこ行った?
 尊王だけ重視して、攘夷を無視して、西洋文化を取り入れていく。ここに、明治維新のインチキがあるのだね。明治維新とは、間違えてはいけない、国民のための改革ではない、そこには、薩摩・長州・土佐という外様大名が「もう、いやだ」と徳川幕府の時代に終止符を打ちたかったんだろうねえ。だから、明治維新以降の日本は、薩摩・長州・土佐という外様大名が天皇を奉って生き延びてきた時代だ。それは、1945年まで続いていた、そう言っていいだろう。
ボクのがより異説だねえ。ま、今更、そんなことを言い出しても仕方がないよね。

 以上、尻切れトンボっぽいけど、「異説で暴く日本史の謎」は、歴史の教科書を鵜呑みにしてはいけない、ということを教えてくれたね。


異説で暴く日本史の謎 posted by (C)shisyun


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