レディ・チャタレー | 空想俳人日記

レディ・チャタレー

森の中 歓喜の息吹に 木霊する 



 何故に今、改めてチャタレイ夫人なんだろうか。いや、チャタレイじゃなく、チャタレーか。実際にカタカナ表記がチャタレイよりもチャタレーであるべきかどうか、それは知らないけれど。
 この「レディ・チャタレー」、なんか偏りすぎというか、性に特化しすぎ? そんなふうに思いながら、ずっと銀幕に目を凝らしていた。でも、もうちょっと役者、選んでくれればいいのに、そうも思いながら。
 でも、そのうち、この映画、ひょっとすると、私たちに馴染みのある「チャタレイ夫人の恋人」と、ちょっと違うんじゃないのかな。そんな思いがアタマに過ぎった。とともに、ひょっとすると、愛し合う二人のキャスティングも、これでいいのかもしれない、そうも思えてきた。
 チャタレー夫人であるコンスタンスを演じるマリナ・ハンズ。自らの全裸を鏡に映してしげしげと眺める場面なんぞ、「このままセックスもなく、老いていくのかしら、あたし」そんな独白を私は自分勝手にアタマの中で呟いていた。そして、猟番の男と関わるのだが、猟番パーキンを演じるジャン=ルイ・クロック自身もまた、垢抜けない男だなあ。かつての妻と別れたのも、この配役なら、ひょっとして飽きられた? で、「もう女なんかコリゴリだ、どうせ女なんかに好かれるような俺様じゃなし」みたいな腑抜けた気持ちを持ってるんじゃないの、なんてね。そんなふうな冴えない二人。
 ちょっと待ってね。今なんて書いた? そう、猟番の名前。パーキン。違うぞ、「チャタレイ夫人の恋人」に出てくる森の男って、パーキンって名じゃなかったはず。確かメラーズ。そうだ、メラーズだ。彼って、本来は、もう少し、インテリゲンチャではなかったっけ。もっと、世の中の世相を見つめた知的な香りがなかったっけ。まさか別人。
 観終わった後で調べてみた。知らなかった、D・H・ロレンスの原作「チャタレイ夫人の恋人」には、3つのヴァージョンがあるなんて。私たちがよく知っているのは、その最後にあたる第3稿ということではないか。して、この「レディ・チャタレー」の原作は第2稿からだそうな。それでか、ラストも、なんか中途半端の尻切れトンボみたいに思えたのは。
 それは、ともかく、不思議だったのは、ともに魅力のないコニーと森番パーキンが、密会を繰り返していくたびに、何故だが艶めいて見えてくる。輝きさえも感じられてくる。まさか、監督パスカル・フェランが、あえて今、第2稿をもとに本を書いたのは、これだったのか。
 幾度もの密会による二人の輝きは、まさに背景である森との調和にもある。パーキンが全裸のコニーの身体のあちこちに花を飾る。野に咲く草花をおへそや下にも生ける。二人の艶やかさは、森の輝きと同調していく。
 そして、雨の中、コニーは小屋から外へ素っ裸になって躍り出る。明るい雨の中をはしゃぎまわる彼女。それにつられて、パーキンも全裸で飛び出していく。二人があたかも飛行機? いや、トンボか、鳥か、そんなマネをしながら、走り回る。なんという無邪気さか。生命感あふるる。そして、二人は地べたに倒れこみ、泥んこまみれになりながら、そんなことお構いなしに性行為を楽しみあう。「うらやましい」、私のアタマの中に、そんな言葉が生まれた。ココロに満ちてくるキモチが伝えた言葉だ。あんなふうに戯れたい。喜びを分かち合いたい。彼らは人間である前に生き物なんだ。この映画の性描写は、性の謳歌じゃなく、生の謳歌なんだ。
 この「レディ・チャタレー」のコニーはシルヴィア・クリステルなんかではダメなんだ。マリナ・ハンズでなくちゃダメなんだ。森番パーキンも、ジャン=ルイ・クロックだから、いいんだ。何故21世紀になって、D・H・ロレンスの原作「チャタレイ夫人の恋人」の第2稿をあえて選んで映画化したのか、なんとなく分かってきた。私たち人間が優先して築いている今の社会で、置いてきぼりにされているものがここにある。分別ごみとは違う見えないところで、無分別に葬り去られようとしているものがある。それだけでも感じられるだけで、新鮮なキモチが泉の底から清水の如く湧き上がってくる。