スターダスト | 空想俳人日記

スターダスト

落花星 屑も積もれば 山茶花よ 



 なあにぃ~、これ、めちゃ面白いやんかあ。この題名と予告編で、亜流SFファンタジーかな、まあ、いいかあ、ってね。だいたい「宮崎駿の実写版」なあんて触れ込みするから、あきまへんわ。
 どうもおかしいぞ~、そう思ったのは、ロバート・デ・ニーロ出演。然もイギリスの匂いが何処からか香しくぷんぷん匂ってきた。まさか配管工事屋演じた「未来世紀ブラジル」張りのデ・ニーロ、ギリアム・タッチ?
 で、騙されたと思って観てみよう、それが功を奏したじゃ、あ~りませんか。まさに、これ、極上の御伽噺に込められた至福なるラブストーリー。その導入の語りは、大切なのは私たちが星をどう見ているかなんてどうでもよく、星たちが私たち人間をどう見ているかだ、なあんて、そんなこと言われたら、それを分からん人間は、この作品に「いちゃもん」、付けられないじゃないの。いやはや、反応を明らかに自覚して制作されておるなあ、これ。しかも、その裏に仕掛けられているのはモンティ・パイソン風のユーモアというかシュールなエスプリというか。時代設定から登場人物、そして逸話的筋立て、どこかにありそうで、でも、充分に茶化しながらも昇華されている。えれえもんじゃわな。こりゃあ、徒者じゃあないな。で、調べてみた。
 製作監督のマシュー・ヴォーン・・・、「イギリスのバレエ演出・振付家。古典作品に斬新な新解釈を加えた作品が多く、共通する特徴は前衛的な振り付けやファッション性の高い衣装に彩られるウィットとペーソスに満ちた演劇性」っと、ちょっと待ちなよ、この人、1960年生まれよ。同じイギリス出身でも、当の監督は1971年生まれ。別人だあ。で、映画の公式サイトのスタッフページに書かれている以上のことは、よく分からなかった。
 ま、それはさて置き、映画のお話は、主人公トリスタン(チャーリー・コックス)の誕生秘話から始まり始まり。で、ようは、トリスタンは、「みにくいアヒルの子」ならぬ、貧しいアヒルの子だったわけで、ラストは「めでたしめでたし」となるための、大いなる冒険浪漫譚が突っ走る。それにしても誕生秘話がダンスタン親父のたった一夜のちょめちょめとは、なんたるスケベなロマンスよ。リアルな場面はなくとも誰もがなるほど。子どもとの鑑賞では、我が子にどう説明する。しかも、息子は、この親父の壁越えのおかげで、最後は「めでたしめでたし」なんだね。あはは~。
 さて、突っ走る冒険浪漫譚、何処まで突っ走るのって、星空まで飛んでいくのだから、こいつは凄い。いや、厳密には星空まで飛んだのは王位継承の宝石。たまったもんじゃない、それに体当たりされた一人の星屑。それがイヴェイン。トリスタン自身は、宝石のせいで星空からの落花星に。で、人間になっちゃった星屑のイヴェイン(クレア・デインズ)のところへぶっ飛んでいくんだね。さらには、この二人、お互いがオトボケかな、別々の故郷を念じての魔法のチョーク、いや間違い、魔法のローソクに火を灯すものだから、ウォール村と星空の中間地点の雲海へ飛ぶ。誰のために飛んでいるかって、ようは井の中の蛙ならぬ、壁(ウォール村)の中の女王(シエナ・ミラー演じるヴィクトリア)のため。
 さあさあ、お立会い、そこで登場だあ、ロバート・デ・ニーロ演じるキャプテン・シェイクスピア。この名前、シェイク(shake)+スピア(spear)、つまり「槍を振り回す」だそうな。彼が操る船といい、彼とトリスタン&イヴェインやその部下どもを見ていると、確かに宮崎駿の「天空の城ラピュタ」を思い出す。が、もし、この映画のクリエイターが「ラピュタ」を知っているとしても、この映画、基本的には、あちこちにSFファンタジー物語のお茶化しや風刺が込められているわけで、別にどうってことはない。おそらく、このシェイクスピア一座のパロディの大もとは、ピーターパンのキャプテン・フックを頭とする海賊どもだと思うのだけれど。フックと言えば、ふつふつ思い起こすはダスティン・ホフマン。彼もデ・ニーロも私の好きな性格俳優だ。そして、二人とも、時に漫才師のような役をこなしてくれる。
 今回の最大の見せ場こそ、このロバート・デ・ニーロ演じるキャプテン・シェイクスピアではなかろうか。そして、シェイクスピアも「まいった」と言わせるほどの人生の悲喜劇を盛り込みたかったのではなかろうか。だから、この作品は、某お菓子メーカーのチョコだったかキャラメルだったか、古くからのキャッチフレーズ「一粒で二度おいしい」にさも似たり、なんだね。この映画、一作品で何作品分かの面白さ。
 その何作品分かの面白さのひとつが、死んだ者たちが、生きて一生懸命演じられる人生ドラマを観客として見ている
、というもの。「バカは死ななきゃ直らない」あるいは「バカは死んでも直らない」という性善説か性悪説か、みたいな愚問に「バカは死ねば直るのよ。みんな仲良くなるのよ」なあんて言っているのかもしれない。それに、「生きている人たちのドラマをみんなで仲良く愉しんでね、この死んだ人たちのように」そうも言っているように思えるね。いいね。しかも、頭に斧が刺さったままであったり、顔を地面に叩きつけられて凹んだままであったり、みんな死んだ時そのままの姿だね。この死者たちの観客というスタンス、主人公に対してのブラボーなる声援。エンディングを最後まできちんと観た人なら、フレンチカンカンの船長と共に、彼らの存在が重要であることが分かるね。で、なんのことはない、私も「ブラボー」の一員なのだ。
 これ以上喋ると、細かなところまでネタバレしちゃいそう。その日その時現れ風と共に去りぬユニコーンとか、シェイクスピアがムリ槍振り回すのでなく想いヤリを込めて主役の二人をあたかも振り付け指導するシーンのそこかしことか、悪魔の館でのラミアの呆けたとしか思えぬ葛藤故のアレレレとか、数々のシニカルなオトボケに、ついついツッコミたくなっちゃう私。もちろん、昨今のファンタジーもの、CGなどの技術的側面もあって、そっち方面に観る角度も突っ走っちゃって、結構寛大な鑑賞者の許容範囲も赦されている側面がある。そんなことも分かって描いてるようだから、これ面白いのだけれど。だからね、実はネタバレだけじゃなく、いろんな意味で、これ以上は、自分をちょっと釘付け状態で放心させておくね。
 それにしても、みんなが流れ星のイヴェインを狙っているのが微妙にずれているのも面白いな。流れ星の心臓が欲しいのは、ミシェル・ファイファー演じるラミアたち魔女。流れ星が持つ宝石が欲しいのは、王位継承の欲にプライマスやらセカンダスなる日本での一郎やら次郎なるネーミングと同等の兄弟たちの平気で殺しあう王子たち。そして、トリスタンは、井の中の女王ヴィクトリア獲得のため、だったはずなのに・・・。
 誰だ、結局最後になっても、「クレア・デインズよりもシエナ・ミラーのがやっぱ女王だな、いいなあ」なんて情け容赦ないことを言うのは。私は、もう断然クレア・デインズに軍配を上げるな。彼女に星の輝きが蘇るシーンなんて、美しくもありながら、その輝きがめらめら情欲にも見えちゃって、憎たらしくも彼女が凄く愛おしいぞ、そうなってきたのも事実。だいたい、ヴィクトリアなんてガキぞ。その相手の男すらジャリぞ(シェイクスピアはウインクを送ったりするが。なので、また面白いけど)。だからこそ、私はこの映画を、至福なるラブストーリーとも思っているのよ。私は惚れたよ、クレア・デインズに。いいよいいよ、それが私だけだったりしても。
 ところで、蛇足だけれど、トリスタンの周りでは、ばったばったと血の繋がりなど関係無しに殺戮が行われていく中、ご本人はそれなりに突っ走るけれど、何の手も下すことがない。いやはや、やっぱ平和を愛する者が最後は勝つ、ってことかなあ。なんか、それにしても他力本願に見えなくもないけど、よくよく考えれば、幾ら頑張っても、こういう「みにくいアヒルの子」みたいな存在には、努力以上のものがありますわなあ。例えば、自分は、幾らもがいても王家とか天皇一族にはなれない。そういうことからすれば、そんな白鳥の子でありました、なんて、プリンス願望にプリンセス願望は、ファンタジーならではの許される希望。
 それを息子の血に与えたトリスタンの親父、ダンスタン(壮年時代を演じたのはベン・バーンズ)のおかげ。だから描いて当然。いやはやあ、父親よ、あんたが一番偉い、のかもしれない。単なる欲求不満の挙句に、井の中の蛙から飛び出たことでの一夜の子孫繁栄。改めて思うこと多きかな、ずんずん愉快で面白きかな、「スターダスト」の芸術性に「ブラボー」。