川上弘美「真鶴」 | 空想俳人日記

川上弘美「真鶴」

ここかしこ つかずはなれず きおくれず 



 以前このブログにも「グリーン車で川上弘美にナンパされて 」などという大胆不敵なるタイトルで書いたとおり、彼女の文に久しく出会っておらぬところをばったり出くわして、その後むずむずと無性に何かを読みたくなって、この「真鶴」を手に入れた。「此処 彼処 (ここ かしこ)」以来である。
 主人公の京(けい)と、いないのにいる礼と、いるのにいない青茲の物語。礼は、京の亭主だ、失踪してしまった。青茲は妻子のある彼、仕事つながりもある。
 京の仕事は川上さん自身と同じ。礼との間に百(もも)という娘が一人。その後もう一人できたが、礼の失踪で堕ろしている。そして礼には母がいる。3代に渡る女だけの暮らし。
 登場人物はほぼ以上。しいて挙げれば、つきもの。これも、ほぼ女ということで登場する。
 京は女だけの暮らしから、時々憑かれたように旅に出る。訪れる先は「真鶴」。地図で調べた。東海道線の小田原と熱海の間にあるらしい。私は知らない。
 初めに真鶴で泊まった宿の苗字が最後まで頭から離れない。「砂」という苗字。物語は川上さん独特の主人公のモノローグで進んでいく。
 さりげなくも目敏い観察描写と心の内面が奥行きも持たず、同じ地平の上で行ったり来たりする。ブランコのよう。その何気ない揺れは、表層と深奥を距離も感じさせず、すぐ隣り合わせのものたちのように、私の視覚と心を平気でご近所仲間に加えてしまう。
 そして、いるのにいない男といないのにいる男に分け入るように、つきものとの対話が現実の存在感とは異なる存在感を醸し出す。つきものも遠ざかったり近づいたり、うすれたりこくなったりする。その遠近と濃度は次第に対象までもが定かではなくなる。娘や母という存在までにも及ぶ。
 物語も半ばまで来ると、何が現実で何が想いなのかも曖昧になってくる。それでも青茲を求め礼に拘る。「不毛」という言葉が浮かんできた。不毛な愛? 待って。不毛ではない愛などあるのだろうか。それは、たまさか愛に尾鰭というか出物腫れ物が付き、ちょっとした副産物に振り回されたり、大げさにそこに価値を見出してみたりしているから、不毛ではない愛があるように気を取り直すことができるだけではなかろうか。不毛の愛で、ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ザ・シェルタリング・スカイ」という映画を思い出した。
 物語の半ば、それは人生の半ばか。話はさらに、京に向けて時間までも確かならぬ記憶の固執が始まる。あのサルバドール・ダリの絵「記憶の固執」のように、時計がひん曲がる。時間がリズムを失う。あるときは、流れる時の部分がすぽんと抜き取られ、あたかも瞬間移動をする。またあるときは、いつまでも時は進まない。想いだけがうねりながら進む。いや、とぐろを巻いているだけかもしれない。バス停で待つバスが来るのは10分後。いつまでも10分後が延々と続く。
 私も初めの真鶴の印象、宿泊先の苗字「砂」に固執している。固執している作者と主人公と私とがリンクするように、ある一節が登場する。「からっぽ」の中に「何かが満たされつつある」と言う。それを「砂」ではないが「砂にも似ている」とする。「からっぽの容れものの壁は、ざらりとしていて、寒天と水の質がちかいことと同じく、ざらりとした壁と砂の手ざわりとが、互いを呼びあう」。
 もう私は、途中から安部公房の「砂の女」を思い出していたことに、この一節の登場で、私は私にその旨を暴露することができた。もちろんテーマが同じだとは言わない。あちらは失踪した男が主人公で、失踪者と砂の女との奇妙な共同生活の話だ。
 でも、もし、失踪した京の亭主が船に乗って(あるいは落ちて)彼の地(彼岸)へ行ってしまったと断言すべきではないとすれば、砂の女とどこかで生活しているのかもしれない、そう私は勝手に想像してしまった。しかし、失踪の届けを役所に出せば半年後にはあっさりと死者となることも現実だ。
 京は礼の故郷の瀬戸内の海をまぶたの裏に浮かべながら、真鶴の夜の海を想う。懐かしむ。はたして真鶴には何があったのか。京にとっての此の地(此岸)における入り口と出口? 何処への? 彼の地(彼岸)への? 此処と彼処(この作品を手にする前の単行本が「此処 彼処 (ここ かしこ)」だったのは果たして偶然か)・・・。それが真鶴である必然性はなかろう。でも、京にとって、私には分からない真鶴があるのだとすれば、私たち一人一人にも、他のものには分からない真鶴のような地があるのかもしれない。
 私の真鶴を探してみたくなった。私の行方探しの物語も「砂」から始まるのだろうか。否、もうとっくに始まっているのかもしれない。