それでもボクはやってない | 空想俳人日記
2007-02-04 07:49:52

それでもボクはやってない

テーマ:映画

真実を 蔽う砂漠の 駱駝たち 



 やってない、やってないっいてんだろ、やってねえんだよ、虚しい叫びが誰にも届かず宙を舞い空に吸い込まれていく。スクリーンに釘づけになりながらも、頭の中には、物語以外のあれもこれもがぽかりぽかりと、どんどん浮かんでくる。
 ここでは物語よりも、主に私の頭に雲のように浮かんだ由なしごとの方を追ってみたい。


 この映画を見られた方には、まずは思い出して欲しい、かつて小学校だったか中学校だったか、社会科の授業で習った「三権分立」を。司法、立法、行政、三つが独立した日本の社会。
「そういやあ、習ったけどよ。そんなもん絵にかいた餅のようなもんだろ。行政と立法なんて同じアナのムジナじゃねえかよ」そう言う方も多かろう。
 確かにそのとおりだとは思う。しかし、司法までもそうなのか、そうした印象をこの映画から受けなかっただろうか。
「司法のことなんて、日頃は余り考えたことはない」
 そのとおりだ。悪行を働かない人にとっては。私たちは普通に大人しく生きていれば四方を意識する機会は少ない。衆議院議員総選挙と同時に行なわれる最高裁判所裁判官国民審査を思い出した。選挙そのものに無関心の人たちはもちろん、立法の政治家を選ぶことに関心がある人も、司法なる裁判官の罷免には関心がない人が多いのではないか。そして無記入で出す。
 無記入とは何を意味するのか。それはOKの意味だ。投票用紙に×印を書き入れなかった裁判官に対しては自動的に信任と見なされるのだ。そして、これまでに国民審査によって罷免された裁判官はいない。
 そうした司法までも立法、行政と三権分立ならぬ三位一体、そうは思えてこないか。逆に分立となれば、「三権一体VS国民」という図式が描けそうだ。
 例えば、ここでは痴漢行為。もちろん、その行為そのものは犯罪であり、罪を犯したものは罰せられなければならない。それが正義というものだ。ところが、この映画で私たちは、正義の御旗と真実とが明らかにイコールではないことに気づいた。弱者を救う正義。犯罪を撲滅する正義。その正義の御旗のもとにそれを行使する者たちには、真実は二の次なのだ。
 マスコミなどにも良く採り上げられるが、日本も昔に比べるとアメリカのように治安が悪くなった、などと言う。社会全体が、安心・安全のために防犯やらセキュリティ強化に努める。犯罪者は罰せられる、その大原則はよしとしよう。しかし、大原則が100%間違っていなくても、ひとつひとつの犯罪そのものの真実までが100%間違っていない、とはならない。99%間違っていないとしても、1%は、そうではないのだ。たかだか1%なんかどうでもいいだろう、という見方があるとすれば、そういう問題ではないだろうと、この映画は叫んでいる。それでも社会は、正義の行使のため99%を100%にしようとする。それが体制というものの大きな動きらしい。体制は大勢に影響がなければいいらしい。
 積極的な大勢の動きをしている者たちばかりではない。自らはきわめて曖昧でありながら、いつのまにか大いなる正義が作り出した大樹に身を寄せ、寄生虫の如く生きている者もいる。彼らにとって、正義は真実でもないばかりか、正義そのものの倫理も関係ない。大きな流れに身を寄せることで自らの安心・安全を確保する、ようは保身なのである。
 中には、確かにしっかりとした倫理観を持ち真実を見つめようとする者もいると思う。この映画は、その2者を比較対照できるように見事に描いている。裁判官の交代劇だ。公判の途中でもあるのに。こんなことがあるのか。
 大切なのは無実の人を裁かないこと、そう真実を見つめようとした初めの裁判官は、正義の御旗を立てて大樹を形成する体制からすれば、出る杭なのである。そして、出る杭は打たれた。二人目の裁判官は見事にも正義を行使するために被疑者を誘導尋問する。
 正義という言葉から、改正という言葉を連想した。大きな社会の動きに対し、改正であるとか、進化であるとか、進歩であるとか、負ではない正をイメージさせる言葉に私たちは騙されてはいないだろうか。今一度、疑問視する必要があるのではなかろうか。


 そういえば、自衛隊は、正義の御旗を立てて軍艦(失礼、軍隊じゃないから、この表現は正しくないか。正しい?)をイラクへ走らせた。走らせたのは首相だったか。イラクの復興支援らしいが、真実はアメリカ軍の後方支援部隊じゃないか。今やアメリカ国内でも、イラク戦争は正しくなかったという声も上がっている。日本の防衛省(おいおい、いつの間に庁から省になったの)の某人物が、同じようなアメリカのイラク侵略は間違っていた、というようなコメントを吐いたそうではないか。すると、寄らば大樹から「おいおい撤回しなさい」の肩叩き。彼は謝罪及び反省のお言葉で翻す。そうじゃないだろう、真実を言ったまでに過ぎないのではないのか。アメリカ大統領の化けの皮が剥がれつつある今も、同じ輩なる日本の官僚体制の厚顔な化けの皮を信じ続けるのは、いかがなものか。
 発言ミスということから、また連想した。某政治家の、女性は子どもを産む機械、などという暴言。当然、批難轟々だが、彼は、あくまでも統計学の見地からの言い回し、などと弁明し、首相までが彼を庇い、今後の業務執行で挽回してくれることを期待する、などとほざいている。実は、その暴言こそ、彼の真実ではないのか。彼の人格そのものではないのか。そして首相も。古い政治家の体質を受け継いでる者たちの、男中心的な考え方。女性の社会進出も単に現象や統計でしか捉えることが出来ない。その動きを頭だけで良しとし、その社会現象礼賛を正義として妻の扶養家族としての税金免除を打ち切る。実はここにも、女性を重んじているようで、男中心的な考え方からしか出ない幼稚的短絡的解決に導こうとしている。
 古い政治家の体質といったが、実は多くの政治家は社会の動きを捉えているようで、それは展望広場から眺めているに過ぎない。社会の現場を全く知らない。特に、今政治家も、2世や3世が多い。例えばスポーツの世界、長嶋親子を見よ、野村親子を見よ、いくら親が素晴らしい選手だったとはいえ実力社会だから、実力がない子どもはその世界では生きていけない。別の意味で、教育現場が今、見直されようとしている。大学を卒業してそのまま教員になった先生よりも、一度社会の荒波に出で多くを経験した者が先生に登用されるという方向性。
 古い政治家の体質は、実はこうした実力や社会経験よりも、家柄とか家系とかなのだ。倫理も真実もへったくれもない、展望広場の温室で頭でっかちりの南瓜を育成し、次代の政治家を作っている。音質世界で古臭い理論を学びながら世の中を統計だけで読み取ろうとしている。国民のため、と言葉は言うが、国民一人一人を知らない。知る環境で育っていない。教育現場も知らない。第二次大戦も知らない、例え年齢的にその時期生きていたとしても。戦場を知らない、ヒロシマを知らない、ナガサキを知らない。
 憲法改正にも、改正という言葉が使われている。戦争放棄という世界でも類稀な平和宣言を主張する第9条。人間の根本として重要な倫理と真実が含まれている第9条。それまでも平気で変えようとしている。今回のイラク派遣を正義とする屁理屈から、さらに同様な正義を行使しやすくするためだ。私たちは「改正」という言葉を見つけるたびに、その「正」の字の裏に潜む「嘘」あるいは「悪」を思い出すべきではなかろうか。


 頭に浮かんだ雲は、司法や立法、行政が絡み合って次々に雲を発生させてくれてしまった。司法・立法・行政からなる三権一体VS国民という図式は、この映画での、被害者と加害者の観点から見ても見えてくる。
 電車の中の女子学生は終始、被害者である。そして彼女に痴漢行為を働いた者が加害者だ。それが主人公だ。しかし、彼は、それでもやってない。ところが加害者として駅務室に連れられ、そして警察署に連れて行かれる。
 実はその時、既に被害者と加害者の関係がもうひとつ生まれているのだ。痴漢と言う犯罪とは別の容疑をかけられた、そして加害者にさせられたという被害を被るのである。そこから、これまで彼には無縁の人々が彼に関係を繋いでいく。彼に加害者というレッテルを貼る新たな加害者として。しかし、それらの人々には加害者という意識はない。正義の行使という意識しかない。その意識のみで彼に関係を持つ人々の余りにも見下した行動よ。
 罪を憎んで人を憎まずという言葉が肯けてくる。周囲の者たちは、その言葉を知っているかどうかは知らないが、正義の味方の一員として悪を退治する意識でもって無実の主人公を悪の一員に仕立て上げていく。いや、決して大袈裟ではない、この表現は。それは、いつのまにか取調べをする警察や検察の人間だけじゃなく、ひょっとすると駅員も、彼が住むアパートの大家さん(管理人?)までもがそうかもしれない、そう見えてくる。見えるのではない。これは重要だ。三権一体VS国民という図式を示したが、私たちは国民の方だ、そう思っている人々も、この駅員やアパートの大家さんになることができるのだ。いつのまにか、そうなっている可能性があるのだ。


 二人の裁判官が登場した。二人目の裁判官は、一人目の裁判官が法廷で紐解いてきたプロセスなどには無頓着に、有罪の判決を下す。その時、その瞬間、その裁判官は、真実のもとに、最も裁かれるべき人間となる。誰が裁くのか。裁く法など、そこにはない。そこには、「やってない、やってないっいてんだろ、やってねえんだよ」と叫ぶ主人公の、神も知らない真実があるだけだ。裁けるのは彼しかいない。そして、最も真実を求めるべきはずでありながら、今や最も裁かれるべき司法機関の人間とともに、同罪として彼を犯罪者として扱った者たち、そして彼を犯罪者であろうと信じた者たちも、彼から裁かれて仕方がない人間たちなのである。
 しかし、現実は、日本という国の大きな存在として太い幹を形成する大樹に対し、その大樹に群がる寄生虫に対し、罪を問わない。日本という国を動かす原動力のすべての要因を疑わない限り、その一員に組み込まれてしまう国民。この現実を見せられたとして、私たちに何ができるのだろう。
 人を信じない、しかし、それは不幸なことだ。しかし、人を信じられない世の中を毎日毎日一生懸命弁解を繰り返しながら作っている人たちがいるのだし、彼らが日本を動かす原動力にもなっているとすれば、裁判官がまず目の前の人を疑ってかかるように、疑うしかないのではなかろうか。


 この映画によって頭に浮かんだ雲のようなものを、こうして追いつづけてきたら、その雲は、いくつもいくつもが連鎖反応のようにくっつきあい、しかも暗雲と化していった。空一面には暗雲が立ち込めている。真実の光も差し込まない、日本はそんな道を歩んでいることが見えてきた。その道の先には何があるのだろう。いつか、その真っ黒な雲を断ち切って曙光が垣間見えてくることはあるのだろうか。分からない。とりあえず、光を垣間見させてくれる者たちは、みな寄らば大樹の陰の人々に、出る杭として打たれているのが現状なら、現実は期待できない。
 社会や国民ひとりひとりを知らない、政治しか知らない、政治を家業とする政治屋さんたちの集団を筆頭とする日本の官僚社会、そんな司立行三位一体VS国民の社会であり、自分が国民の側であれば、反体制として、すべての官僚社会を一掃する国民によるクーデタ―が必要なのかもしれない。しかし、国民の中に、真実よりも政党や官僚を信じ体制に身を寄せる、映画での駅員やアパートの大家さん、はたまた当番弁護士のような人々もいるとすれば、できることといえば、やってないのに「やりました」と言って罰金を払ってそれでヨシにするのではない、主人公のように「やってない、やってないっいてんだろ、やってねえんだよ」と叫び続けるしかないのかもしれない。
 今年もまた、3月にはお台場のビッグサイトで「セキュリティショー」なるイベントが開催される。安全・安心を求めて防犯の意識が高まる中、さまざまな企業が出展する。その中にひょっとして、無実の罪を着せられる放置国家日本からどう身を守るか、そんな出展企業が出てきてもいいのかもしれない。「もし知らぬ間に、あなたはイラク畑を耕しながらゲーム機型の爆破装置のスイッチを押す業務についていたらどうしますか?」とか「もしいつのまにか、あなたは朝鮮にいて日本人拉致をする工作員を装いながら核開発の様子を探って日本に情報を流す任務についていたらどうしますか」なんていう問いかけにソリューションします、などという出展者が出てきても不思議ではないと思う。


 さて締めくくり。この映画、痴漢犯罪がテーマではない。言ってしまえば冤罪もテーマではないかもしれない。それらはモチーフに過ぎない。この映画のテーマは、むしろ、日本という国が、真実を覆い隠す砂で覆われた砂漠であり、そこを安住の場所として楽を決め込んでいる駱駝たちだけの格好の棲家となっている、そういうことではないかと思う。
 私は、こんな映画を脚本まで書いて創りあげた周防正行監督に絶大なる賛同の詞を配した讃歌を贈りたい。今時、日本にもこんな骨太の映画監督がいるとは、その希少価値とともに嬉しくて仕方がない。プロフィールを見て、1956年生まれ、とあり、なるほどと思った。大きな動きに象徴される団塊の世代に遅れて生まれた世代は、徒党を組む体制とは違う自分自身を持たねば消えてしまう。その世代の魂がこの映画に21世紀になって注がれて創られた意義は極めて大きいものだと実感する。これからの日本を担うであろう檀家ジュニア世代は自らの親である団塊の世代からよりも、この周防監督の魂にもっと深く触れ合うべきではないかと確信してやまない。
 とともに、素晴らしい演技をなされたキャストさんたち、ご苦労様。いつのまにか訳もわからずズルズルと落とし込まれ 「やってない、やってないっいてんだろ、やってねえんだよ」と虚しく叫び続けた主人公金子徹平役の加瀬亮、演技とは思えない生々しさ。明日は我が身だね。
 二人の裁判官の違いを見せてくれた、正名僕蔵と小日向文世、ありがとう。特に、あんな嫌な役、小日向さん、よく演じてくれたよ。
 それから、母親役のもたいまさこ、我が子だから信じたいけど、本当に信じていいね、なる演技の、真の母親。
 それから、友達たち。その中に、おひさしぶりの鈴木蘭々。別れたはずの彼なのに、再現ビデオでは触っていいよ。素敵。
 私の論理からすれば、冤罪に対する加害者の末席にすわってもいいかもしれない駅員役の平山敬三、大家演じる竹中直人。
 そして何よりも、前回の周防監督の映画「Shall We ダンス?」(もう十年近くになるんだ)で、素敵なおじさんを演じた、今回の作品の根底に流れる学習テキストの一番の案内役として弁護士役を演じる役所広司。ありがとう。
 皆様、お疲れ様。

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