どろろ | 空想俳人日記

どろろ

人生は ほげほげたらたら ほげたらぽん 



 手塚治虫原作というと、どうしても純粋に一本の映画として鑑賞できない悲しさよ。しかし、その中でも、いいじゃないか、の嬉しさよ。そんな悲喜こもごもの映画「どろろ」。そういった意味でも、自分でも整理するために、前半は手塚作品として、後半は一本の映画として捉えてみたい。


 私にとって「どろろ」は、原作はもちろんだが、テレビアニメの印象が極めて強い。ある時期、手塚作品がどんどんテレビで映像化された。もちろんアニメがほとんどだが、「バンパイヤ」のように実写とアニメの合成というものもあった。この「バンパイヤ」もさることながら、私にとってテレビで観た手塚作品のなかでは「どろろ」が一番衝撃的な作品だった。
 余りにも陰鬱で暗い作品でありながら、幼少の私には、原作からは受けられた様々な問題提起が何故か削ぎ落とされてしまい単に正義の味方オンパレード化しちゃった他作品とはまったく違って、頭からこびりついて離れなかった。魔物の殺戮シーンなどは食い入るように見ていた。
 その百鬼丸の憎悪に満ちた表情。今観れば、予算とか技術の関係であろうか、一枚の絵をゆっくり移動させるだけの安易さも感じなくはないが、それでも、その魔物の殺戮シーンのあたかもスローモーションなる映像と、それを盛り上げる富田勲の音楽に、完全に心を奪われていた。「ほげほげたらたら」と「赤い夕日」が入り混じる、それこそ人生の悲喜こもごもが共存する、そんな主題歌もよかった。
 そういった思い入れからすると、今回の実写版「どろろ」は、どうだろう、何故か明るい。いや、けっしてテーマそのものが明るいわけではないが、でも、明るい。魔物たちも明るくて色とりどりでキレイだ。
 暗い部分まで照明で明るく照らされた世界。まるで袋小路の、なんか如何わしくて陰鬱でありながらも人生の裏側が巣食っていた場所までも生理整頓し、あたかも区画整理で明るい街づくりをモットーに全てが表通り化した、そんな感じだ。
 さらに登場人物たちも明るい。いや、けっして性格が明るいというのではないが、人間のどうしようもない苦悩や葛藤が何故かどろどろしていない。少しも怖くない。魔物が登場する作品ではあるが、元来、最も怖いのは、人間の野望とか企みとかに潜む邪悪な心であり、そして理想と日常とのどうしようもないギャップの中で苦悩し苦悶しながら割り切って生きようとする人々の脆弱な心である、と思うし、この作品も、そう言いたがっていると思う。この底が見えないからこそ怖い心の奥が、そうした捉えにくいが宿っている心の翳が、すべて分かりやすい底辺×高さ÷2の公式のもと算数の1+1=2を使って明確化されてしまっている気がする。
 例えば、主人公のどろろ。今回の実写版では原作と異なり、えらい早い段階で女であることが判明する。分かりやすい。女性の柴咲コウが演じているから仕方あるまいか。それなのに、最初から最後まで、能天気のベランメエで突っ走る。母親から「強い男が目の前に現れるまで、男として生きなさい。涙をみせてはいけません」というようなことを言われるが、まさしくそのとおり。原作の方がもっと小さくて子どものどろろ、なのに、時折、色っぽいしぐさをするのである。さらに、百鬼丸の前での号泣シーンも、ちっとも色っぽくない。だから、そのあとの股座蹴り(股座かどうか定かではないが。ところで、そのときの百鬼丸のアソコは本物かどうか疑うのも邪心?)のギャップも効いてこない。
 これ以上細かな話になるのはやめておくけど、とにかく明るい映画だったな。かつて原作で味わいアニメで実感した人間の股座、もとい、闇の部分は何処なの? 私は、日の当たる反対側に必ずある影の存在を見たいと思いながら、最後まで、それらが明るく照らされていて見えなかったことに残念で悲しい。
 以上が原作あるいはテレビアニメと比べて・・・。


 さて、かといって、一本の映画作品としてみれば、これはこれで、きわめて面白い映画だとは思う。特に、原作やアニメを知らない人はストーリー自体初めてなわけだ。物語のモチーフだけでも興味はそそられよう。
 しかもテーマ、原作やアニメからすれば、いくら映画としてはちょい長尺だとしても、あれもこれも欲張れない。そこで、親子の関係に焦点を絞ったのは正解だ。
 最後の百鬼丸とその父親である醍醐景光との対面、そして母親と弟。特に母親役の原田美枝子、最近、母親役は天下一品だね。そこへ行きつくまでの魔物との戦いにおいては、一番メインを子どもを食う魔物に設定し、あとは挿入エピソードで突っ走ったのもよいのではないか。魔物に奪われた身体の48箇所を取り戻す百鬼丸が旅する人生のテーマが明確に見えてくる。
 百鬼丸が身体を魔物に奪われたとすれば、父親は魔物に心を奪われたのだ。しかも、父親の魔物との契りの代わりに得ようとするのは天下統一と自らの地位。そして、途中の魔物退治のメインの魔物退治。景光の悪政に子どもを養えない親たちが子どもを捨てる。その子どもを食らう魔物の子ども。そして食われた子どもたちの魂でできたお化け。原作が生まれた頃と比べ、より親子関係や家族の関係が希薄になっている現代、この絞り込んだ筋道(シナリオ)づくりは現代社会にふさわしい。
 戦国時代を架空の設定にしたり、城も戦国時代のものよりもグロテスクでギクシャク積み上げられ塔にしたのもよい。私は、あの城というか塔が六本木ヒルズにも見えた。
 さらに、どろろの存在。百鬼丸の自分自身を取り戻す旅(これは、さも、親から捨てられた子どもの、自分のアイデンティティを模索する旅、と言い置き換えることも出来る)に、はじめは、義手に埋め込まれた名刀が本物の手を得た際に抜けることで、その刀を頂戴することを目的として、お供するどろろ。そのどろろの境遇は、実は、百鬼丸よりも不幸かもしれない。既に父親も母親もこの世にいないからだ。
 にもかかわらず、百鬼丸と旅を続ける間に、目的などどうでもいい、いっしょに旅を続ける生きがいを見出していく。
 途中の魔物退治抜粋アラカルト版エピソード集も、二人で協力して魔物退治を楽しんでいるようにも見える。魔物も、かつてのウルトラシリーズ風安普請な造作。これ、ワザとかも。なんせ、こちらもある意味和んでくる。いいじゃないか、いくら心の奥底に苦しみや悲しみをたんまり抱え込んでいようが、いっつも眉間に皺寄せて苦悩をあからさまに生きるよりも、この世にせっかく生命を受けた限り人生楽しもうぞ、というのもいいんじゃないか。惜しむらくは、どろろの女っぽい一面、例えば泉で沐浴するシーンとか、「エッチ! ばっかやろお~」と叫んで百鬼丸に水をぶっ掛けるとか。ごめん、あいかわらず、しつこい?
 そんなこんなで、このどろろ、この実写映画では百鬼丸よりもやけに目立つ。百鬼丸を演じる妻夫木聡ファンからすれば、煩いハエのように見えるかもしれない。いやいや、はしゃぎすぎの見た目だけではなかろう。
 どろろの旅こそ、人生を生きる意味を喪失している者にとって、もっとも心魅かれるべき重要な役柄ではないだろうか。そういう意味では、この映画では題名が「どろろ」は正解だ(かつて、テレビアニメでは「百鬼丸が主人公だろう」、という投書が多かったらしく、途中から「どろろと百鬼丸」としていたが)。
 そして、百鬼丸自身の旅が、もともと一人旅でなりながら、どろろ不在で最後までありえるか、これは言わずもがな、だと思う。
 ついでに、中村嘉葎雄演じる琵琶法師、原田芳雄演じる育ての親なる寿海、このキャスティングにも拍手を送りたい。この映画で初めて「どろろ」体験して楽しめた方々が、原作やアニメにも関心を持たれることを大いに期待してやまない。


※原作に関するコメントはこちら http://ameblo.jp/shisyun/entry-10018832238.html