硫黄島からの手紙 | 空想俳人日記

硫黄島からの手紙

国民の 首をすぐ切る 愛国心 



 そして硫黄島第2弾。あの「ミリオンダラー・ベイビー」の巨匠クリント・イーストウッド監督が、太平洋戦争で壮絶を極めた硫黄島での戦いを、アメリカ側、日本側それぞれの視点から描く2部作の第2弾だ。初めから、両方作る予定だったかどうかは知らない。だからではないが、これは完結された作品だ。
 第1弾の凄惨な硫黄島での戦いと、戦場を生き延び帰還した3名の若者が、自らの思いとは無関係に「勝利のシンボル」として英雄に祭り上げられ、戸惑いや苦悩を深めていくその後の人生を静かに見つめていくのに対し、こちらは、アメリカ留学の経験を持った親米派でありながらアメリカを最も苦しめた指揮官として知られる栗林忠道中将と、単なる一兵卒のしがないパン屋の赤紙招集青年が中心の物語。その二人、主演は「ラスト サムライ」の渡辺謙、共演に西郷を演じるのは人気グループ「嵐」の二宮和也。二人各々に、記憶にこびりつく台詞がある。渡辺謙の「二度あることは三度ある」と二宮和也の「私はパン屋であります」と。
 ここで際立っているのは、日本軍の最重要拠点である硫黄島に新たな指揮官として栗林忠道中将が降り立ってからの、アメリカ留学の経験が故だろう、無意味な精神論による軍の体質の改善と、合理的な体制の布陣。明らかに、彼が国粋主義者ではなく、リベラリストであり合理主義者であることが分かる。そして、もう一人、上官の理不尽な体罰に苦しめられ絶望を感じていた西郷も、栗林の登場以降、様々な上官や仲間との出会いの中で、今起きている戦争がいかに馬鹿げたものかを体感していく。栗林の指揮に古参将校たちが反発するのは、明らかに当時の日本の絶対的な思想だ。その中、ロサンゼルス・オリンピック馬術競技における金メダリストの「バロン西」こと西竹一中佐の存在も大きい。
 この第2部の重要なポイントは、いかにアメリカとの戦いが無謀であるかを実は既に栗林忠道中将が知っていること。さらに、それ以上に、彼自身、戦うことの空しさを弁えていた存在であること。ところが、当時の日本には、彼のそうしたリベラルな思想に対し赤呼ばわりする憲兵のようなゆがんだ愛国心が幅を利かせていた。そして、誰もが死にたくもないのに、その愛国心(天皇のため)で死ぬという強靭なる狂人が人々を支配していたこと、じゃなかろうか。
 負け戦だから可哀相、そんな感情は毛頭ない。この戦争は、国民の中にもいつしか一人一人の心の中に、大本営発表とは裏腹であることに少しずつ気がついていた者がいるのではないか。二宮演じる西郷のように、戦うべき相手はアメリカなどではなく、大本営と言われる我が国、日本だったのかもしれない、と。その愛国心の象徴を見事に、しかも、最後は情けなく演じきったのが中村獅童演じる伊藤中尉ではなかったか。
 実は、私は第1部よりも、この第2部のほうに涙がちょちょ切れた。いたるところで、涙と鼻水が流れた。それは、多分、アメリカよりも、日本国がいかに人間尊重に乏しい国なのか、そう思えたからだ。では、戦後、其れを大いに反省している日本国なのか。ヒロシマやナガサキの惨劇とともに、この硫黄島の映画で、私たちは涙し、しっかりした考えを持つべきであるのに、なんと、日本のトップは、国民不在の無分別な行動に出ている。何も分かっちゃいない。愛国心を強要する日本は、今、新たな国民との乖離の道を歩み始めている。この映画の中、「靖国で会おう」の号令のもとに泣きながら手榴弾で自害する日本兵らの映像が脳裏から離れない。
 ところで、この映画の最後は素晴らしい。アメリカ兵たちが傷ついて横たわる砂浜の列に日本兵で最後まで生き延びる二宮が同じ列に横たわる。何も、アメリカ側の配慮ということではない。同じ人間が傷ついて、同じ場所に横たわる、そういうことなのだ。
 この第2部は、日本人であれば、涙なくして観ることはできない。