ゆれる | 空想俳人日記

ゆれる

ゆうらリと こころゆらゆら たまゆらの 



 ゆれた。何が。心が。どうして。「ゆれる」を観たから。私たちは、毎日吊り橋を渡っているようなものかもしれない。あるいは、吊り橋を渡ってきた記憶が私たちの一人一人の人生をつないでいるのかもしれない。切なく、そう実感させられた映画。
 弟のタケルが職業カメラマンという設定が巧い。ファインダーを覘くように見、シャッターを切るように記憶にとどめる。兄ミノルと親が住む山梨の田舎から逃げるようにして東京で自由に生きてきた。母の死に目にも会えていない。兄ミノルは、彼にとって唯一、故郷と自分をつなぐ心の架け橋。あの吊り橋のように。
 タケル演じるオダギリジョー、ここんとこ役者稼業にお疲れじゃんかのような不作が多かったのだが、ここでは改心の演技。そして、それをも上回るのがミノル役の香川照之が素晴らしい。ここんとこ「明日の記憶」や「花よりもなほ」など、ほんと、いい役者。タケルが智恵チャンを家へ送り狼したあとに戻ってきた時。彼の洗濯物をたたむ後ろ姿が妙にぞくぞくする。「智恵ちゃん、大変だったろう、飲むと・・・」の鎌をかけるような嘯く台詞と静かな笑顔。ぞぞぞっ。なんて役者だ。さらに、留置所での面会シーン、怒鳴りタケルに向かって、いきなり唾吐き。そうして、あの吊り橋での怖がりシーンでの登場。あっ、こわっ。
 この映画には、心が揺さぶられる場面がいっぱいだ。間をあたかも裂くように、いや、兄弟の心を二分するかのように登場する智恵ちゃん演じる真木よう子もよろしい。「ベロニカ」での体当たりもよかったけど、吊り橋の上での「触らないでよ・・・」なんか、いいねえ。心がまた揺れた。吊り橋も大きく揺れた。人生も揺れる。
 その吊り橋でのミノルと智恵ちゃんのシーン、何言っているのかよく分からない、もっとはっきり収録して欲しいという要望もあろうけど、あそこで智恵ちゃんがミノルに自分の母親のことかミノルの母親のことか定かではない言い回し、彼女はかつてタケルに東京へいっしょに行くことに誘われたであろうことが、その前の描写で私たちは理解している。ようは、その田舎での生活にうんざりしていることは確かであり、ミノルと手を取り合って歩むということは、一生何も変わらずに終わってしまう、ということだ。それだけで十分だろうし、ある意味では、その風景を遠方からあたかも望遠レンズで眺めているタケルの視点に近い感覚で私たちがいられるというのも意味が深い。
 むしろ、何言ってかよく分からないのは、父親役の伊武雅刀。まあ、怒鳴って切れるだけで存在感出す役だから急に驚く私たち、だけでいいだろうけどね。ちなみに、こちらの世代、兄の蟹江敬三が故郷出て東京へ行き、弟の伊武雅刀が故郷に残った、という関係だね。
 さて、さらに、裁判の証人喚問でタケルが兄の正直さこそ自分と兄をつなぐ糸であることから、全てを覆すように真実を語る。私たちも、それを真実と思う。ミノルの寂しいながらの笑顔も含めていったんは確証する。しかし、7年後、改めて思い出すように母親の趣味だった八ミリ映像、昔の渓谷の思い出のフィルムを改めて観る、と、そこに来て大きな事に気づく。
 自分の記憶には、子どもの頃その渓谷にいっしょに行ったような思い出はないのに、まざまざと自分がそこに映っている。自分が吊り橋を渡るのに、兄は恐る恐る後ろから縋り付くようにして渡っている。また、兄に手を差し伸べられて岩を登るシーンまでも。そう、心をつないでいたはずの橋から落ちたのは、タケル自身ではなかったのか。
 兄の腕についていた傷を思い出す。智恵ちゃんの腕を掴み、引き上げようとしながらも、落ちてしまった際についた、おそらく智恵ちゃんの爪あと・・・。
 最後まで揺れる。私たちは、この眼で見たとしながらも、それが真実だと言えようか。共に楽しんだ日々の八ミリ映像。自分はその中にいる。しかし、あの吊り橋での出来事、たとえ目撃していたとはいえ、あたかも望遠レンズから盗み見しただけにすぎない傍観の眼。
 最後に「にいちゃん、にいちゃん」と叫ぶタケル。それにようやく気がついたミノルのあの笑顔、そしてすぐにバスが停留所に止まり、ミノルは見えなくなる。はたしてミノルがその後どうしたかは分からない。いや、どうしたかは、この映画を観た観客一人一人の心の中にある。みんな揺れた心の振り子がどちらに寄っているか、それで、その後の行動を自分なりに選べばいいのだと思う。
 ミノルもゆれる、タケルもゆれる。私たちもゆれる。映画館を出ると街の風景がなんとなく揺れて見えた。