ホテル・ルワンダ | 空想俳人日記

ホテル・ルワンダ

我が妻と 我が子の命 救いたまえ 



 ホテル・ルワンダ、実際のホテル名ではない。しかし、このタイトルがルワンダという国とともに、もっとも秀でたホテル・マネージャーを思い出させるだろう。おそらくそれは、世界中のマネージメントクラスの人々の最高の鏡と言えるのではなかろうか。


 風邪を引いたかな、映画を観終わって街を歩いているときに感じたことだ。熱っぽいのだ。額に手を当てても熱が高いわけではない。そういえば息も荒い。これって、興奮してるんじゃなかろうか。気持ちが熱くなっているんじゃなかろうか。涙ぐむシーンも多々あれど、なぜか、それを堪えてた。そうした反面、熱いものがこみ上げてきた。
 ある外国人記者の同行カメラマンが記者が制するのを構わずに、危険を冒して町中での殺戮シーンをカメラに収めた。そのことをホテルのマネージャーである主人公ポールに謝罪するのに対し、彼は、その映像が世界に流れれば救いの手を差し伸べてくる国も出てくるであろう、と。ところが、カメラマンは言う。大変な国があるんだと会話しながらディナーを楽しむだけさ。ぐさりと胸に刺さってきた。
 ニュースとは、そういうものかもしれない。世の中の新着情報の閲覧。もちろん速報性という点でニュースと呼ぶにふさわしい価値はあろう。しかし、マスコミは、それをただ伝えるだけに過ぎない。それを見る側も、お茶の間の夕飯時に今日の出来事という会話の肴。そして古くなればニュースではない。伝えた後はお役目おしまい。
 だからと言ってはいけないかもしれないが、この映画は素晴らしい。もちろん、実際の話とはいえ、ニュースと違って、多少の脚色もあろう。でも、私たちは晩飯を食らいながら、いくつもの垂れ流される今日の出来事を見、その垂れ流された情報を摂取し、幅広い知識風を吹かせて日々の世間話に活用するニュースに対し、この映画がもたらすものは大きく異なる。この映画にはドラマがある。映画にドラマがあるのは当たり前じゃんと言わないでおくれ。映画として観ながら、そのドラマ性に、私たちは心を揺り動かすのだ。ドラマがなければ、そこに生きる人々の感情は伝えられない。だから、こうして映画という形で観ることの意義があるのだ。
 ここで主人公を演じるのは、ルワンダにある外国資本のひとつのホテルのマネージャー。彼はトップでも経営陣でもない。毎日のホテル業務を問題ないように回すためのリーダー的存在ではあるが、トップからすればサラリーマンである。当然、彼は、仕事としての役割は全うしようとする。しかし、それ以上の理想的な人間像を持ち合わせているわけではない。
 一個人に戻ったとき、例えば隣人が被害を受けているのに対し、妻から何とかして欲しいと言われても、無理だ、そう断る。彼は、せいぜい頑張っても家族を守るキャパシティしかないのだ。そう、隣人は無理だが、家族だけは守り抜いてみせる。でも、それこそが、その後展開されるドラマにおいて、彼がホテル・ルワンダのマネージャーであり主人公でありえた大きな理由と言っていいんではないだろうか。
 国の内紛は、二つの民族というか種族が真っ二つに分かれての排斥運動だ。それに対し、彼はどちらの主犯格にも顔を顰めながらも巧く接していく。それを観て、イソップ物語だったか、こうもりの話を思い出させた。こうもりは、片や哺乳類グループに行けば「私は仲間です。ほら、この顔を見てください。豚みたいでしょ」だったかなあ、定かじゃないけど。そして、もう一方の鳥類グループに行けば「私は仲間です。ほら、この羽こそ鳥類の証です」じゃなかったっけ。で、そういう、どっちにもいい顔するこうもりは、最後はどちらからもこてんぱんに仲間はずれになりましたとさ。でも、この映画を観続けるうちに、こうもりのどこが悪い、そう思えてきた。イソップ物語の教訓を真っ向から否定する気はない。しかし、その教訓をひけらかして、そういう生き方を逆に真っ向から否定する者たちに、主人公ポールを否定できるだろうか、ということである。彼にしてみれば、それは自分が、そして家族が、そして最後には、ホテルに集まっていた人々が生き延びるための手段でしかないのだ。何々派だとか何とか属だとか、そんな論戦するよりも、もっと大切なことがあるのだ。それは生きることなのだ。
 国の内紛に他国が介入する場合、それなりの大きな理由がいる。表的にも裏的にも。国連や赤十字が理念の下に送り込まれるが残念かな、大きな力とは言えない。大きな力とは、大国の政府の指示だ。しかし、表的と裏的と言ったが、政府というものは、お上手な建前を作るためには、本音の部分で自国へのメリットがなければ動かない。例えば、中東にみる石油の利権のような。ルワンダのようなアフリカの国に対して力が入らないのは、得るものがないからだ。本来、そこには最も尊いはずの人命というものがあるはずなのに。仮に人命尊重を建前にしよう。しかし、何人の人命だ、となる。大量虐殺ならば行かねばならん、では大量とは何人からだ。人は量で価値が左右されるのか。
 ・・・ちなみに日本の対応は次のようだったらしい。「1994年4~6月のルワンダ大虐殺により国外に避難したルワンダ難民を救援するため、日本は、同年9~12月の間、国際平和協力法に基づき、ザイール共和国(当時、現コンゴ民主共和国)のゴマ等に400名の難民救援隊・空輸隊等を派遣した」とのこと。
 石油は欲しくても人はいらない。人は有り余っている。こんなこと大きな声を出して言う者はなかろう。しかし、それが通用している世の中だ。ホテル・マネージャーのポールも、それをよく心得ている。だから、こうもり的に敵対しあう両者と接触するにも見返りは金銭あるいはそれに代わるものだ。思想とか宗教だとか哲学だとか、現場ではもう、そういう問題ではないのだ。だからポールにしても、ひとえに我が妻の、我が子の命を救いたまえ、それだけなのだ。そして、その気持ちがホテルに匿った千人以上の人を救う力となったのだ。
 私たちは、この映画で多くの事実と多くの真理を学び取るべきかもしれない。しかし、とはいえ、果たして何ができると言えよう。何もできないかもしれない。ただホテル・ルワンダのマネージャーを通して、この内紛の惨状を知るとともに、彼が行動した根幹にあるもの、それに共感できればいい、そうも思った。そうすれば見えてくる、自分がどう生きればいいか、どういう人を信頼すればいいか、たとえ、こうもりになったとしても。


 ホテル・ルワンダ。ホテル名ではない。でも、ホテル・ルワンダ。最も世界の平和を願う雛形がそこにある。くだらない首相に与えるよりも、それを実践した彼にこそ、ノーベル平和賞を与えたい。私に与えるような力はないが。


 いまだ冷めやらぬ興奮の我が魂を許したまえ。