NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。為せば成る 為さねばならぬ 何事も。徳川家康の苦渋の選択。織田信長の愛ある最後通告。名君の上杉鷹山。静岡県の折戸ナス。築山殿と水野一族。石川数正。静岡県 静岡市。

 

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麒麟(53)信長に倍返しだ!【4】
「為せば茄子(なす)」



前回コラム「麒麟(52)信長に倍返しだ!【3】武田の鷹狩り」では、武田信玄の第二次駿河侵攻終了までのこと、織田信長の「鷹狩り」の内容から信玄がその能力を見抜いたことなどについて書きました。

今回のコラムはその続きとして、武田信玄の「第三次・駿河侵攻」に話しを進めたいと思います。

その前に、いよいよクライマックスに入ったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」のことを、少しだけ書きます。


◇麒麟がくる

大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が、あと2回となりました。
明智光秀のお話しは、いよいよ彼の人生の佳境に迫ってきましたね。

それにしても、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の終盤の内容は、ものすごいスピード展開です。
放送回数が決まっていますから仕方ありませんが、先般の「第42回 離れゆく心」の中では、徳川家康と、将軍の義昭が、重要な存在として登場してきましたね。

* * *

ドラマの中で光秀は、家康が、織田信長から、家康の妻子を成敗(殺害)するよう命令され困っていることを相談され、信長は信長で、光秀に「家康を試す」という話しをしていましたね。

このドラマのスピード展開では、その内容は、歴史ファンでなければ、理解するのは相当に難しいと思います。
信長の言う「試す」が、家康の何を、何の目的で試すのか、ドラマの中で説明がまったくありませんでした。

ドラマ内では、信長が光秀に、「(信長の命令に)家康は拒まない、拒めない」という主旨の台詞がありましたね。
若干、私の想像も入りますが、簡単にその内容を書きたいと思います。


◇徳川家の内部抗争

この時の三河国(愛知県東部)の徳川家は大きく二つに分裂していたと思われます。
古くからの因縁が絡み、家康サイドと、反家康サイド(正室の築山殿と長男の信康)に分かれ、それぞれに従う武士がいました。
過去には両勢力の間で重要な人物が暗殺されたりしていました。

今回の家康妻子の殺害命令は、信長から家康への単純な圧力とは到底言えない、とんでもない徳川家内部の大抗争が発端です。
信長からの妻子の殺害命令とは、正確に言うと、家康による正室の築山殿の殺害、家康の長男の信康は自刃に追い込むというものです。

* * *

ここでは、要所だけをごく簡単に書きます。

もともと正室の築山殿(つきやまどの)の母親は、今川義元の妹か叔母だといわれています。
築山殿は、今川家一門の中にいた人物です。
その築山殿を家康に嫁がせたのは、今川家の政治戦略です。

「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれましたが、その実現の要因のひとつに、信長と家康が手を組んだことがあります。
そのあたりのお話しは、「麒麟シリーズ」ですでに書きました。

家康は、「桶狭間の戦い」での信長の勝利により、自身の生母を取り戻し(再会が実現し)、自身も今川家からの支配から脱することになります。
ただ同時に、築山殿から見た家康は完全に「裏切り者」です。
築山殿の父母は、この家康の裏切りをきっかけに、今川氏真により自刃に追い込まれてしまいます。

事実上、築山殿は、家康とはこの時点で決別したはずです。
ですが、一応、形式的には、家康はまだ今川方ですので、築山殿には戻る場所がありません。
いわゆる「別居(別城)生活」が始まります。

家康の「母親思い」はよく知られていますが、この母親「於大(おだい)の方」は、あの水野信元の妹です。
水野信元とは、まさに「桶狭間の戦い」を勝利に導き、信長と家康を結び付けた人物です。
「桶狭間の戦い」の直後に、家康を無事に岡崎に帰還させたのは水野信元のチカラです。

* * *

実は、尾張三河の地域というのは、織田氏、徳川(松平)氏、水野氏という三大勢力がおり、それぞれに味方する武家がいました。
この三氏のバランスで保たれていたのですが、三河国と尾張国の中間地域では、水野一族の勢力が相当なチカラを持っていました。
それぞれが、ライバル関係にあり、時に戦い、時に手を組んで数々の陰謀を巡らせていた三氏でした。

後の織田氏、松平氏、水野氏の「清洲同盟」で重要な仲介役を行ったのが、この水野信元と、家康の懐刀(ふところがたな)の家臣の石川数正(いしかわ かずまさ)でした。
石川数正は、駿府の今川家から築山殿と長男の信康を取り戻してきた人物で、ようするに「築山殿側」ということです。

* * *

後に、水野信元と息子は、ここでも一応 信長の命令(?)というかたちで、暗殺されてしまいます。
宿敵の武田家と内通したというのが理由です。
松平(徳川)家内部の家臣たちから見ても、非常に不条理な事件であったと思われます。
この陰で動いたのが、築山殿と石川数正ともいわれています。

築山殿からすれば、水野信元は、亭主の家康を織田方に寝返らせた張本人ですから、この暗殺は今川家と父母の復讐にも見えますね。

* * *

この復讐の応酬の中では、信長の重要な家臣で、織田軍団の総指揮官でもあった佐久間信盛も一枚かんでおり、この水野信元という重要な水野一族の柱の一本を失い、その領地に佐久間が入り込んできます。
ようするに、織田方が三河国にがっちり入り込んできたことを意味します。

* * *

家康の生母の「於大(おだい)の方」は、水野信元の妹で、水野一族の中心人物であり、家康の生母という絶対的な立場です。
ですから、水野一族は、「於大(おだい)の方」の息子(家康)の嫁の築山殿と石川数正を、相当に恨むことになります。
息子のところに来た嫁との、壮絶な戦いということです。

一方、石川数正の増長をよく思わない、家康を支える有名武将たちがごっそりいます。
その武将たちこそ、後の江戸幕府を支える武士たちです。
ずっと後に、徳川家の江戸幕府ができあがりますが、実は裏では、水野一族が幕末まで江戸幕府の実権を握っています。
徳川家の陰にいた政治の黒幕たちの中心に、水野一族がいました。


◇信長の思惑

信長は、徳川家の内部抗争と三河国内の争いに乗じて、水野信元を殺害し、織田方の支配域を三河国内に広げました。
信長だったら、次にどのような行動をとるでしょう…。

そうです、今川家一門の血を引く築山殿と信康の排除ですね。
信長は、家康が命令を拒めば、あわよくば家康もろとも、松平(徳川)家の滅亡も考えたかもしれません。

今回の信長から家康への、妻子の殺害命令も、水野信元暗殺時と同様に、武田家との内通を口実に、家康の一部の家臣や、水野一族らがおそらくは相当に信長にはたらきかけたとも感じます。

つまり、水野一族が、水野信元を暗殺された時と同じ、武田家を口実に、築山殿勢力に復讐をしたとも考えられます。
武田家を理由に引っ張り出したのは、築山殿が信康の側室を武田家から引っ張ったのが原因とも言われていますが、私は、水野一族の怨念がそうさせたようにも感じます。

同じ理由で、復讐してやる!

そこに、石川数正らをよしとしない、家康の重要家臣たちが乗っかったのかもしれません。

この三河国内の徳川内部の二大派閥抗争(家康サイド vs 反家康サイド)を利用して、三河国の支配と安定を謀ろうとしたのが信長だったのかもしれません。
まさに、信長がお得意の陰謀と暗躍の軍事作戦にも感じますね。

* * *

家康からしたら、この三河国内の自身の家臣たちの抗争が相当に深刻な状況に陥っており、家康自身では、なかなか解決できない状況だったのかもしれません。
状況次第では、徳川家崩壊の可能性もあった気がします。
徳川家がなくなったところで、三河国内には、それにとってかわろうとする武士勢力はいくらでもいます。

* * *

状況の詳細がはっきりとはわかりませんが、見方を180度変えると、こうも想像できます。

信長は、この三河国の状況を見かねて、家康に結果的に「助け船」を出したと見えないこともありません。
状況によっては、織田氏と水野氏の連合軍で、徳川軍打倒の戦闘もできないわけではないと思います。
そうなったら、この時の徳川軍では、まず勝てないだろうと思います。
それを行ってはいません。


◇愛ある最後通告?

信長による、家康への妻子の殺害命令は、このようにも想像できます。

先の将来は別として、この時点で信長は、徳川軍への軍事攻撃は得策ではないと考えたのかもしれません。
これから先にある武田の大軍との決戦に備えて、この徳川軍の存在は絶対に必要です。
信長にとって、もっともよくないケースは、名実ともに、家康が武田側に走ることだと思います。

* * *

信長は、今の家康のチカラでは この混乱状況にある三河国をまとめ上げることができないと判断し、家康にかなり厳しい命令を下し、家康自身だけでも、しっかりトップのままで生き残れる道を作ってあげたと考えられなくもありません。

家康にとっては、かなりつらい命令内容ではあったでしょうが、問題は徳川家滅亡に関わる一大事です。

信長は、三河国のもうひとつの有力勢力である水野氏をけん制しつつ、徳川家のチカラを、家康のもとでひとつにまとめ上げたかったのかもしれません。
現実的に、水野氏が、仮に三河国のトップになっても、三河国のそうそうたる武士たちを、まとめあげるだけのチカラはなかったと思います。
松平(徳川)という柱がなければ、三河国をまとめることはできなかったと思います。

* * *

私は、信長による「妻子の殺害命令」は、無理難題を家康に投げかけたということよりも、来たる武田家との決戦に備えての、事前の軍事作戦だと思っています。

信長が、「家康を試す」などという甘いものでもなかったと感じます。
「試す」という言い方は、何かやさしさの残る、その失敗が死を思い起こさせることがないような気がします。

私の想像ですが、信長は、もし家康がここでトップとしての的確な判断と、強力な行動をとれなかった場合は、その地位を他の者に入れ替えようと考えていたのかもしれません。
これまでの松平家の当主たちは、このような身内の抗争の中で、みな命を落としていきました。
ここで、家康が自身の強さを見せなければ、遅かれ早かれ、身内の者に討たれたかもしれません。

信長は、最後のチャンスを家康に与えたような気もしないではありません。
言ってみれば、愛ある厳しい最後通告、あるいは、恩情のたぐいだったかもしれません。
家康自身が生き残るために、家康にかなり厳しい判断が求められたということなのかもしれません。

* * *

信長と家康の間柄は、歴史ドラマの中でも、よく「兄と弟」と表現されますが、この二人は、それまでのように、どこか秘密の場所で深く相談し合ったのではないかとも感じます。
信長という人物は、心を許した人物には、そうした人の心へのアプローチを欠かさない人物でしたから、おそらく、この時も、命令だけで済ませたとは思えません。

* * *

最終的に、築山殿と信康は、家康の判断で、家康の手で殺され、それにより、徳川家康のもとで徳川家がまとまり、徳川軍団がまとまり、水野一族の復讐も成し遂げられ、石川数正がチカラを失ったことで、新しい家康家臣が台頭してきます。
後に、江戸幕府を支えることになる家康の家臣はみな、この時の反家康サイドの武士たちではなく、家康サイドの有力な家臣の武士たちです。

そして、信長にとっても、この三河国に自身の支配域を広げ、この三河国の安定こそが、次の「武田家との決戦」への足がかりとなります。
この一連の流れには、大きな戦闘はありませんが、信長による巧妙な軍事作戦そのものに感じます。
ある意味、信長の典型的な戦術のひとつにも感じます。
家康は、信長の命令に従うよりなかったと思います。

これが、大河ドラマの中の信長が言う「家康は拒まない、拒めない」という意味だと、私は受け止めました。
ドラマの中で「小心者」のひと言で済まされたのは、残りの放送回数の少なさがゆえ…?

* * *

私の想像では、家康の「妻子殺害」の判断は、実は徳川家存続がかかった大問題であり、信長の軍事作戦だと家康が悟ったためだったと思っています。
そして徳川家が三河国のトップとして生き残るには、この判断しかないと家康も考えたのではないか、それを信長も望んでいると理解したのかもしれません。
判断を間違えると、ここで徳川家は、信長、自身の家臣、水野一族によって倒される…、そう家康は感じたのかもしれませんね。

ドラマの中の信長は、明智光秀に、そこまで説明していませんが…。

光秀は、その頃は近畿地方担当ですので、東海地域や関東地域、武田家攻略の軍事担当は滝川一益でした。
信長は、家臣の人選を間違えませんね。


◇石川数正

後に徳川家を離れ、豊臣秀吉のもとに走る石川数正(いしかわ かずまさ)は、この時、一応かたちとして反家康サイドでした。
数正の出奔はずっと後のことですが、家康の目を気にしながら、数正を引き取ることができる武将は秀吉しかいません。

ただ、数正という陰謀暗躍得意の人物のことですから、状況によっては、家康のもとに戻るくらいの判断はする人間だったでしょう。
軍団のナンバー2とは、そのくらいのことができないと務まりませんね。

織田家と徳川家を、かつて実質的に同盟に導いた、家康の一番の腹心の数正でしたが、この築山殿と信康の一件で失脚します。
まさに、後の江戸幕府内の数々の抗争劇と、重要権力者の失脚を早くも見ているようです。

石川数正という存在…、光秀に似ていると感じないこともありませんね。

* * *

三河国が一応、家康のもとでまとまり、家康はもはや信長に抵抗はできません。
ここから、信長による、家康への大軍事実戦教育が始まります。
まさに、愛の「天下人養成講座」の開始ですね。
先生は信長…すごい!

ここから、織田・徳川が連合軍となり、甲斐国の武田軍団との決戦に向かうことになります。
あとは、信玄がいない武田軍を、上手におびき出すだけ…。

武田信玄は死ぬ前に、「信長とは甲斐国(山梨県)の外で絶対に戦ってはいけない」と、あれほど言っていたのに…。


◇軍団トップの判断力

私の個人的な想像ですが、信長は、今、コラムで書いています武田信玄による、第一次から第三次までの「駿河侵攻」を見て、武田軍との戦い方のヒントを得たと感じています。

武田軍と戦うには、どのような作戦をたてればいいのか、この「駿河侵攻」を見ると、武田軍のいろいろな弱点やスキが見えるような気がします。

武田信玄の死後に、武田勝頼が率いる武田軍を、信長・家康連合軍が「長篠の戦い」で撃破しますが、まさに武田軍の弱点を多方面から突きまくります。
信玄が生きていれば、弱点を突かれることはなかったでしょう。
だからこそ、信玄は、甲斐国の外で信長と絶対に戦ってはいけないと言い残したのだろうと思います。

* * *

武田家滅亡の最終段階である「甲州征伐」では、信長自身は甲斐国にはやって来ません。
ただ、私の推測ですが、信長は、甲斐国に向かう織田軍に、「甲斐国の新府城(しんぷじょう)では絶対に決戦を挑んではいけない」と言ったと思います。
そして、それを避ける作戦を信長が実行したのだろうと思います。

* * *

私の想像ですが、信玄がもし生きていて、甲斐国に信長を誘い込んで叩こうとすれば、その場所こそが新府城付近だと感じます。
信玄のことですから、信玄堤(しんげんづつみ)だろうが何だろうが、土木施設や自然のチカラを最大限に使って、信長と戦ったでしょう。

ずっと後に、信玄の家臣であった真田家の真田幸村が、大坂城に「真田丸」をつくって家康相手に善戦しますが、新府城付近の地域は、とてつもなく巨大な真田丸のようであり、そんな要塞が新府城周辺にいくつもあれば、敵はまず勝てない気がします。
もともと武田軍の戦闘の発想は巨大です。
そんなお話しは、またあらためて…。

* * *

私の予想では、「甲州征伐」時に、新府城付近で、もし織田軍と武田軍が本気で戦ったら、「逆・長篠の戦い」の可能性も十分にあったと感じます。
でも、あの軍事の天才である信長が、そんな判断をするはずがないですね。
それに、この織田軍を率いて甲斐国にやって来たのは、信長の家臣で、織田軍随一の戦術家の滝川一益(たきがわ かずます)でした。
そんなお話しも、またあらためて…。

いずれにしても、軍団のトップが、やっていいこと、やってはいけないこと、やるべきこと…、信長も、信玄も、しっかり理解していましたね。
家康は、まだまだ勉強中でした。
でも、相当に優秀な生徒でしたね。

* * *

「麒麟がくる」のドラマ内では、家康の妻子のことだけでなく、鞆の浦(とものうら)の将軍 義昭のこと、荒木村重(あらき むらしげ)のこと、毛利家と秀吉の関係なども、放送内容では相当に短くした内容でしたので、コラム「麒麟シリーズ」で、大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が終了してから後も、おいおい書いていきたいと思います。

* * *

戦国時代を描いたドラマの中では、武将の台詞の中に、よく「試す」という現代人のような言い方が出てきますが、それは今の「試す」という意味よりも、「あぶりだす」、「ワナにかける」、「相手の生死の最終判断」、「味方にするのか、殺すのかを見定める」という意味に近いものだと感じます。
戦国時代は、お試し期間のうちに、手を打たなければ、死を意味していたようにも感じますね。


◇三茄子

さて、武田信玄の「第三次・駿河侵攻」のお話しに入ります。
信玄の見事な「風林火山作戦」を見ることができます。

…ということで、書こうと思いましたが、すでに長文にもなっていますし、「第三次・駿河侵攻」には、「小田原城包囲作戦」や、「三増峠の戦い」もあり、少し長くなりますので、その内容は、次回の「麒麟シーズ」のコラムで書こうと思います。

* * *

そのかわり、今回は、「茄子(なす)」のことを書きます。
ここまでの数回のコラムで、初夢に出てくると縁起のよい「一富士、二鷹、三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」のことを書いてきましたが、前回コラムまでに、「一富士」「二鷹」を書きましたので、今回は「第三次・駿河侵攻」だけに「三茄子(さんなすび)」でしめたいと思います。

駿河国(静岡県)にとっても、家康にとっても、たいへん重要で貴重なものの三つが、この「一富士、二鷹、三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」でしたね。


◇鷹山の「為せば成る」

さて、昔から、ある有名な言葉があります。

「為せば成る、為さねばならぬ、何事も。成らぬは人の、為さぬなりけり。」

(私なりの意訳)
人はやればできる。やる気、責任感、使命感を持って行えば、やり遂げられる。
できない、やり遂げられないのは、それが足りないからだ。

* * *

これは、江戸時代の米沢藩主、上杉鷹山(うえすぎ ようざん)が残した言葉です。
鷹山は、日本史上でも、名君として語られる人物ですね。
1751年に生まれ、1822年に亡くなります。

鷹山は、もともと日向国(宮崎県)の高鍋藩主の秋月種美の次男です。
生母は、筑前国(福岡県)秋月藩主の黒田長貞の娘「春姫」です。

秋月藩とは、黒田長政の次男の黒田長興から始まる系統です。
黒田宗家の黒田忠之とライバル関係にあった長興でした。

鷹山の母「春姫」の生母は、米沢藩主の上杉綱憲(うえすぎ のりざね)の娘なのです。
ようするに、鷹山の曾祖父がこの綱憲にあたります。

上杉綱憲とは、あの忠臣蔵に登場する、吉良上野介の息子で、上杉家に養子に入った、あの人物です。
綱憲の生母は、米沢藩主の上杉定勝の娘の上杉富子です。

優秀な鷹山は、こうしたつながりで、上杉綱憲の孫で米沢藩主となっていた上杉重定の養子となり、9代目藩主となります。
「鷹山」とは隠居後の号で、名は上杉治憲です。
この「治」は、10代将軍の徳川家治に由来します。

仮に、上杉姓でなく、黒田姓になっていたとしても、名君になったのかもしれませんね。

* * *

鷹山は、崩壊寸前の米沢藩をその手腕で立て直した政治家で、災害や飢饉にも優れた対応力を発揮しました。
今現代でも、優れた政治家のリーダー像として尊敬を集めていますね。

米国のジョン・F・ケネディ元大統領も、彼を非常に敬愛していましたね。
クリントン大統領もそうだったようですね。

そんな鷹山が残した言葉ですが、もともとは、彼の言葉ではありません。


◇中国故事の「為せば成る」

古代中国の歴史書であり、儒教の重要な経典である「書経(尚書)」の中の一説です。
「慮(はか)らずんばなんぞ獲(え)ん、為さずんばなんぞ成らん」。

(私なりの意訳)
「思慮深く考えなければ、何も得られることはできない。そして、しっかり行動をしなくては、それが実現することはない」。

鷹山は、これを、当時の日本人にわかりやすいように、意欲が強くわくように、言いかえたのかもしれません。
なにしろ、崩壊寸前の藩の立て直し、災害や飢饉からの立ち直りの時期です。
考えなければいけないこと、行動しなければいけないことが、山積みだったはずですね。


◇信玄の「為せば成る」

実は、鷹山よりも前に、その言いかえを行った人物がいます。
もちろん、鷹山も、それを参考にしたのだろうと思います。

それが武田信玄です。
信玄の言いかえは、ほのかに愁いをおびた「言い換え」とも、相当な強気とも考えられます。

「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」。

(私なりの意訳)
人はやればできる。やる気、責任感、使命感を持って行えば、やり遂げられる。
努力精進すれば、成し遂げられるはずのことを、最初からあきらめてしまいそうになることもある。
それが人の弱さというもの。

* * *

なんとなく、信玄が自身を奮い立たせるような言葉にも感じますね。

信玄は、自身の毛髪を植えこんだ不動明王をつくったり、風林火山のド派手な軍旗をつくったりと、とにかく軍団の闘志を維持していこうとした武将でしたね。
軍団を強く統率し、行動をまとめていくために、明確で簡潔な内容のスローガンや言葉が必要だったはずです。

* * *

彼は、こんな言葉も残しています。

「負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり」

(私なりの意訳)
負けるはずがない敵に負け、滅ぶはずがない家が滅ぶことを、人はみな天命だと言う。
私はそうは思わない。いや、思いたくない。
それはみな、心構え、思慮、準備、行動が悪かったからだ。

* * *

個人的には、必ずしも、信玄が天命を信じていないとも思いません。
闘志、克己、自制など、彼の意志の強さがこの言葉を生んだともいえるかもしれません。

彼の死後に、この予感がその通りになるとは、皮肉なものですね。


◇為せば茄子、茄子は成る

以前のコラムで、「一富士 二鷹 三茄子」の「茄子」とは、駿河国(静岡県)特産の「折戸茄子(おりどなす)」のことですと書きましたね。
清水の次郎長さんの「清水湊」のある「折戸湾」のことも書きましたが、その「折戸」です。

下記のマップの「さった峠」の下に、海に小さくつき出した岬と入り江がありますね。
それが折戸湾です。


 

家康は、この折戸茄子が大好物で、江戸時代は、江戸に献上される超高値の高級品でした。
高級、高値、高品質…、初夢なら縁起のいい、高嶺の花の「折戸茄子」です。

* * *

実は、この折戸茄子は、明治時代に一度栽培されなくなっていましたが、2005年に地元で復活し、今に至っているそうです。
いわゆる「丸茄子」の一種で、写真を見ると、りんごのような結構な大きさです。
ひとりで半分の量でも、十分な大きさにも感じます。
一個の価格も、果物と比べれば、それほど高値でもありません。

おせち料理に入っていて、これを食べれば、少なくとも初夢に出てきてくれるとなれば、正月料理には欠かせないかもしれませんね。
さすがに、鷹の肉は食べられません。
富士山は、毎年元旦に、必ずテレビの「初日の出」ナマ中継があります。

これで、初夢…三連勝!
この内容の掲載が、1月末になってしまって申し訳ありません。
遅い初夢…。

* * *

信玄は、きっとこう家臣に言ったことでしょう。

富士山と鷹は、すでに持っている。
折戸茄子も手に入れ、これで、駿河侵攻「三連勝」だ。
だから「為せば茄子」って言っただろ!
さあ、折戸茄子を持って甲斐に戻るぞ!

* * *

次回の「麒麟シリーズ」コラムは、まじめに、この「第三次・駿河侵攻」を書きたいと思います。

個人的には、信玄がかつて、信長を「鷹狩り」の内容で、その人物像や戦術を見抜いたように、信長は、この「駿河侵攻」で武田軍の特徴をつかんだのではないかと思っています。

武田軍との戦い方のヒント、勝ち方のヒントを、多く得たのではないかとも感じます。
それが活かされるのは、信玄相手ではなく、武田勝頼でしたね。
そんなことを次回は書きます。

それにしても、信玄に、尾張国(愛知県)の「本長ナス」も食べさせてやりたかった。
もうちょっとの場所まで行ったのに…。

* * *

コラム「麒麟(54)麒麟がくる・最終回 / 本能寺の変」につづく。


2021.1.30 天乃みそ汁
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【追伸】
「音路(おんろ)シリーズ」が始まりました。

よろしくお願いいたします。

 

 

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