NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。織田信長の鷹狩り。信長の遠望。武田軍の頭脳。甲陽軍鑑。風林火山。天永寺と天沢。穴山梅雪・高坂昌信・山本勘助・真田昌幸。武田愛と山梨県。

 


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麒麟(52)信長に倍返しだ!【3】
「武田の鷹狩り」


前回コラム「麒麟(51)信長に倍返しだ!【2】富士去来」では、武田信玄の「第一次・駿河侵攻」、武田・北条・今川の三国同盟崩壊、徳川家康の二つの密約、信玄にかけたワナ、北条のかけ引き、信長と謙信の影、一富士 二鷹 三茄子、朝倉義景のサザエ兜などについて書きました。

今回のコラムは「信長に倍返しだ」の第三回として、武田信玄の「第二次・駿河侵攻」を中心に書きたいと思います。

* * *

前回コラムで、武田信玄の「第一次・駿河侵攻」終了までを書きました。
この時点で、今川氏真は、北条氏の庇護のもと伊豆に向かい、駿河国と遠江国の支配権は北条氏が握ることになりました。
遠江国については、徳川家康の支配域との混在という状況です。

家康に絡んだ二つの「密約」が、大きな役割を果たしましたね。
戦国時代も、今の現代も、「密約」はひとつしかないと思うことこそ、敵のワナにかかっているということともいえます。
密約は、同時に複数に、交わされている…、それが今も昔も、人間社会の姿ですね。

「ゆびきり」してから、針を何千本、何万本も飲めるような武将でなければ、天下など夢のまた夢でしたね。


◇北条氏排除を信玄に…?

信長からしたら、ひとまず今川氏をほぼ丸裸の状態で追い出し、遠江国(静岡県西部)の一部が家康(信長)の支配域になり、自軍の勢力が東国の一部である東海地域に食い込んだかたちになりました。

ここでひとつ問題なのは、武田軍を甲斐国に退却させることはできましたが、北条氏が駿河国に支配力を大きく広げたことになりました。
武田軍と北条軍は、駿河国でにらみ合いはしましたが、大きな戦闘をしておらず、双方の軍ともダメージを受けていません。
両軍とも戦力を減らすことなく存在しているのです。

この憂慮は、信長だけでなく、上杉謙信も同様だと思います。

個人的な想像ですが、次に信長が考えたことは、この北条氏を、どうやって駿河国から追い出し、弱体化させるかということでしょうか。
それには、やはり武田信玄を使うのが最適のように感じます。
武田信玄も、このまま、おめおめと引き下がるような武将ではありません。

信長は、自身と家康が、この駿河国の問題から距離を置けば、信玄はすぐに動き出すと考えたかもしれません。
あるいは、信長は、信玄の「第二次・第三次 駿河侵攻」を予想していたのかもしれません。
信長は、駿河国から北条氏を排除する役目を、今度は信玄にさせたかったのかもしれません。

* * *

信長は、1569年後半は、京の都のこと、畿内のこと、伊勢侵攻のこと、中国地方の毛利元就支援のことなど、問題山積みですから、そうそう駿河国のことばかりに注力できません。

武田軍と北条軍がぶつかれば、両軍にダメージが出るのは間違いないでしょう。
信長は、その勝者側がどちらになるかで、また新たな戦略をたてるつもりだったかもしれません。
その時は、また、その敗者側を利用すればいいのでしょう。

* * *

前回コラムで書きましたが、上杉謙信は、同年1569年6月の、北条氏との同盟成立の調整に奔走します。
同年の1569年8月頃には、越後国(新潟県)の隣の越中国(富山県)への対応で手いっぱいになり、その後の武田信玄と北条氏の対決の際に、同盟関係を結んだ北条氏を助けに来ることができなくなります。

武田信玄は、昔から、越後国(新潟県)の上杉謙信と戦う際に、越中国(富山県)の武将や一向宗勢力と手を結び、富山側から新潟側に圧力をかける戦略をとっていましたが、この1569年夏も、信玄は自身の「第二次・第三次 駿河侵攻」を成功させるために、越中国の勢力にはたらきかけ、謙信を北陸の地から離れられないようにしました。

これがなかったら、これから書きます、信玄の「第二次・第三次 駿河侵攻」は成功しなかったはずです。
太平洋の駿河湾の攻防と、日本海の富山湾の攻防は、実は密接につながっていたのです。

武田信玄…さすがに卒(そつ)がありませんね。


◇信長の遠望

実は、この越中国(富山県)やそのすぐ南の飛騨国(岐阜県北部)を信玄に奪われることは、美濃国(岐阜県南部)を支配域とする信長にとっても一大事です。
この越中国(富山県)や飛騨国(岐阜県北部)の地域を信玄にとられたら、越前国(福井県東部)の朝倉氏と信玄は、直結してしまいます。
信長にとって、ここは謙信にがんばってもらって、信玄の勢力拡大をおさえてもらいたいところでした。

信長が、謙信をほめて、おだてて、プレゼント攻めをしたのも、こうした背景があります。
信長と謙信の企てに、共有する内容が多いのは、こうした状況が反映していると感じます。

おそらく信長は、謙信と話しをするときは信玄への敵対姿勢を見せ、信玄と話しをするときは謙信への敵対姿勢を見せれば、何とかなると考えていたのかもしれません。
北条氏には今川氏の領地をちらつかせればいいのでしょう…。

この段階で、信長は、武田信玄とも、上杉謙信とも、北条氏康とも、表立った敵対関係を作らず、一応、良好な関係を維持しています。
ただ、心の中では、その時を待っていました。

今回は、上杉謙信が動けなければ、北条氏の弱体化を武田信玄にやらせるか…、信長はそんな腹づもりだったのかもしれませんね。

おそろしや…魔王の信長。

* * *

私のあくまで想像ですが、信長はいずれ、信玄の年齢の問題や、武田家内部の壮絶な抗争劇を考えると、北条氏康の死後に、北条氏政、徳川家康、上杉謙信と組んで、信玄なき後の、武田氏に総攻撃をかけた気がします。
遅かれ早かれ、信玄死後に武田軍は瓦解し自滅すると思っていたことでしょう。

その後は、謙信の健康状態次第ですが、信長と上杉謙信、徳川家康で、北条氏を総攻撃し滅亡させたかもしれません。
今川氏に武家再興でも ちらつかせて、戦場に復帰させたかもしれません。

その後、高齢で酒浸りの謙信の死を待って、謙信死後の上杉氏を、信長と家康で総攻撃したかもしれません。
信長は、謙信の家臣の直江氏を早くから手なづけていましたね。

信長軍は、光秀や勝家などのベテランから、秀吉をはじめとする若い世代までそろっていますので、軍団に高齢化問題は存在しなかったはずです。
信長という人物は、かなり先の時代まで考えるタイプの武将でしたね。


◇風林火山の大逆襲

さて、武田信玄のことですから、後で、「第一次・駿河侵攻」での信長・家康・氏康・謙信の陰謀の全体像を理解したでしょう。

次は、信長と家康がいない、謙信が駿河に来れない状況になってから、北条氏が支配する駿河国を奪いにいこうと考えたかもしれません。
次に信玄が戦う相手は、北条氏康・氏政の親子だけです。
信玄が、その状況をどうやって作ったかは前述しました。

謙信、信長、家康には、いつかこの借りは返す…、信玄は、そんな決意を抱いたのかもしれませんね。

* * *

「第一次・駿河侵攻」の後、いったん甲斐国に戻った信玄は、この直後、怒りの大逆襲が始まります。
まさに、「風林火山」ここにあり!

「疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」。
ここからの「第二次・第三次 駿河侵攻」は、まさにこの言葉を具現化するような武田軍に見えてきます。
普通の軍団でしたら、おそらくこんな軍事行動はできないかもしれません。

先に書いてしまいますが、あの北条軍でさえ、お手上げです。
北条軍は、あの上杉謙信が武田軍に苦戦するのを、肌で実感したかもしれませんね。

信玄の「風林火山」とは、こういうことだったのか…!

* * *

武田軍には、それはそれは、ものすごい「鬼家臣」たちがいましたね。

本当に、それぞれ個性や能力の異なる武将たちがそろっていました。
ただ、この時に、弟の武田信繁と山本勘助という、最強の核弾頭ミサイルを二つ失っていたことは、相当なダメージだったかもしれません。

ただ、信濃国のあのニューヒーロー軍団も、いよいよやって来ます。

* * *

それにしても、なぜ、これだけの数の鬼がそろっていた「武田鬼軍団」が天下をとれない…。
やはり、鬼を蹴散らす信長は、最強の「魔王」か…。

魔王のもとには、成長中の次世代の鬼たちが、ごっそりいましたね。

信玄・信繁・勘助のいる「風林火山の鬼軍団」と、信長の「魔王軍団」の直接対決は実現しませんでしたが、もし行われていたら、どのくらい作戦だらけの頭脳戦と技能戦、そして陰謀戦が繰り広げられたことでしょう。

この軍団どうしなら、単なる城攻めなども考えられません。
信玄にとっても、信長にとっても、城は道具…。
ワナにかけたり、かかったり…、二人とも危機への準備を怠りません。
おまけに二人は、広域戦にめっぽう強い。
山間部での戦いなら、武田軍に勝てる相手はいなかったでしょうが、誘導作戦上手、土木工事大好き、アイデア仕掛け満載の信長なら、何をしでかしたかわかりませんね。

どんな苦境でも、負けない武将…、それがこの二人でしたね。
上杉謙信でさえ勝てなかった鬼軍団…、歴史ファンとしては、一度、信長と信玄に直接対決してほしかった。


◇信玄の「第二次・駿河侵攻」

1569年4月に、いったん甲斐国に戻った信玄は、大軍を組織し、駿河国に戻ってきます。
同年6月、駿河国内の大宮城(富士城 / 静岡県冨士宮市)を落とします。

この城の城主は、「富士山本宮浅間大社」の大宮司の富士氏が務めており、この城を落とすことは重要な意味がありました。


 

信玄は、この「第二次・駿河侵攻」時に、伊豆に北条軍を足止めさせます。
北条氏政は、これにより大宮城奪還には来れません。

北条氏政は、北条方の富士氏に開城をすすめます。
そして富士氏は、城を明け渡し、敗走します。

この時は、「第一次・駿河侵攻」の時のように、家康はこの駿河国周辺にはいません。
武田の大軍団を前に、北条氏政は対抗できませんでした。

信玄は、こうして重要な拠点の大宮城を手に入れます。
これが信玄による、6月の「第二次・駿河侵攻」です。

実は、これはすべて、次の「第三次・駿河侵攻」のための準備行動ですので、軍事行動はいったんここまででした。
ようするに、喉から手が出るほど欲しい駿河湾の手前でストップします。

まさに熟練武将の戦い方を見るようです。
川中島での謙信との数々の死闘は、活かされていますね。
「攻め過ぎ」は危険です。
戦国時代に野戦で強かった武将は、「都合のいい場所と時間に、敵に攻めさせる」のです。

この後すぐに、信玄の「第三次・駿河侵攻」の攻撃が、全く別の場所で開始されるのです。
あの北条軍が、まさか振り回されるとは…。

武田軍…怖すぎ!


◇穴山梅雪

さて、信玄のもとで、さまざまな陰謀暗躍を行ったのが穴山梅雪(あなやま ばいせつ)です。

前回までのコラムで書きました「義信事件(武田信玄の嫡男の自刃)」や、梅雪の弟の死は、信玄に近い主流派の三国同盟反対派による、三国同盟維持派の打倒ともいわれていますが、梅雪は、これらの陰謀にも関与したともいわれています。
個人的には、これらの陰謀は梅雪だけではないと考えています。
そのお話しは、「塩の道は人の道」シリーズで、またあらためて…。

梅雪は、この時の駿河国の大宮城の明け渡しにも、裏で奔走します。
さらに、密かに、今川家臣たちや徳川方と会っていたともいわれています。

* * *

穴山梅雪の正室は、信玄の次女の見性院(けんしょういん)で、ようするに梅雪は信玄と三条夫人にとっては娘婿の立場です。
梅雪の父の正室は、信玄の姉です。
この見性院とは、後に、松姫(信松尼 / 信玄の娘で織田信忠の婚約者)とともに、徳川秀忠の隠し子の保科正之を養育した人物です。

穴山氏は、甲斐国南部が古くからの領地で、駿河国との国境付近に位置する、重要な武家でしたので、武田家からみても重い意味を持つ武家でした。
前回コラムで、静岡県中央部がえぐれた形をしているのは、身延山や富士山の北側が、穴山氏の支配域だったからだと書きましたね。

梅雪は、この信玄の身内という立場を使い、武田軍内の有力ライバルを蹴落とし、確実に武田軍の中核の位置に上がってきます。
数々の陰謀・暗躍にチカラを発揮し、信玄の信頼は武田軍随一にまでなります。
それだけに、逆に恐ろしさもあります。

彼は、数々の陰謀や暗躍に絡み、本心や真意が不明瞭な内容も多く、謎の多い武将です。
まさに武田軍の運命のカギを握っていた人物ともいえますが、実は、信玄死後の武田家復活のカギも握っていた人物です。
この駿河侵攻のあたりから、彼の影響力は絶大になっていきます。


◇武田軍の頭脳

この「駿河侵攻」時には、信玄の有能な弟の信繁や、軍師の山本勘助は、8年前の1561年の「第四次・川中島の戦い」ですでに討死しており、軍団の作戦立案としては相当なダメージを受けていたはずです。

おそらく、この二人が生きていたら、「駿河侵攻」の内容は大幅に違ったものになった可能性が高いと思っています。
「駿河侵攻」自体を行わず、別の戦略をたてたかもしれませんね。
今となっては、想像するしかありません。

戦国時代の武田軍の書物「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」を残したとされ、勘助と並んで、名知将といわれた高坂弾正昌信(春日虎綱)は、どの程度、駿河侵攻の作戦計画に関わったでしょうか。

高坂氏は基本的に、上杉謙信の抑えとしての役割が大きかったため、この駿河侵攻には他の主要な武将たちが向かったと思われます。
ただ、この駿河侵攻作戦は、攻撃と退却が上手な高坂昌信の匂いがしないでもないです。
勘助だったら、どのような手を考えたでしょうか。
私の想像ですが、武田軍は、「勘助が生きていたら…どうしただろう」と相当に考えたかもしれませんね。

* * *

武田軍団の強さの要因として、軍団の中に、タイプの違う知将が結構いたことです。
おまけにトップの信玄の理解力と統率力が、傑出しています。
武田軍の軍団組織の多様性、作戦の豊富さは、他の軍団ではかなわないと感じます。

おまけに、この頭脳は、他の家臣にも伝承されていきます。
真田家親子がいい例ですね。

この段階で、真田幸村や信幸の父の真田昌幸は、まだ下級の地位で、作戦に絡むような地位ではありませんが、信玄は彼の軍略の才能を見抜いていましたね。
昌幸が武功をあげ、一躍ブレイクするのは、この後の「第三次・駿河侵攻」の場面です。

昌幸の父の真田幸隆を越える才能の、この真田昌幸・信幸・幸村親子が、もう少し早く生まれてきていたら、武田家のその後は、かなり変わっていたのかもしれませんね。

山本勘助の教え子のようだった馬場信春に、山本勘助の代わりを求めるのも、少し酷かもしれません。
勘助がいなくなったのは、作戦立案に大きな痛手だった気がします。

陰謀上手ではありますが、穴山梅雪で支えきれるのか…。
信玄の頭脳や身体への負担は、かなり増えたのかもしれませんね。
信玄の余命は…あと4年。


◇鷹狩り

さて、前回コラムで「一富士 二鷹 三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」のことを書きました。
前回コラムが「一富士」でしたので、今回は「二鷹」の「鷹」のお話しを書きます。

武将たちの、特別な行いに「鷹狩り(たかがり)」というものがありましたね。
ごく簡単にいえば、鳥の鷹(たか)を飼育・調教して、鷹を使って獲物である小動物を捕獲するというイベントです。
鷹を狩るためのイベントではありません。

「鷹」とはいっても、タカ、ワシ、ハヤブサなどを総称した呼び方です。
獲物の小動物は、キジや小鳥、ウサギなどです。

鷹を飼育調教する専門職の者を「鷹匠(たかじょう)」、その鷹の訓練場所を「鷹場(たかば)」といいます。
「鷹」や「狩」などの漢字が地名についている場所は、何らかの関係がある可能性が高いです。

* * *

日本では、すでに古墳時代に、天皇が鷹狩りを行っています。
鷹匠の埴輪もあります。

はじめは趣味としての狩猟であったのかもしれませんが、古墳時代にはすでに軍事訓練の意味合いがあったようです。

時代の変遷の中で、仏教の殺生禁止の思想や、動物愛護の精神の影響で、取りやめになったり復活したりを繰り返していました。
狩猟が、どうして軍事訓練なのかと不思議に感じる方もおられると思います。

個人的な想像ですが、織田信長、武田信玄、上杉謙信などは、「鷹狩り」でなくとも、相当に高度で複雑な軍事訓練をしていた軍団であっただろうと感じています。
普通の「鷹狩り」という軍事訓練で、彼らの軍事作戦を実戦で行えるはずがないとも感じます。
おそらく彼らの「鷹狩り」は、ただの「鷹狩り」であったとは思えません。

* * *

江戸時代以降の将軍たちの「鷹狩り」は、軍事訓練というよりも政治イベント、一種のスポーツイベントに近い内容にも感じます。
将軍が鷹狩りを行う場所を「御場(ごじょう)」といいますが、東京でいえば、世田谷区全域と狛江市を合わせた広大な敷地が御場です。
江戸周辺には、やたらに御場がありました。

都心にもっとも近い御場は「浜離宮」です。
うまいこと鴨を追い立てる仕掛けがありました。
もともとは御場として作られ、江戸に象がやって来たときは、ここが象園にもなりました。

落語の「目黒のさんま」、豪徳寺の「招き猫」のお話しは、将軍やお殿様の「鷹狩り」の帰りでのお話しです。
戦のない時代には、「鷹狩り」は政治的に重要なイベントになっていきました。
今の「園遊会」や「桜を見る会」のようなことだと思います。おそらく…。

* * *

戦国時代の「鷹狩り」は、まさに軍団の大将からしたら、家臣たちに、軍団の戦闘行動の考え方を植え付ける機会であり、家臣の判断力や行動力、体力や技能などの見極めの機会です。
家臣たちの動きを見て、役割分担を考えます。
家臣たちも、出世のアピールのチャンスですね。

徳川家康の家臣の本多正信は、「鷹匠」からのまさかの大出世でしたね。

もちろん、鷹自体も、武器のひとつですから、訓練が必要です。
鷹で敵の人間を暗殺することも可能です。

* * *

信長の「馬廻り衆」は、まさに問答無用の必殺部隊でしたから、相当な特別訓練を行ったことでしょう。
馬が怖くなって坂を下りることができない…、武者が落馬する…、弓や鉄砲をかいくぐって突っ走ることができない…、馬上で弓や鉄砲を使えない…、などは許されません。
それよりなにより、防具をつけない軽装でも、死の恐怖に打ち勝つ訓練も必要です。

信玄の武田軍には、山本勘助が考案したといわれる、「武田八陣形」という戦闘時の八種類の軍団陣形が有名です。
戦国最強といわれた大騎馬軍と歩兵たちによる複雑な戦闘陣形です。
実戦では、複雑に組み合わせたり、変形したりして機能します。

「第四次・川中島の戦い」では、信玄の防御の「鶴翼の陣形」対、謙信の中枢突撃型「車がかりの陣形」の壮絶な戦いがありました。
「鶴翼の陣形」については、次回以降のコラムで少しふれます。

家康が「三方ヶ原の戦い」で信玄に、見るも無残に叩きつぶされたのは、作戦と陣形の大失敗だと思います。
後で、相当に信長に叱られたでしょうね。
「だから、教科書ばかり読んでいたのではダメなんだ…、しっかり鷹狩りやっていたのか!」。

こうした陣形の作り方、動かし方は、相当に事前に訓練を重ねないと、まず実戦では使えないと感じます。
信長も、信玄も、謙信も、敵に知られないように、密かに相当な訓練をしていたはずです。
鬼のような「鷹狩り」の猛特訓が行われていたのかもしれませんね。


◇信長って、どんな若者?

実は、武田信玄は、信長の「鷹狩り」の内容を耳にして、信長の戦闘能力の高さ、武将としての可能性を認識したといわれています。
もちろん信玄は、信長本人から聞いたわけではありません。

ここからは史料「信長公記(信長の行動記録文献)」の内容を少しご紹介します。

この文献は、信長の生涯を描いた内容であり、後にかなり削除や改ざんの形跡が感じられますが、信長の姿や行動を知る上では、重要な史料です。
この中に、武田信玄が、織田信長の日常のことを、根ほり葉ほり聞き出すくだりがありますので、その部分のことを書きます。

* * *

尾張国の清洲に「味鏡山 天永寺 護国院(みきょうざん てんえいじ ごこくいん / 名古屋市北区)」という、真言宗の大寺院があります。
創建は、奈良時代で、あの東大寺大仏殿を造った行基(ぎょうき)です。
行基は、日本中にたくさんの寺を造り、橋や貯水池などの社会公共施設もたくさん造りました。

信長の頃、この天永寺に「天沢(てんたく)」という高僧がいたようです。
織田家の記録には、天沢は天台宗の高僧とあります。
天台宗の総本山は比叡山延暦寺です。

申し訳ありませんが、天永寺と天沢の宗教の相違はよくわかりません。
武家には「客将」という他家からの招待武士がいましたが、お寺に宗教の異なる「客僧(きゃくそう)」などいたのでしょうか。
信長の人物像をよく知っていることや、信玄に注目されることからも、宗教や宗派に関係なく、かなり影響力のある高僧であったのかもしれません。
天沢は、いろいろなところから招待を受け、教導に出向いたのかもしれません。

* * *

この高僧の天沢(てんたく)は、関東の寺から招待を受け、尾張から関東に中仙道を通って向かいます。
当時は、戦国時代ですから、有名な高僧が移動するとなれば、その街道すじの武将は目を光らせたはずです。
私の想像では、武田信玄は、信濃国に入った天沢の動向を常に監視していたと思います。

信玄は、さも、偶然のように思わせて、信玄との対面を、天沢に打診したのだろうと思います。
諏訪の地あたりから、無理矢理、甲府に連れていったのかもしれません。
旅の護衛や食糧提供などを理由に、監視の目を離さなかったと思います。

* * *

史料の内容からすると、信長と今川義元の「桶狭間の戦い」の直前の1~2年のうちだと想像します。

今川義元が尾張や三河に侵攻する計画は、当然、信玄もつかんでいたでしょう。
義元は、遠江国や三河衆の武家たちの抵抗にあい混乱状況で、なかなか尾張三河侵攻ができない頃かと思われます。

信長が、今川軍との合戦で善戦し、鉄砲を上手に駆使する軍団だということは、信玄もつかんでいたと思われます。
織田信秀なき後、その後継者の信長はなかなかやりそうだ…、そんな印象を信玄は持っていたのかもしれません。
なにより、あの下克上武将の斎藤道三が高く評価した武将とは、どんな武将なのか、興味津々だったことでしょう。
「桶狭間の戦い」の直前です。

* * *

信玄は、天沢を「質問攻め」にします。
信長の人物像や日常を、すべて聞かせてほしい…。

信玄は、勉強熱心で、仏教にも詳しく、兵法にも詳しい武将でしたね。
多くの名言を残した武将です。
これだけ残せたということは、相当に雄弁で好奇心いっぱい、おしゃべりだったのかもしれません。

天沢のちょっとした内容にも、食いつき、しつこく聞きまくります。
このちょっとした内容で、相当な内容をつかめるのが、名武将たるゆえんですね。

天沢ほどの地位の僧であれば、他国に行って、やたらに他の武将の悪クチを語るはずはありません。
慎重に、重要な内容を答えたのであろうと感じます。

「信長公記」には、信玄と天沢の言葉のやりとりが残っていますが、少し簡潔に、天沢が、信長の何を語ったのかを書きます。

* * *

まずは、信玄は、信長の教育係は誰だと聞いてきます。
鉄砲は橋本一巳から、弓術は市川大介から、剣術は平田三位から…。
当時の戦国武将の敵の調略は、このあたりの人物から始まります。

次は、信長の趣味の内容です。
「舞」と「小唄」が好きですと天沢が答えると、「幸若太夫(幸若舞の師匠)」がくるのかと信玄が聞き返します。
信玄が、すでに信長のもとに「幸若太夫」が通っている情報をつかんでいたということです。

「幸若舞」とは、今でいう若者に人気の流行のダンスのようなものです。
エグザイルのダンスの先生が、信長のもとに通っているようなイメージです。
今でいう音楽好き、ダンス好き、軍事オタク…、小生意気なことを時々クチにする…、でも頭がいい、若い男性の姿が、信長像として浮かび上がってきそうです。

天沢は、信長は「敦盛」が大好きで、いつもそればかりだと言います。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり…」と言いながら、しょっちゅう踊っていますよ…と話します。

すでに中年の信玄は、若者の「変わった趣味だな」と言いながら、信長はどんな小唄が好きなのかと聞いてきます。
ここで、天沢は、この時期の信長の好きな言葉を語ります。

「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。一定かたりこすよの」。

信長の気持ちを想像して、私なりの意訳をします。
「人はいつか必ず死ぬ。天に上って、地上で生きたことを思い出そうとするときのために、今、オレは何をしておこうか…。
残していった者たちは、きっと、オレが地上で行ったこと、残していったことを、オレの思い出として語ってくれるだろう」。

前述の「人間五十年…」とこの「死のふは一定…」は、信長の生涯を通じて心底にあった思想でした。
武将としての器量や学識、決断力や覚悟を見定めるには、とても参考になる内容ですね。

信玄は、天沢に、実際にそれを舞って見せよとしつこく言い、天沢は渋々、舞ってみせました。
これを見れば、信長の決断力の有り無しや、覚悟の度合いがわかる気がします。
さすが信玄です。

* * *

それから、信長の日常生活の質問をします。
天沢は、信長が、毎朝、本人が鉄砲の訓練をしていること、馬術の練習をかかさないことを話します。
地道に、毎朝の体力づくりと技能の鍛錬に励む信長の姿が想像できます。

信玄は、今川義元の日常も知り尽くしていたことでしょう。
ぶくぶく太って、運動不足による痔病で馬にも乗れない義元と、信長を比較したかもしれませんね。

* * *

それから信玄は、噂に聞く信長の変わった「鷹狩り」の内容をくわしく聞くのです。

実は、信長の「鷹狩り」は、当時の通例とはかなり違っていたといわれています。
まさに、戦の実戦を想定した内容であったともいわれています。

ここから内容を書きますが、まさに、信長がこれから行う「桶狭間の戦い」を彷彿とさせるような内容が含まれています。
天沢は、この「鷹狩り」を、信長が何度も何度も行っていると信玄に話します。

「何だと…、マジか!」


◇それは実戦そのもの

「信長公記」の内容の一部を現代語訳で書きます。

「信長は鷹狩り装束で参内した。
お供の衆はいずれも思い思いの服装をし、おもしろい形の頭巾をかぶって興を添えた。
皆の狩杖(かりづえ)などまで金銀を塗ってあった。
結構だったことはいうまでもない」。

信長の異彩ぶりは前代未聞で、後に、天皇の前に、おしゃれした「鷹狩り衣装」であらわれたりもしたのです。
信長からしたら、武将として、この衣装に相当な自負があったのかもしれません。
天皇に、この衣装で、何かを伝えようとしたのは間違いないと思います。

* * *

「桶狭間の戦い」で、今川義元の本陣に突撃した「特殊部隊」は、通常 考えられるような武士の姿ではなく、相当に動きやすい軽装です。
そしてド派手でわかりやすい、何らかの目印のようなものをつけています。
大雨の中、大混乱の戦場の中でも、敵と味方を絶対に見間違えることのないような、見たこともない衣装だったといわれています。
通常、軍団が持っていく、軍旗や馬印も持っていきません。
鉄砲は、おそらく防水仕様です。

とにかく、右も左も、上も下も、動き回って、ちゅうちょせずに問答無用で、目の前の敵を倒せという信長の指示です。
後に「ここまで非道か…」と言わしめた特殊部隊の戦闘でした。

前述の「狩杖(かりづえ)」とは、織田軍の特殊武器の「長槍」の変形とも考えられます。

* * *

この信長の「鷹狩り」の内容は、鷹を使って、鳥(おそらくはキジあたりか)を捕える内容です。

20人ほどの家臣「鳥見の衆」を野に放ち、鳥を探索させます。
一部の家臣が鳥を見つけた際に、そこに他の家臣たちが集められる何らかの方法があったと思います。
一部の家臣をその場に残し、その鳥の監視をさせます。
別の一部の家臣が、信長のもとに、そのことを伝えにやってきます。

ここまでで、探索の上手い家臣、家臣の集合方法、伝達の上手い家臣がわかりますね。

信長のもとには、別に弓担当が三人、槍担当が三人います。
実戦であれば、信長周辺の親衛隊であり、それぞれ別の行動パターンがあったはずです。
想像ですが、鷹狩りによっては、鉄砲隊もいたのではないでしょうか。
その他に、この鷹狩り訓練の記録係もいます。

ここで、信長が獲物の鳥に近づくパターンもあれば、そうでないパターンも、当然試したはずです。

その獲物の鳥に、ひとりの武者「馬乗り」が、鳥の気を引くための長い羽根のような仕掛けを持って近づき、鷹が鳥を狙いやすい場所まで、鳥を誘導します。

その場所の周囲には、農民の格好をさせた武者「向かい待ち」を配置させています。

獲物がその場所に来た瞬間、鷹を飛ばして、鷹は鳥を足でつかみます。
それを合図に、農民の格好の「向かい待ち」が飛び掛かるという内容です。

この内容…、「桶狭間の戦い」にそっくりですね。
まさに獲物の鳥は、今川義元です。

* * *

実は、天沢は、「桶狭間の戦い」の前に、信玄に作戦内容を話してしまっていたのかもしれませんね。

信玄は、この内容が、まさに実戦を想定した軍事訓練であることを、すぐに理解したのだろうと思います。

信玄は、こう思ったかもしれません。

「オレたち騎馬軍団のほかにも、実践訓練におこたりない軍団がほかにもいる。
おまけに、おかしな武器や武具を使っている。
兵士たちに大将の意思をしっかり伝えており、指揮系統もしっかりしている。
オレたちの戦い方とも何か違うようだ…。
信長は変わり者のようだが、地道な武将だ。決して侮れない。
今川義元はこの信長には勝てないかもしれない」。

* * *

この数年後、今川義元は、まさにこの「鷹狩り」のような内容で、桶狭間で討ち取られました。

私の想像ですが、信長は、この「鷹狩り」の繰り返しの中で、どこに農民を配置し、どこに土木工事が必要なのかを研究していったのではないでしょうか。
「桶狭間の戦い」での、信長の、自軍の武将の配置、さらには今川軍からの寝返り組の武将たちの配置の見事さは、舌をまいてしまいます。
それに対して、今川義元は、まるでか弱い「赤色の鳥(今川家の戦闘時使用の家紋)」のようで、信長の思いのままに誘導されました。

信長はきっと、「鷹狩り」の際に、獲物の鳥を「赤鳥」に見立てていたのは間違いないと思います。
信長は、「桶狭間の戦い」の後、それまで口癖のように言っていた、前述の言葉「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。一定かなりをこすよの」をクチにしなくなったといわれています。

* * *

武田信玄は、「桶狭間の戦い」の内容を、おそらくは隠密を通じて得ていただろうと思います。
「これは、天沢の語った鷹狩りの内容ではないか!」。
信玄も、謙信も、この戦の後、信長に対する態度を一変させます。

実は、「鷹狩り」とは、侮ってはいけない内容なのです。
「たか」が鷹狩り、されど鷹狩り…。


◇武田の鷹狩り

個人的には、信玄の鷹狩りは、信長の「一撃必殺」のそれとも大きく違う気がします。
まさに身体(からだ)をはった、怒涛の鷹狩りにも感じます。

どこか遠くの木の上から鷹ににらまれたら、逃げ切れそうにない恐怖感も感じます。
木の上を飛び立ったとたん、まっすぐに猛スピードでこちらに迫ります。
そして、鷹が両足を向けて迫ってくるように感じます。

家臣たちはみな、「鷹狩り」を通じて、頭と身体に、それが叩き込まれていったのかもしれません。

* * *

ひょっとしたら、信玄は、「第一次・駿河侵攻」で、あやうく信長の「鷹狩り」の餌食になるところだったのかもしれません。
信玄は、いよいよ決意します。

今度は、オレたちが「鷹狩り」に向かう!
武田の「鷹狩り」を見せてやる!

* * *

次回コラムは、信玄の「第三次・駿河侵攻」のお話しです。
次回は「三茄子(さんなすび)」の登場ですが、ここが難敵です。
どんな茄子が登場するのか…。


◇武田愛

さて、最後にひとつ、面白いブログをご紹介します。
今回のコラム内容に、武田軍だけでなく、多くの武家が軍事教科書とした「甲陽軍艦(こうようぐんかん)」という書物が出てきましたね。

この書物には、武田信玄、山本勘助、高坂昌信などの思想や、武田軍団の強さの秘密が凝縮されています。
世界各国の近代軍隊も、その研究を行った書物です。
今でも、現役の兵法書と考えてもいいと感じます。

実は、アメーバブログに、ブロガーの高坂美慧さんの「甲陽文寛」というブログがあります。

「甲陽文寛」のブログ

「甲陽文寛」という名称は、高坂さんの造語だと思います。
さすが、高坂殿。
筋金入りの「武田愛」でいっぱいの女性二人が、女性目線で、歴史目線で、武田一族と武田軍団を語りつくす内容です。
なにより女性的な視線が面白い…ちょっとポップな「甲斐源氏物語」。

今年2021年は、「武田信玄公生誕500年」として、さまざまな記念行事が「甲斐国(山梨県)」で予定されていると聞いています。
おそらく、この「甲陽文寛」にも、しっかり記録されていくのだろうと思います。
信玄をはじめとする武田家諸将は、500年後に「甲陽軍艦」の続編が、姫君たちの手で生まれるとは、想像もしていなかったでしょう。
きっと喜んでいるはず。

「武田愛」を感じたい方々…、武田信玄のような上司が欲しい方々…、よろしかったら「甲陽文寛」も、どうぞ のぞいて見てください。
富士山のふもとに、「風林火山」の旗をかかげた女性たちが、今現代もいますよ。
がんばれ!甲陽文寛!

それにしても、甲斐国(山梨県)が故郷って…なんか いいな。
「武田愛」にどっぷり つかれそう…。

* * *


コラム「麒麟(53)信長に倍返しだ!【4】為せば茄子」につづく。

 

2021.1.6 天乃みそ汁

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