NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の北伊勢侵攻。進むも退くも滝川一益。神戸具盛の交渉。織田四天王と方面軍司令官。運命を変えた人事異動。鉄甲船。清須会議の陰謀。

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

麒麟(43)一か六か(イチかロクか)


コラム「麒麟(42)賀の牙城」では、織田信長の上洛作戦、足利義昭の岐阜への旅、甲賀と信楽と紫香楽のこと、六角氏と甲賀の関係、斯波氏と紫波のこと、南面の桜に「こころ旅」、志賀理和気神社などを書きました。

今回のコラムは、大河ドラマ「麒麟がくる」第26~27回に関連し、前回に引き続き、信長の上洛作戦のつづきを書きたいと思います。

* * *

前回コラムで、足利義昭を連れた「上洛作戦」があろうとなかろうと、信長による「伊勢侵攻」と「近江侵攻」は時間の問題であっただろうと書きました。

信長にとっては、ちょうどよいタイミングで、足利義昭を連れての上洛・幕府再興の話しが持ち込まれ、この三つ(伊勢侵攻・近江侵攻・上洛)が関連づけられた軍事行動に変わったのではないかと思っています。
まさに、「濡れ手で泡」「一石二鳥」「漁夫の利」のようにも見えてきます。

とはいえ、上洛作戦はそうそう簡単には思えません。
岐阜から京へのルートには、北伊勢の勢力、甲賀の勢力を横目に、近江国南部の六角氏の領地を通らなければなりません。
京都周辺には、三好勢が待ち構えています。

近江北部の浅井長政は、同盟を結んだことで、信長にとって ひとまず味方ですが、越前国の朝倉勢の動きも気になります。


 

上記マップの、美濃国の斎藤龍興は追放し、同国の西美濃三人衆は信長の配下になっています。
徳川家康も家臣同然です。
浅井長政とは同盟を結んでいます。

信長が、岐阜から上洛するにあたって、北伊勢(三重県北部)の神戸具盛(かんべ とももり)と、その南の伊勢地域の北畠具教(きたばたけ とものり)は気になる存在ですね。

特に、北伊勢の勢力には、上洛する際に、背後に回られてしまう可能性があります。
信長の留守の尾張国と美濃国に侵攻される可能性もあります。

信長は、上洛の行軍を開始する前に、北伊勢をなんとかしなければなりませんね。


◇信長の北伊勢侵攻

北伊勢とは、今の三重県の四日市や鈴鹿あたりの地域のことで、美濃国(岐阜県南部)と国境を接しています。


 

この北伊勢には、多くの武家が存在しており、総称として「北勢四十八家(ほくせい しじゅうはっけ)」という呼び方があります。
48家の武家という意味ではなく、だいたい40から60くらいの数の武装勢力がいたということです。

その中でも、鈴鹿郡(マップの四日市の少し左〔南〕方域)の神戸具盛(かんべ とももり)は有力な武家でした。

古くは、神戸氏はお隣の伊勢中南部の有力武家である「北畠(きたばたけ)氏」の親戚筋でした。
その後、やはりお隣の近江南部(マップの東近江周辺)の六角氏に攻められ、六角氏の家臣となります。

織田信長の時期は、7代目当主 神戸具盛で、彼の正室は、六角氏の家臣の蒲生(がもう)氏の娘です。
前回コラムで書きましたが、この蒲生氏は藤原系の武家で、六角氏に客将として招かれていた武家です。
具盛の義父は蒲生氏なのです。
後でまた書きます。

神戸氏は、六角氏のチカラを背景に、北伊勢で勢力を拡大させてきました。
その北伊勢内の武家どうしの抗争については割愛します。

* * *

信長上洛の前年の1567年2月、信長はすでに美濃国を手中にしつつあり、この北伊勢にも侵攻を少しずつ開始します。
ですから、上洛とは関係なく、この軍事行動は開始されていました。

1567年8月に、美濃国の岐阜の稲葉山城(岐阜城)が陥落し、美濃国は信長のものとなります。
それにより、織田の大軍勢が北伊勢に差し向けられ、北伊勢の小さな武家たちはみな信長の配下になっていきます。

神戸氏は抵抗し、織田配下になった「西美濃三人衆」を裏切らせようと謀ったり、さまざまデマを流し織田軍を動揺させ、織田軍はいったん撤退します。
織田軍は結構な規模の損害を受けます。

1568年2月になって、信長は、戦略や部隊を整え直し、再び北伊勢に侵攻します。
今度は、前述の北勢四十八家の城を次々に落とし、ついに神戸氏も信長の軍門にくだります。

この時に、信長の家臣として活躍したのが「滝川一益(たきがわ かずます)」です。

* * *

この滝川一益の配下に明智光秀がおり、光秀の知り合いの「勝恵(しょうえ)」という人物が、一益とともに敵との交渉を行ったといわれています。
明智光秀が正式な家臣であったとは思えませんので、いわゆる客将のような、お手伝い武士だったのかもしれません。
あるいは「お試し期間」…?
この北伊勢の戦場に、光秀が張りついていたかは疑問です。
よくわかりません。

ただ、後の信長の作戦の中で、一益と光秀が組むことも多く、この伊勢の頃からのつきあいだったのかもしれません。
後で書きますが、共通の話題も多そうです。

* * *

さて、神戸(かんべ)氏は、当初は織田軍に抵抗しましたが、途中で戦うことを止め、信長の三男である織田信孝を養子(娘婿)とし、和睦の道を選びます。
織田信孝は、神戸信孝となりました。
北伊勢のもうひとりの雄、長野氏も信長にくだります。
このあたりの詳細は割愛します。

信長は、この1568年春から初夏にかけて、北伊勢の主要な勢力を支配下におき、その後、1568年7月に、足利義昭と信長の岐阜での面会が実現します。

ようするに、信長が北伊勢を一定程度制圧したことで、信長が近江侵攻(上洛)を開始するにあたり、近江南部の六角氏と甲賀勢が、北伊勢の勢力と連携して、その上洛ルートの南側から、信長の近江侵攻(上洛)を阻止することが非常に難しくなったということです。

* * *

この後、信長は、甲賀勢も手なづけ、近江南部の六角氏と分断させますので、近江南部の六角氏、甲賀勢、北伊勢の勢力という、上洛ルートの東から西に連なる三勢力を見事に分断させることになります。

信長は、畿内に入る前に大きな戦闘を行って、戦力ダウンさせたのでは、安心して京になど入れません。

1568年9月、信長は上洛のため、義昭よりも先に岐阜を出発します。
先に進軍して、六角氏をおさえこんでから、義昭と合流する予定です。

* * *

北伊勢侵攻と制圧は、信長の近江侵攻と上洛作戦には、欠かせない軍事行動でした。

ただ、その南の伊勢の勢力は、まだ手つかずです。
それに北伊勢の信長抵抗勢力は、まだ完全制圧されたわけではありません。

ひとまず、北伊勢の織田軍や、対岸の三河勢の家康が、北伊勢の抵抗勢力が尾張国や美濃国に侵攻するのを防いでいます。
でも、信長は、「用が済んだら、でぇらあ、すぐに戻って来なかんて…」ですね。
伊勢の混迷のお話しは、またあらためて…。

それにしても、名古屋弁の信長をなかなかイメージできないのは、私だけ…?
ドラマの影響…。

ここで、信長の重要家臣となる、この滝川一益のことを、少し書いておきます。


◇織田四天王と方面軍

この一連の北伊勢侵攻で大活躍した、武将の滝川一益(たきがわ かずます)でしたね。

後に、「織田四天王(柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀)」のひとりになる人物です。

織田軍団の組織のお話しは、またあらためて書きますが、織田軍団には、その後、「○○方面軍」という「師団」のようなスタイルが形成されます。
織田軍の軍事行動では、この方面軍のほうが重要ですね。
「織田四天王」と「方面軍の司令官」は、少し意味合いが違います。

* * *

実は、この織田氏の方面軍は、同時に各地で軍事行動を行います。

信長の勢力範囲の拡大にともなう「方面軍戦略」が始まると、さすがの信長も、目の届かない部分が多くなり、各方面で苦戦を強いられることが多くなってきます。
それまで、あれだけ綿密な準備をし、細かな計画をたて、事前の陰謀暗躍を行ってきたのに、それができなくなってきます。
敵将たちの把握どころか、自軍の家臣たちの状況も完全につかみにくくなっていきます。

それに、各地の司令官では、信長の完全な代わりはできません。
できない家臣たちに、信長の怒りはどんどん膨れ上がっていきましたね。

軍事行動が上手く進捗しない場面や、重要な戦や相手には、信長自身が重要なタイミングで戦場に向かいます。
信長が行くと、格段に強力な戦いに変わります。

この頃は、徳川家康もまだまだ未熟で、信長が手とり足とり陰謀や戦い方の指導をしてあげないと、到底 強敵の武田軍団には勝てません。
まるで信長は、家康の指導教員のようです。

* * *

さて、後の方面軍とは、
・北陸方面軍の司令官が柴田勝家。
・中国方面軍の司令官が羽柴秀吉。
・四国方面軍の司令官が織田信孝(信長三男 / 丹羽長秀が補佐)。
・関東方面(管領)軍の司令官が滝川一益。
・畿内方面軍の司令官が明智光秀です。

それまで「大坂方面軍」の司令官は佐久間信盛で、関東への侵攻でも彼を司令官にしていましたが、あることをきっかけに彼は左遷され失脚します。
信長は、信盛に替わり、畿内全域の「畿内方面軍」の司令官として明智光秀をつけます。

この時、明智光秀は、四国の有力武将の長宗我部(ちょうそかべ)氏と信長の間で、四国支配の陰謀を進めていましたが、毛利氏との絡みで戦略変更となり、信長の四国作戦の方向性が変わります。
個人的には、こんな理由が「本能寺の変」の要因になるとは思えません。
毛利氏は強大な敵で、陰謀も巧みです。
こんなことは、よくあることです。

話しを戻すと、この佐久間氏の失脚で、関東方面軍の司令官に滝川一益がつきます。

ここで、光秀に畿内方面軍の指揮を任せてしまうという、この人事異動が、実は信長の運のつき…。
大河ドラマ「麒麟がくる」で、この人事異動の内容が描かれるのかどうかわかりませんが、この機会に少しだけご紹介します。


◇指示者の運命を変えた「人事異動」

畿内の佐久間氏の「大坂方面軍」は、畿内の本願寺対策、京都防衛などの対策のために置かれていた、織田軍の最重要の強力な部隊でした。
佐久間信盛が失脚するのが1580年8月です。

この佐久間氏失脚には、陰謀説があり、その首謀者が明智光秀ともいわれていますが、よくわかりません。
後世の創作かもしれませんし、光秀の出世欲や野望があったのかもしれません。
個人的には、彼だけでは、この陰謀は無理だと感じます。
また、あらためて書きます。

個人的には、このあたりの陰謀の解明が、「本能寺の変」の謎解きのキーになる気もしています。

* * *

とはいえ、佐久間氏は、織田家の中でも、古くから信長を支えてくれた、ほんのわずかの少数派だった大切な家臣です。
いってみれば、柴田も、丹羽も、林も、信長を敵視していた連中です。
明智、滝川、秀吉は、野心いっぱいの中途採用組です。
家康は信長の家臣同然でも、家康自身は内心そうは思っていません。

佐久間という武家は、さらに古い時代は、関東からやってきた武士ですが、それでも、信長のほとんどの激戦で彼を支えてきた武将です。
その貢献度ははかりしれません。

いくらなんでも、信長様…、佐久間を追放するとは…。
万が一、かつての敵視組や、中途採用組が手を組んでむかってきたら、信長様でも、ひとたまりもないですよ…。
そろそろ、家臣たちを信用してやってよ…。

* * *

「本能寺の変」は、佐久間失脚後の2年後の1582年に起きます。

奴ら(?)は、この人事異動の機会を逃しませんでした…?
この新司令官を使おう…?
でも信長に武田氏、上杉氏、毛利氏を滅ぼしてもらってからだ。

そして、その時、すべての方面軍は各方面に出陣しており、京のある畿内には、この光秀の畿内方面軍しかいませんでした。
名だたる家臣たちは、みな全国各地に派遣されています。

そして、誰かが信長親子を京に呼び寄せます…。
たいていの戦国武将の親子は、別々の場所にいるはずなのに…。
戦国時代、恐~!

* * *

各方面軍のトップ司令官の下には、有名武将たちが大勢ついています。
この武将たちの割り振りが、信長死後の各武将たちの運命を左右しましたね。


◇滝川一益

一益は、甲賀の出身という説もありますが、実は、その出自や素性がはっきりしません。
一応、滝川姓ではありますが、父親もわかっていません。
一族内の何か複雑な事情の中で生まれ、その苦労の中で育てられたのか、拾われたのか、よくわかりません。
いずれにしても、一益は、まさに実力で、はい上がってきた人物です。

そして、甲賀の支配下にあった隣国の北伊勢や伊勢国の事情に明るい武士でした。
伊勢を中心に、流浪の青年期を送っていたのかもしれません。
ただ、かなりの学識はあったように思いますので、どこかで学んだ可能性もあります。

* * *

信長の親友の池田恒興が、この一益を紹介したことから信長の家臣になったともいわれています。
この池田恒興の祖父は、滝川貞勝で、この貞勝は天皇家の流れを組む武家ともいわれています。
一益には学識があり、武勇があり、将来有望だという評価が、滝川一族周囲の中にあったのかもしれません。

実は、滝川一益は、この滝川貞勝の孫だという説もあります。
もしそうなら、出自や幼少期が不明とはならないはずです。
信長の少年期と同じように、相当な悪童だったという説もあります。

一益本人でさえ残したくない、何か複雑なお家の事情があったのかもしれませんね。

* * *

一益は、「桶狭間の戦い」も経験し、織田信長と徳川家康の「清洲同盟」でも働いたといわれています。
どうも、交渉上手、説得上手、説明上手という側面が伺えます。
さまざまな理論や科学技術を、しっかり理解できる能力を持っていることから、言葉を上手に使う術(すべ)も備えていたのかもしれません。
射撃の腕がたいへんなものであったという伝説からも、その器用さと、精神力の強さも伺えます。

後に、伊勢志摩の大水軍を率いる九鬼氏の九鬼嘉隆(くき よしたか)と信長を結び付けるのは一益です。
相当にたいへんな交渉だと想像します。
一益は、九鬼氏とともに織田水軍を統率する役目も担い、あの毛利水軍を叩きつぶす「鉄甲戦」の開発にも関わります。


◇信長の鉄甲船

ちなみに、この信長の「鉄甲船(てっこうせん)」の建造は丹羽長秀の担当のようでしたが、おそらく資金・人足集めや建造が長秀で、技術開発や武器搭載、船の運用戦術に関しては、一益と九鬼氏が行ったのではと感じます。
鉄甲戦は、上部が総鉄板張りで、大砲を何門も搭載した大型軍艦です。

この大型最強軍艦を建造する計画は、織田軍が毛利氏の大水軍に大敗したことがきっかけでした。

船のサイズは諸説あり、全長20数メートルあたりのものから、55メートルぐらいのものまであったともいわれています。
琵琶湖の佐和山近くで造られた巨大鉄甲船は、55メートル級のようですので、琵琶湖から海へ運ぶには不可能ですから、安土城防衛のための琵琶湖使用専用の鉄甲船だったかもしれません。
ちなみに、航空機「ボーイング787ドリームライナー」の全長が約57メートルです。
今現代の自衛隊のミサイル護衛艦(イージス艦)の全長が140~170メートルくらいだと思います。

戦国時代に、総鉄板張りの大砲搭載の大型軍艦を造り、海戦術をあみ出すとは大したものです。
見物客が大勢押し寄せ、来日外国人がたいへん驚いたと残っていますから、当時の社会には衝撃的な兵器だったとも考えられます。


◇本当に怖いのは…

一益は、鉄砲関連技術に明るく、その射撃の腕も相当なものだったと、記録に残っています。

織田軍が武田軍に大勝する「長篠の戦い」では、織田軍の鉄砲隊が大きな役割を果たしますが、この鉄砲隊を指揮したのも、この一益です。
武田滅亡となる「甲州征伐」でも、実質的にその指揮をとるのは一益です。
武田氏を滅ぼす戦いにおいての、一益の存在は第一のように感じますね。

こう振り返ると、一益は、器用に立ち振るまう交渉術を持ちながら、鉄砲などの新兵器や、さまざまな新技術に精通し、それを戦いで使いこなす頭脳を相当に備えていたのかもしれません。
幼少期から戦術にも精通し、教養や知識の習得にも余念がない姿を想像します。

* * *

秀吉は、勇猛ではあるが戦術や組織運営、交渉術に弱点を持つ柴田勝家よりも、この滝川一益を恐れていたのかもしれませんね。
滝川家は、秀吉からはもちろんですが、後の家康にも、わりと冷遇されてしまうのは、その潜在能力の高さにあったのかもしれません。
一益は、チカラを持たせたら非常に怖い存在ですね。


◇滝川一益を清須会議に来させるな

滝川一益は、「本能寺の変」、「山崎の戦い」、「清須会議」のどれにも参加していません。
「関東方面軍」として関東の地にいたためです。

信長死後の跡目体制決定会議である「清須会議(きよすかいぎ)」は、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の4人で行われましたね。

一益は、関東の遠い地にいたということもありましたが、織田軍での貢献度と地位からいったら、この会議に参加しないはずはないと思います。
この会議に参加できなかったことが、その後、彼の影が薄くなるひとつの要因かもしれません。

清須会議は、信長・信忠親子の死後の後継者決定会議のように誤解されがちですが、実はそうではなく、三法師(さんぼうし / 信長の孫であり、ひょっとしたら武田信玄の孫?)をどういう体制で支えるのかを決める会議でした。
そこに、信忠(信長の長男)の弟たちである織田信雄(次男)と、織田信孝(三男)が関わっていました。

* * *

大した武功はないが、要領の良い、次男の織田信雄(のぶかつ)。
武功を多く持ち、潔く勇猛な、三男の織田信孝(のぶたか)。
長男の信忠は、両方を持っていたともいわれています。

信忠の長男の三法師を支える体制として、この信雄と信孝を後見人にし、それをこの4人が支えます。
もちろん、信長の仇討ちを実際に行った秀吉が、事実上のトップの地位となります。
秀吉は、幼年の三法師を早くから手なづけていました。
そしてさらに、この4人の重要家臣を、徳川家康や堀秀政が支えます。

一益はどこいった…。

織田軍には池田恒興(いけだ つねおき)という、信長の親友で有力家臣がいましたが、この恒興と丹羽長秀、それに堀秀政は、清須会議の際に、秀吉と事前に手を組んだ者たちです。
秀吉は最初から、一益が清須会議に参加できないように画策したのかもしれません。

一益は、秀吉ではなく柴田勝家寄りの人物です。
秀吉は、交渉下手の柴田勝家のかたわらに、交渉上手で武功実績抜群の滝川一益にいられたら、非常にやっかいだと感じたかもしれませんね。

* * *

あくまで個人的な印象ですが、秀吉からしたら、ここまでで、信長、光秀がいなくなり、滝川一益は地位が低下しました。
佐久間信盛はすでに失脚しています。
丹羽長秀、池田恒興らは手なづけました。
後は、柴田勝家と徳川家康ですね。

もし、一益が勝家と組んで自身(秀吉)に挑んできたとしても、武家の格からいって、柴田勝家が上位になるはずです。
勝家の家臣使いや戦術の甘さを、秀吉は見抜いていたでしょうから、勝家が一益を使いこなせるはずはないと考えていたかもしれません。
この二人の間に、クサビを打ち込むことも考えていたでしょう。

秀吉は、織田信雄、織田信孝、三法師(信忠の息子)の将来については、すでに考えがあったはずです。
武力という意味では、彼らは秀吉の敵ではありません。
秀吉にとって、後は、織田の血を引く「浅井三姉妹」です。


◇…も、…も、滝川

織田軍の4人の重要家臣については、次のような言葉が残っています。
「かかれ柴田に、退き佐久間。米五郎左に、木綿藤吉」という言葉(唄?)です。

意味は、「戦闘で真っ先に突っ込む命知らずの勇猛さで皆をふるい立たせる柴田勝家、軍の撤退戦が上手く 逃げ足上手の死なない人物、軍の撤退には欠かせない責任感の強い佐久間信盛、器用で柔軟で 生きていくのに無くてはならない米のような存在の丹羽長秀、丈夫で使いかっての良い木綿の布のような存在の木下藤吉郎(羽柴秀吉)」です。

この滝川一益には、どのような言葉が残っているでしょうか…。

* * *

織田軍が彼を称して、「進むも滝川、退(ひ)くも滝川」という言葉が残っています。
おそらくこれは、戦場の姿勢だけではなく、交渉や生き方の「かけ引き」が相当に上手く、状況判断に優れ、適切な決断ができる、そんな柔軟性と強引さをあわせ持った人物像を想像させます。

今の言葉でさらに加えれば、「かけ引き上手で、状況判断に優れ、頭がよくて行動力もある。決断を誤ることも少なく、先を見通すチカラもある。ただ実績をたくさん残し、貢献度抜群だけれども、なにか器用貧乏…、ちょっと派手さに欠ける。でも、敵に回すとやっかいだ。」…そんな人物だったのかもしれません。

高度な知恵を持ち、そつなく、さまざまな働きをこなすのに、ホームランはあまり打たない…。
若い頃は首位打者を連続で獲得、でも後半は打率が急降下…。

信長が、大軍団の精神的な柱で、戦略の宝庫のような存在であるのに対し、一益は偉大な主君の支えのような人物にも見えてきます。
誰かに仕えてこそ輝く…そんな武将だったのかもしれません。

「進むも滝川、退くも滝川」の言葉には、「かかれ柴田に、退き佐久間。米五郎左に、木綿藤吉」よりもはるかに高く厚い、信長の評価と待遇の意味が込められている気もします。


◇はい上がり組

丹羽長秀も、柔軟さと器用さで戦国時代を生き残っていった武将だと感じますが、丹羽長秀の丹羽氏は、織田氏や朝倉氏と同じで、かつての斯波氏の家臣です。
「桶狭間の戦い」のあたりに織田氏の家臣となりました。
多分に、様子見姿勢だったはずです。

* * *

信長は、家臣によって、その接し方を巧みに変える軍団トップでしたので、各家臣の長所や短所、突きどころをかなり掴んでいたはずです。
「お坊ちゃま育ち」「底辺からのはい上がり」「野心いっぱい」「勤勉実直」「女好き・金好き・ギャンブル好き」「体育会系」…、信長は結構「何でもこい」というトップだったかもしれません。
でも彼は、後半、それもかなり面倒になってしまいますね。

* * *

いずれにしても、滝川一益は、信長好みの「実力はい上がり組」であったのだろうと思います。
名門武家の滝川姓を名乗ってはいても、実は、素性の知れない身の上だと、信長は知っていたか、思っていたかもしれませんね。
百姓の秀吉ほどではないにせよ、苦労の末の、底辺からのはい上がり成功者だと、信長はとらえていたのかもしれません。
それに、信長自身のかつての悪童ぶりからの大逆転人生も似ています。

光秀も、苦労組ですが、名門源氏武家出身ですから、同じ苦労組でもまったく違います。
歴史という意味あいでは、柴田氏も、丹羽氏も、明智氏も、織田氏よりもはるかに名門の格上ですね。

信長の気持ちの中で、軍団のトップ司令官クラスまではい上がってきた、一益と秀吉だけは、他の武士たちとは、まったく違ったのかもしれません。

天下人になった「三英傑(信長・秀吉・家康)」は、歴史的にみると、みな先祖は、それほどの名門ではなかったですね。
三人とも、はい上がってくる家臣を恐れてはいましたが、好きでしたね。


◇人生後半のつまづき

滝川一益が、鉄砲技術に明るかったと書きましたが、明智光秀もそうでしたね。
この北伊勢侵攻の頃から、二人で、鉄砲開発や新兵器、鉄砲を使った新戦略について談義を交わしていたかもしれませんね。
その後、二人が連携した作戦や交渉もありました。

先を見通せる一益ではありましたが、「本能寺の変の計画」を知らなかった武将のひとりだったのかもしれません。

* * *

個人的な思いですが、光秀は、この一益こそ、「本能寺の変」前後の一連の流れの中で、手を組む、あるいは相談する武将ではなかったかと感じます。
光秀の方向性の誤りを、一益なら修正できたかもしれませんね。

「光秀殿、決行を少し待て…、もう少し全体の陰謀を探ってから考えろ…。単独行動は危険だ。誰かに上手く使われてはいないか…」。
「不利な山崎の地で、絶対に秀吉と戦ってはいけない…、死ぬ気か…。この場所からでは退却できない。水軍と鉄砲隊を存分に活かせ!」。

武田騎馬軍団と毛利水軍を崩壊させた一益なら、そう助言したかもしれませんね。

* * *

個人的には、一益が主人公で、一益目線の戦国時代の大河ドラマがあってもいい気がしていますが…。
ただ、人生の前半に、伊勢を制圧、水軍や鉄砲隊を指揮、武田氏を破るなどの大活躍を見せたこともあり、佐久間信盛にかわり、関東方面軍の司令官になってからは、今度は敵があの強敵の上杉軍ですから苦戦続きとなり、清須会議をきっかけに織田軍での地位が凋落します。

人生後半は、柴田勝家についてしまったのが運のつき…その後、秀吉、家康、織田信雄などに翻弄され、晩年は失明までしてしまいます。
その最期も実ははっきりしていません。

ですが、晩年の頃の数年、彼の先見性や交渉術は、まだまだ衰えていなかったようにも感じます。
秀吉の「小田原征伐」の戦術も見通していましたね。

光秀の最期に似た、悲劇的な死亡説もあります。
最期の状況がわかっていませんので、やはり、大河の主人公には難しいかもしれません。

これから、大河ドラマ「麒麟がくる」に、一益が登場してくるのかどうか わかりませんが、光秀と並ぶ「織田四天王」だった優れた武将です。
二人の鉄砲談義のシーンが、大河ドラマにあるのかどうか…?
「長篠設楽ヶ原で、どうやって武田騎馬軍団に向けて鉄砲を使ったらいい…」。


◇神戸氏の交渉

さて、一益の話しから、「北伊勢侵攻」の話しに戻ります。

信長の、この北伊勢侵攻と制圧は、信長の近江侵攻と上洛作戦には、欠かせない軍事行動でしたね。

先ほど、信長は、甲賀勢も手なづけ、近江南部の六角氏、甲賀勢、北伊勢の勢力という、上洛ルート上の東から西に連なる三勢力を見事に分断させたと書きました。

信長は、今回の上洛作戦で、神戸具盛(かんべ とももり)を上洛軍に同行させましたが、六角氏との交渉に使ったのかもしれません。
信長の上手さは、自軍の家臣だけではなく、外部の武将も上手に使ったりするところにありますね。
「桶狭間の戦い」でもそうでした。

* * *

近江南部の六角氏の家臣に「蒲生(がもう)氏」という武家があります。
神戸具盛の正室は、蒲生定秀の娘です。
具盛の義父が蒲生定秀です。

以前のコラムで、蒲生氏は藤原系の武家で、近江南部の六角氏への客将として扱われていた武家ですと紹介しました。
後の蒲生氏郷を生む武家です。
蒲生氏郷は、後に信長の娘の婿となる人物で、豊臣政権でも活躍します。
この氏郷は、前述の蒲生定秀の孫です。

* * *

蒲生氏は、京の公家と六角氏をつなぐ役割を果たしていたかもしれません。

神戸具盛は、この蒲生氏を、上洛作戦のある段階で、六角側から織田側に寝返らせることに成功します。
もちろん神戸氏にそれをさせたのは、信長です。

「蒲生殿、曲がりなりにも私(神戸具盛)は、信長の息子の義理の父親です。
神戸家は、その息子が継ぐ予定です。
私がついていますので、信長が蒲生殿をワナにはめるようなことはさせません。
ここはひとつ、六角氏を離れ、織田方についてくれれば、蒲生家は安泰、末も展望が開けます。
六角重臣筆頭のあなた様が離れれば、大規模な戦いも防げます。
六角氏についていては、未来はありません。
このままでは、織田氏との大規模戦争となり、皆さま滅ぼされます。
神戸家と同様に、織田方についてください。
生き残ってこそ未来があります。
父上(義父)、私(具盛)を信じてください」。

ひょっとしたら、神戸具盛は、義理の父にあたる蒲生定秀に、このようなことを言ったかもしれませんね。

信長は、こうした心理的な交渉を、家臣たちに、時折させる武将でしたね。
信長の戦い方では、敵将たちの心の誘導や動揺も重要視されていました。
さらに、信長は、この交渉の圧力として、京の藤原系の公家たちも使ったかもしれません。

信長の作戦というのは、二重に三重に、さらに重ねて組み上げられていることが多いですね。

神戸氏は、六角氏と敵対しているとはいえ、古い時代には、六角氏の家臣でもありました。
ひょっとしたら神戸氏は、六角義賢(ろっかくよしかた)・義治(よしはる)親子にも、蒲生氏を通じて、何らかの交渉を行ったかもしれませんね。

* * *

神戸氏は、北伊勢の有力武将でありながら、抵抗の末、生き残りのため、一応名誉ある和睦を、信長と行った武将です。
神戸氏は、信長の代理として、自身の思想や経験もまじえながら、同じような立場の六角氏と何らかの交渉を行ったとも思われます。
六角氏は、それには応じませんでした(結果的に応じたのかも?)が、この蒲生氏の織田方への寝返りは、相当に六角軍全体に効いたと思います。

実は、六角氏は六角氏で、一族内部で問題だらけでした。
朝倉家、浅井家、織田家、神戸家…、そこらじゅうで内部抗争がありましたね。
次回コラムで書きます。
今現代の、あの家具屋さんの親子対決にも似ていますね。

それは、時代は戦国時代です。
一族の者たちは、精神的にもピリピリしているでしょう。
絶対に生き残り…、名誉ある死…、名誉ある和睦…、未来を託した敗北…、武家の選択肢はさまざまです。
その武家内部でも考え方はさまざまですね。

* * *

信長は、北伊勢侵攻で手に入れた神戸具盛という人物をフル活用し、六角氏内部の分裂工作を謀ったと思います。

これが、六角氏内の精神的な武力分裂工作だとしたら、実際の戦闘力としての武力分裂工作も行ったと思われます。


◇六角氏と甲賀の切り離し

さて、前回コラムで、和田惟政(わだ これまさ)という甲賀出身の武士のことを書きました。

六角氏の家臣から出世し、足利将軍家の幕臣にまで駆け上がった人物で、義昭の信頼の厚い武将です。
今回の上洛作戦でも、織田方として大きな役割を果たしています。
前回コラムまでで、その内容は書きました。

前回コラムで、信長は、自身の同盟者の家康と伊賀者のチカラを使って、甲賀に圧力をかけ、この和田惟政が、甲賀の武士勢力を取りまとめ、上洛作戦では、信長方に味方するようにしましたね。

* * *

甲賀という地域は、近江南部の六角氏が危機に陥ると、いつも逃げ込む地で、甲賀勢の武力と忍びの能力は相当なものです。
この甲賀のチカラを、信長はコントロール下に置いたのです。

先ほど、滝川一益のことを書きましたが、彼も甲賀出身で、何らかの「甲賀つながり」を持っています。

北伊勢が信長のコントロール下になり、神戸氏が織田方につき、甲賀の和田惟政も織田方につき、近江国の滝川家につながる滝川一益でさえ、信長の家臣になっています。
完全に、甲賀が信長に抵抗できない状況となりました。
六角氏が甲賀勢と共同戦線をはれる状況ではなくなりました。

六角氏だけで、織田軍と戦えるほどのチカラが残っているのでしょうか…?
六角氏からしたら、「マジか、甲賀(コウカ)…この状況」ですね。

戦わずして勝てそうな信長に見えてきますね。
まさに、戦国時代の「戦わずして勝つ」戦術ですね。


◇益々…

今回のコラムは、滝川一益のことを少し長く書いてしまいましたので、このあたりで終わりにします。

ちなみに、この「益(ます)」の漢字の意味は、「儲け、得、利益、役に立つ」という意味です。
信長が「一益」を得たことは、最大の「儲けもの」だったのかも…。

ここまで、信長の北伊勢侵攻・上洛作戦は、彼の思惑どおりに進んでいる気がします。
信長にとっては、新しい家臣も、同盟者も増えていくし、ますます「益」ばかり…。

「有頂天(うちょうてん)」という天は、意外と近いのか…。
近江国だけに…。

信長が、そんなジョークをかましたかどうかは知りませんが、本当は、そんなに甘くはない近江国です。

次回は、六角氏内部の大騒動と、織田の上洛軍と六角氏の戦いのことを書きます。

* * *

一(一益)か、六(六角)か…。
神(神戸)さん、どうすんの…。
やんやん…、三重県の四日市・鈴鹿だけに、「三」か「四」やに!

* * *


コラム「麒麟(44)桑の実 拾た(京への道1)」につづく。

 

 

2020.10.29 天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

 

 

ケロケロネット