越後の龍・上杉謙信。毘沙門天の化身。龍剣を持つ不動明王。金満国家と直江兼続。謙信と信玄のファッション対決。上杉四天王と上杉二十五将。川中島の戦い。

 

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塩の道は人の道(1)神の化身

 

◇「塩の道は人の道」シリーズ スタート

現在、「映像&史跡 fun」では、大河ドラマ「麒麟がくる」の内容にあわせて、「麒麟シリーズ」を書いていますが、先般、そのシリーズの中で、織田信長と今川義元による「桶狭間の戦い」の内容に特化して、そのシリーズの中で「桶狭間は人間の狭間」と題し、17回にわたり連載しました。

たまたま、大河ドラマが、新型コロナの影響で放送中断になっていましたので、その間に、「桶狭間の戦い」と、その裏にあった陰謀、織田信長と今川義元の人物像の違いを、少し入念に書いてみたものでした。

「桶狭間の戦い」というひとつの戦いを、さまざまな切りクチで、私の想像も含めて書きましたが、読者の方々から、同じような書き方で、上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」や、徳川家康の「関ヶ原の戦い」のことも、少し詳しく書いてほしいというリクエストを多く頂戴しました。
実は、他にも、いろいろなマニアックな戦いの陰謀物語を紹介してほしいというリクエストも頂戴しています。
現代社会の中の陰謀と照らして書いてほしいというリクエストもありました。

現代のビジネス社会でも、戦国時代の陰謀を参考に、ビジネス戦略を考える人も確かに多くいますね。
多くの方が、陰謀に興味をお持ちなのかもしれません。

* * *

敵の陰謀の仕方を知っていると、実は、陰謀に巻き込まれにくくなるのかもしれません…?
「私に限って騙されない」と強く思っている人ほど、「オレオレ詐欺」に騙されると、テレビニュースでしきりに言っています。
「私程度の普通の人間が、プロの詐欺師に騙されないはずはない」と思っている人ほど、まず騙されることなく、用心しているとも聞きました。

現代の今、私たちの周囲にも、多くの陰謀が隠されており、実際に暗躍していますね。
派手な戦いもあれば、陰湿な影の戦いもあります。

昔から、戦いは、そこから逃げる時が非常に危険といわれます。
また、勝利が決まる直前におこる勝利を確信する瞬間が、最も危険だともいわれます。

戦国時代の武将どうしの戦を見れば、その通りだということがはっきりわかります。
心配性で、用意周到、逃げ道をしっかり確保していた武将ほど、戦国時代を勝ち上がったのは事実です。
彼らは、見当違いの覚悟もしませんでしたし、一か八かは、まずありません。
コラム「麒麟シリーズ」で書きました、「桶狭間の戦い」がまさにそうでしたね。

人間どうしの戦いの勝敗を決するものは、人間の心理の中に隠されていると言ってもいいのかもしれませんね。
それは武器や兵数で決まるものではないことを、戦国時代は教えてくれている気がします。

* * *

これまで、「映像&史跡 fun」では、「旅番組シリーズ」の中で、前述の二つの戦い(川中島の戦い、関ヶ原の戦い)のことを、簡単にご紹介しましたが、リクエストにお応えして、もう少し詳しく、今回も私の想像も加えながら、今度は歴史と陰謀暗躍の視点で書いてみたいと思います。

歴史ファンの方々は別として、この二つの戦いは、歴史にほぼ興味のない一般の方々には、教科書程度の情報だけで、ほとんどの内容は理解されていません。
実は、大昔の歴史の史料でも、いちいち、戦いの意味や意義が明確に書かれていることはありません。

戦いの内容や解釈についても、諸説あるのが実状です。
この二つの戦いの中から、何を学ぼうとするかの姿勢によっても、その解釈は異なるものとも感じます。

日本の中に、「川中島」と「関ヶ原」という、戦国時代の特別な決戦場があったことだけは確かです。
皆さまにも、この二つの決戦場から、何かを感じていただきたいと思っております。

* * *

上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」については、題して「塩の道は人の道 シリーズ」としたいと思います。
徳川家康と石田三成の「関ヶ原の戦い」については、題して「天下分け目 シリーズ(仮題)」としたいと思っています。
「関ケ原の戦い」と「大坂の陣」は、ある意味セットになっている家康の戦略ではありますが、一応、切り離して扱います。

今現在、「よどみシリーズ(江戸時代の陰謀と河川治水)」と「みゆきの道シリーズ(幕末から明治維新へ)」を中断していますので、「麒麟シリーズ」、「塩の道は人の道シリーズ」、「天下分け目シリーズ(仮題)」の戦国シリーズ三本立てで、侵攻(進行)したいと思います。
合い間に、それ以外のものも入れていきます。

* * *

これらの戦国ものシリーズは、戦争を扱う内容ではありますが、それは戦争を賛美するものでは決してありません。
武士や兵士を、意味もなく、嫌厭(けんえん)するものでもありません。
戦いは人間の性(さが)でもあり、そこにはさまざまな要因や原因があります。
現代の一般社会でも、ビジネスでも、スポーツでも、槍や刀を持たない、人間どうしの戦いや競争はたくさんあります。

今現在の世界をみても、貧困や格差が「戦い」を生むことは、皆さまもご存じのとおりです。

この戦国ものシリーズの中では、人はなぜ戦うのか…、人はどうやって戦うのか…、どうやって戦いを準備するのか…、どうやって陰謀(良い陰謀・悪い陰謀)を張り巡らすのか…、どうしたら最善の結果を得られるのか…、どうしたら敗者にならずに済むのか…、どうしたら生き延びられるのか…、どうしたら戦いを回避できるのか…、どうしたら戦いを起こさない環境をつくれるのか…、そうしたことなどを考察していきたいと思います。
戦国武将たちが、身に迫る危機の中で、必死に考え続けていたことです。

人間は、昔も今も、「勝利」や「生存」という目標を持った瞬間に、その方向に頭脳がフル回転し始めます。
きっと、現代人の参考になる内容が、たくさん詰まっていることと思います。

何かの犠牲にならないためには、まずは、その対象を知ることから始めないといけませんね。
戦国時代の武将や、彼らの戦いとは、いったい何だったのでしょう…。

* * *

このシリーズの連載回数は未定です。
前述の「桶狭間の戦い」の17回よりも、長くなるのかどうか…?
何しろ、「川中島の戦い」は第五次までありますし、その前後の戦闘も絡んでいます。
戦いの戦況だけに限らず、登場人物たちの人物像など、付随した内容もたくさん盛り込んでいくつもりでいます。

それにともなって、旅番組と歴史に特化した「旅番組シリーズ」は終了(削除)し、それを別の歴史中心のシリーズに展開していきたいと思います。
今後とも、各シリーズをよろしくお願いいたします。


◇「麒麟(きりん)」に関連して…

「川中島の戦い」は、大河ドラマ「麒麟がくる」の内容とほぼ同時代のお話しですので、つながる部分も多くあります。

当然ではありますが、上杉謙信と武田信玄は、織田信長や明智光秀とは、まったく違うタイプの武将ですね。
考え方も、生き方も、戦い方もまったく違います。
現代人からみると、彼らの世代間ギャップがどの程度のものか、わかりにくいですが、何かが違うと感じます。

「桶狭間の戦い」、「川中島の戦い」、「関ヶ原の戦い」を見ると、それぞれに登場する武将たちの個性や考え方の違いが、非常によくわかります。
それぞれの武将の強みや戦い方の違いも、よくわかってきます。
これは、軍団の統率の仕方、城づくり、街づくりの考え方にも影響しています。

これらのことは、きっと、現代人の生き方やビジネスの参考になる部分も多くあるような気がします。

武田信玄時代の武田軍は、何となく、今の自民党内の権力構造にも、よく似ている気がしますね。
古来から、こうした一定の競争とバランスを目指したスタイルが、日本における安定しやすいかたちに感じなくもないです。
とはいえ、内部調整はたいへんですね。
トップの権力者の在任期間が、長ければいい…、短ければいい…、と単純に言える話しでもありませんね。
ただ、こうしたバランス構造は、全体システムの一角が崩れはじめたら、一気に崩壊したりもします。

武田信虎(信玄の父)・信玄・勝頼(信玄の息子)の三人は、武田軍のトップをつとめましたが、それぞれの武田軍の様相は大きく異なっていましたね。

* * *

一方、上杉謙信は、まさに突如出現した、一代限りの孤高の英雄、まさに「毘沙門天の化身」のように見えてきます。
彼に引き寄せられ、必死についていき、全力で支えていく…、そんな家臣団にも感じます。
とにかく、彼がトップでいる限り、負ける気がしません。
現代でも、孤高のカリスマ政治家という人物もいますね。

個人的には、上杉軍の組織構造は、武田軍とはかなり異なる印象を受けます。
そのお話しは、おいおい…。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、上杉謙信と武田信玄は、まだ登場してきていませんが、そのうちに登場してくるのだと思います。

「三英傑(さんえいけつ / 信長・秀吉・家康)」に負けず劣らず、この二人の武将は戦国時代の日本に大きな影響を残した武将でしたね。
現代でも、地元の新潟県や山梨県に限らず、この二人を大好きな方々がたくさんいます。

「風林火山」、「毘沙門天」と聞けば、歴史ファンは、すぐにこの二人を思い出すことと思います。
そして、戦国時代の武将どうしの「一騎討ち伝説」のまさに極みが、「第四次・川中島の戦い」ですね。


◇古き清き「一騎討ち」

上杉謙信と武田信玄は、ある意味、武将どうしの一騎討ちをイメージさせる、古来からの戦国武将のイメージの最後の武将にも感じます。
信長と光秀に、一騎討ちのイメージはわきません。
秀吉と家康、家康と三成にも、一騎討ちのイメージがわきません。

巨大な連合軍どうしのぶつかり合いではなく、強力な主力軍どうしの大激突の最後を飾るのが、まさに「川中島の戦い」ではないかと感じます。
大将どうしの一騎討ちは、まさにその象徴ともいえる場面ですね。

* * *

謙信と信玄が去り、信長が急成長して以降、「単独主力軍」が「連合軍」に勝てた戦闘など一度もないと思います。
「戦乱の世」は、最終段階に入ったということなのかもしれません…。
「戦乱の世」は、誰か一人が終わらせるというのは、幻想であったのかもしれません…。

見方を変えれば、日本全体で、巨大な武田軍団のような組織構造が構築されなければ、「戦乱の世」は止まらないということなのかもしれませんね。
そう考えると、豊臣政権は過渡期であったとも感じます。
江戸幕府の形態こそが、その姿のようにも感じます。

さて、いずれにしても、「川中島の戦い」が上杉軍と武田軍という、二大主力軍どうしの大激突であったのは確かです。
謙信と信玄による、大将どうしの一騎討ちが、確かな史実かどうかはわかりませんが、状況から考えると、この二人なら、それが起きていても、まったく不思議はありません。
むしろ、そうであってほしいとも感じます。

* * *

まさに神秘的な強さと行動力を持つカリスマの上杉謙信と、猛者たちの集まる大軍団を見事に統率し、鉄壁の防御力と強大な攻撃力を持つ武田信玄の戦いです。

この二人が、東日本と西日本をつなぐ要所の信濃国(長野県)を挟んで、越後国(新潟県・上杉氏)と甲斐国(山梨県・武田氏)に10年ほどのズレで生まれ、上杉氏は藤原氏の末裔、武田氏は甲斐源氏の末裔、信仰心の厚い上杉謙信、組織力を大切にし現実的な思考の武田信玄…、こんなまったく異なる人物像の二人が激突するのですから、面白くないはずがありませんね。


◇二人の死が、時代を動かす

二人は、雌雄を完全に決することなく、また両者とも、織田信長と直接対決することなく、ほぼ同時期にこの世を去ります。
二人とも、病死です。

1573年、武田信玄は病気が悪化し、織田信長との対決に向けての進軍中に死去します。
これは、「信長包囲網」という全国展開の作戦実行中の出来事でした。

その5年後の1578年、上杉謙信が、本拠地の越後国で突然死(脳卒中?)します。
謙信は、前年に、信長がいない織田軍に大勝しています。

* * *

謙信が死去した1578年以降、信長は、毛利水軍を撃破し、本願寺も一応片付き、家康は完全に支配下、信長の家臣の秀吉が中国地方の東部地域を固め、北陸もおおよそ制覇します。
信長は、1582年には甲斐国の武田家を滅亡させますが、そこから同年の「本能寺の変」に向かって、怒涛の如く時代は猛スピードで進展します。

信玄と謙信のどちらかでも生きていたら、信長のこんなスピード展開はなかったはずです。
ですが、二人がいなかったからこそ、信長も「本能寺の変」で亡くなったのかもしれません。

個人的には、謙信と信玄が、1582年、京の本能寺の信長のもとにやって来て、彼を連れていったような気もしています。
怒った毘沙門天が、そのお使い(召使?同志?)とともに、とうとう信長のもとにやって来た…。


◇世代のズレ

信玄が残した武田家は信長によって滅ぼされ、謙信が残した上杉家は秀吉と家康によって没落します。

徳川家康は、武田信玄に滅亡寸前にまで叩きつぶされましたが、そこから多くを学び、大復活してきましたね。
ここで、家康の人物像が、それまでとは一変します。
家康は、謙信のいない上杉家を滅ぼすところまではできませんでしたが、完全に支配下に置きました。
このお話しは、次回以降のコラムで…。

謙信と信玄の「川中島の戦い」の内容を、信長も家康も、学習しなかったはずはないと思います。
信長も、家康も、この二人より少しだけ後の世代でよかったと思っていたことでしょう。

* * *

戦国時代の最終盤での、武将たちのちょっとした世代のズレこそが、順番を決定づけたと言えるのかもしれませんね。
このズレが、生き方や考え方を左右した可能性もあります。

信長は新時代がつれてきた革命児で、秀吉は天才的な成り上がり、家康は戦国時代を学びつくした集大成…、個人的には、そんなイメージを持っています。

織田信長が、上杉謙信と武田信玄を、どれほど恐れていたかは、皆さまも、よくご存じのとおりです。
二人のどちらかがもう少し長生きしていたら、戦国時代の状況次第では、どちらかが天下の覇者になっていても不思議はありません。
それを可能にさせなかった要因が、確かにあった気もします。

大河ドラマ「麒麟がくる」に登場する明智光秀や織田信長とはまた違う、謙信と信玄の人物像を、この「塩の道は人の道シリーズ」では少し考えていきたいと思います。

今後、上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」を中心に書いていきますが、その戦いの話しの前に、二人の概要のこと、これから大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれるであろう「信長包囲網」のこと、それから、二人に共通する内容の「塩の道」のことを先に書きたいと思っています。


◇「化身」と「甲斐」

上杉謙信は「毘沙門天(びしゃもんてん / 多聞天)の化身」と周囲から呼ばれていました。
「毘沙門天」とは、仏の世界を武力で守る四者の神様のひとりです。
「多聞天(たもんてん)」とも呼ばれます。
謙信は、まさにその毘沙門天の「生まれ変わり」だというのです。

私たちの周囲にも、見ているだけで「○○の生まれ変わり」のように感じる人がいますね…。
謙信は、本当にそのような人物だったのでしょうか…?

* * *

武田信玄は「甲斐国(かいのくに / 山梨県)」出身の武将で、「甲斐の虎」とも呼ばれ、戦国最強といわれる騎馬軍団を率いていました。

「甲斐国」が、どうして「甲斐(かい)」と呼ばれるようになったかは、諸説ありすぎて、よくわかりません。
「甲斐」とは、「やった甲斐があった」、「甲斐性(かいしょう)がある」、「やり甲斐(やりがい)がある」、「生き甲斐(いきがい)」などの「甲斐」と同じ文字です。
武田信玄や「甲州(山梨県)」という地の、偉大な「甲斐(値打ち)」は言うまでもありません。

武田信玄の考える「甲斐」とは、いったい何だったのでしょう…?

今回のコラムシリーズは、「何かの化身」と、「何かの甲斐(値打ち)」を比較し考察することなのかもしれませんね。
何か対照的な物事を考察するような気も少しします。

まずは、上杉謙信と武田信玄の、それぞれの概要を紹介したいと思います。
細かい部分は、おいおい紹介していきます。

今回のコラムは、上杉謙信と越後国(新潟県)の概要です。


◇上杉謙信

上杉謙信の誕生は、室町時代 享禄3年1月21日(西暦1530年2月18日)、越後国(新潟県)の今の上越市です。

上杉家の家臣の長尾(ながお)家の四男に生まれた謙信(長尾景虎)は、幼少期、林泉寺に預けられ、戦争ごっこ、城郭模型づくりが大好きな子供だったそうです。
後に、この模型は、武田勝頼の子 信勝に贈られます。
宿敵の武田家に、この模型(おもちゃ)が贈られるあたりが、両家の関係の面白さですね。

長尾一族の内部抗争の中、主君の上杉氏の命令で、有能な謙信(長尾景虎)は、兄 晴景の養子となり、紆余曲折の後、長尾家の後継者となります。
この頃、謙信は戦の強さを周囲に見せつけます。
上杉憲政は、北条氏康に戦で敗北し、有能な謙信(長尾景虎)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職をゆずります。
これが1561年で、「第四次・川中島の戦い」の年です。

この家督譲渡に、上田長尾家の長尾政景(かつて謙信〔長尾景虎〕の兄の晴景を支持)が反乱を起こしますが、謙信に鎮圧され、政景は謙信の家臣となります。
後の謙信の死後の家督争いの中で、謙信の養子となっていた政景の子の景勝が、やはり謙信の養子の上杉景虎(養父と同名・北条氏康の子)との戦いに勝利し、家督を継ぎます。
この戦いで、上杉憲政ら上杉氏の多くが死亡します。
上杉景虎(北条氏の子)側についた古志長尾家も滅びます。
直江兼続は、勝者の上杉景勝側として活躍しました。

今回は、かなりザクっと簡単に歴史を書きましたが、またあらためて「川中島の戦い」を説明するときに、細かく書きます。

* * *

こうした上杉氏と長尾氏の両氏それぞれの内部抗争は、武田信玄のいる武田氏の激しい内部抗争にも、よく似ています。
謙信も、信玄も、そうした身内の激しい内部抗争を勝ち抜き、後に絶対的なトップに君臨することになります。

謙信は、決して最初からカリスマであったわけではないと思います。
少し異色の若者が、気がついたら、たいへんなカリスマになっていたという印象も受けます。
徐々に、誰が作ったということもなく、カリスマが作られていったような気もします。
おいおい、生き様を書いていきます。

謙信の死没は、安土桃山時代 天正6年3月13日(西暦1578年4月19日)、享年49歳(数え年)です。
「本能寺の変」(1582年)の4年前です。


◇毘沙門天の化身

謙信の別名には、虎千代、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、宗心などがあります。
関連の呼び名では、「最後の関東管領」、「越後国の守護」、「軍神」、「聖将」、「越後の龍」、「毘沙門天の化身」などがあります。

* * *

「毘沙門天(びしゃもんてん / 四天王の中の多聞天〔たもんてん〕)とは、甲冑に武器の姿で、邪鬼を踏みつけている武神像で知られており、勝負の神様ともいわれます。

冒頭写真の左側の毘沙門天像は、奈良の東大寺大仏殿の毘沙門天像ですが、右手に「宝塔」を捧げ持ち、左手に「宝棒」という武器を手にしています。
大仏様の左奥におられます。
「宝塔」の説明は割愛しますが、仏教において、その建物は最重要のひとつです。
「多聞天」と呼ばれるのは、物事をしっかりよく聞く、すなわち情報をしっかり聞き分け、悪い者たちを取り締まり、時に武器でやっつける神様ということです。

ちなみに東大寺の大仏様の右奥には「広目天(こうもくてん)」がおられます。
この神様は、武器を持たず、筆とノート(巻き物)を手にしています。
広い目で物事を観察し考察し、その眼力と見識で物事を見通し、悪に立ち向かうという神様です。

この二者の神様は、江戸時代の再建で、三代目の像です。
初代は平家に焼かれ、二代目は大河ドラマ「麒麟がくる」でも登場しましたが、足利義昭が東大寺を脱出する時に三好勢に焼かれてしまいました。
四天王の他の二体は、頭部までしか作られていません。
もともと大仏殿の中は、壮大な仏像群であったといわれていますね。

* * *

謙信は、毘沙門天の厚い信奉者で、上杉軍の旗印は、その頭文字の「毘(び)」です。
謙信は、毘沙門堂に頻繁にこもっていました。

「毘」の意味は、「そばにいて助ける」、「厚くする」、「増す」などです。
この「毘」という文字は、いろいろな漢字と組み合わされて使わることが多く、前述の奈良の東大寺の大仏様は、「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」といいます。

「荼毘(だび)にふす」という言い方は、仏教徒が亡くなった際の、火葬から埋葬までの行程をさしますね。
黄泉(よみ)への旅人を素敵な香料の煙で送ってあげます。

「荼(だ)」は、苦しさ、毒、害などを意味しています。
漢字の意味を知ると、なんとなく、送り出す人々の思いや願いが、美しい香りの煙の中に見えてくる気がします。

* * *

さて、個人的に思うことですが、上杉軍が、謙信のことを「毘沙門天の化身」とことさら強調した裏には、武田信玄の存在もあったような気がしています。

武田軍には、「百足(むかで)衆」と呼ばれる有名な精鋭部隊がいました。
旗印も、あの危険生物のムカデの姿絵です。
時代劇ドラマにも、よく登場しますね。

戦国時代に、ムカデを、絵や飾り等で象徴的に使用した武将は多く、猛毒を持ち、人にかみつき、痛みは激しく、とにかく素早く前進するのみの行動…、そんな行動のムカデを、勇猛な戦士のイメージと重ねました。
戦国武将たちにとって、どう猛で前進あるのみの生き物である、ムカデやトンボは特別な存在でしたね。

実は、「毘沙門天の使い(召使)」と呼ばれていたのが、このムカデや、動物の虎なのです。
「ムカデ衆」を組織し、「甲斐の虎」と呼ばれる武田信玄を召使(めしつかい)とする神様が、この毘沙門天ということになりますね。
上杉謙信こそが、「毘沙門天の化身」だということです。

毘沙門天(多聞天)は、武神である四者の四天王(持国天〔じこくてん〕、増長天〔ぞうちょうてん〕)、広目天〔こうもくてん〕、多聞天〔たもんてん〕)のリーダーです。
仏教の世界で、この四神を統率する神様が「帝釈天(たいしゃくてん)」です。

武将の軍団の中には、たいてい「四天王」と呼ばれる人物がいますね。
戦国時代の武士の心の中には、この「武神」や「四天王」という思想が定着していたような気がします。


◇越後の龍

もうひとつ、「龍」のことも書いておきます。
なぜ謙信は、「越後の龍」と呼ばれたのか…?

先ほど、毘沙門天という武神のことを書きましたが、それとは別に、仏教の密教の中には、似たように、絶大なチカラで人々を救済する神様がいます。
「大日如来(だいにちにょらい)の化身」と呼ばれる「不動明王(ふどうみょうおう)」です。
時に大日如来様を守る脇侍(わきざむらい)として、時に御本尊として、私たちの周りにも、たくさんおられます。
炎を背に、ものすごい形相(ぎょうそう)の顔で立っておられますね。

どんな悪党であろうと、どんな身分であろうと、何が何でもチカラづくで救済するのが、不動明王様です。
まさに守護神様です。

この不動明王は、両刃の剣を武器として手にしています。
この剣を、「倶利伽羅剣(くりからけん)」といいます。
倶利伽羅龍王が炎のついた龍に姿を変え、この剣に巻き付いているというものです。
この剣を使えば、煩悩、迷い、悪魔を打ち負かすということです。

倶利伽羅とは、古代インドのヒンドゥ教言語のサンスクリット語の「クリカ」からきており、仏を守護する「八大龍王」のひとりで、「黒龍」のことです。いつしか龍の姿となって日本に伝わりました。

皆さまも、どこかのお寺で、剣に巻き付いた龍の彫り物や、護摩焚きで縦に長く立ち上る炎の中に龍を見た時は、この不動明王様のことを思い出してみてください。

* * *

強力な炎の龍の神様が巻き付いた剣…、武将たちが願わないはずがありませんね。
「越後国にいる龍神剣を持つ不動明王」…、それが守護神・上杉謙信「越後の龍」なのです。

「龍神剣」を手にする「不動明王」で、「毘沙門天の化身」…、まさに無敵です。
無敵の武将には、これ以上ふさわしい形容詞が浮かびませんね。

上杉軍の陣には、「毘」と「龍」の軍旗がいつも掲げられていました。


◇越後の虎

実は、謙信には「越後の虎」という呼び方もあります。
個人的には、景虎から政虎、そして輝虎になって、それから謙信という名前になったこの改名事情から、この「越後の虎」という言い方が生まれたのではないかという気がしています。
何か深い思想があるような気がしません。

ここまで「虎」の名前が長く続けば、いくら改名しても、周囲から、冗談で「虎ちゃん」「虎さま」とか言われていたかもしれませんね…。

軍旗にまでなってる「龍」のほうが、私は府(ふ)におちます。


◇大勝負の直前の死

謙信の趣味は、琵琶演奏、源氏物語などの恋愛本、酒。
血液型AB型。 生涯独身、子はすべて養子。

普段の食事は質素(ようするに酒中心)だったようですが、 かなりの酒豪で、辞世の句のひとつ「四十九年、一睡の夢、一期の栄華、一盃の酒」は有名ですね。
他に、「この盃すなわち我が後影なり」という言葉も残っています。
謙信と酒は切り離せません。

この酒が、死因(季節の変わり目のトイレでの脳卒中?)につながったという説もありますね。
この死の時は、これまでにないほどの大軍団を組織し、出発する直前です。
出発先が、北条氏のいる関東だったのか、信長のいる関西だったのかは、わかっていません。
いずれにしても、並々ならぬ決意の出陣の直前であったのは確かです。
謙信49歳(数え歳)でした。

* * *

有名な家臣には、上杉四天王(柿崎景家、直江景綱、宇佐美定満、甘粕景持)や、上杉二十五将がいます。
ほかに、中条藤資、本庄実乃、長尾景信、長尾政景などがいます。

何年か前に大河ドラマの主人公でした直江兼続(なおえ かねつぐ)は、樋口家に生れましたが、直江家の養子になり後継者となりました。
樋口家は、木曽の源義仲の重臣の武家につながるといわれています。

謙信の死後、直江兼続と狩野秀治が、上杉家を支えていきましたね。
狩野家は、中国地方の雄、尼子(あまご)氏の重臣だった武家ともいわれています。
尼子氏とは、毛利氏に滅ぼされた、中国地方の名門武家です。


◇金満国家と直江兼続

ある意味、謙信のいた越後国は、「金満国」と言っていいとも感じます。

謙信の越後国(新潟県)は、衣料用植物の栽培に成功し、莫大な利益をあげています。
その植物からは、「青苧(あおそ)」と呼ばれる麻の糸が作られ、その糸を使って上質な布生地が織られ、京に大量に送られました。
信濃川沿いの地域は、もともと綿花の生産地でもあります。
上質な布製品は、古くから、越後国の大貿易品でした。

* * *

後に、豊臣秀吉が、会津(福島県)の蒲生(がもう)氏を栃木県宇都宮に移し、上杉氏を新潟県から会津に移し、堀氏を福井県から新潟県に移すのは、この新潟の布貿易の利権が絡んでいたと思われます。

堀氏は、豊臣性を与えられた名門武家(ようするに豊臣家に組み込む)で、新潟に来て、秀吉が作った「太閤検地(田畑などの新測量)」を行い、衣料用植物の栽培地をきっちり測量し管理します。
今も昔も、権力者たちは、「金のなる木」は自分のものにするということですね。

上杉氏は、後の家康時代に、政治的・軍事的理由で、会津を取り上げられ、山形に拠点を移転させられますが、山形はいずれ紅花産業の中心地にもなります。
もちろん「青苧(あおそ)」も、越後から山形に持ち込み、織物産業の礎がつくられます。

* * *

謙信の死後、トップとして さほど有能でもない上杉景勝を支えることになる直江兼続(なおえ かねつぐ)という、軍事でも、政治でも、ビジネスでも、才覚を持った人物の活躍により、かつての「金満国の越後国」の上杉氏は、どこに移されても、土地を豊かにし、名産品を産み出し、しっかりと名門武家を維持していきます。
江戸時代中期には、謙信と並び称される「上杉鷹山(うえすぎ ようざん)」という名君も生まれましたね。
上杉家の歴史で、謙信と鷹山は別格の存在です。

直江兼続のビジネス感覚は、もともと越後国だったからこそ養われたのかもしれません。
越後国(新潟県)で、前述の布製品の貿易を大幅に拡大させ、今につながる「米どころ」の礎をつくったのも兼続です。
山形で彼は、荒地だった場所を治水開拓し、豊かな地域に変えます。
領民の失業対策も見事なものでした。
謙信の死後、この直江兼続がいなければ、おそらく上杉家の領地はなくなっていたと感じます。

上杉氏は、時の権力者(秀吉・家康)の思惑で、領地を二転三転させられ、いつ滅亡させられてもおかしくない名門武家でした。
その無念さと、いつ何時でも戦闘を行える国力を持つという強い意志を、兼続や後継者たちは持ち続けていたのかもしれません。
兼続の兜(かぶと)にある「愛」の文字の飾りには、「人の愛」だけではなく、いろいろな思いが込められていましたね…。

ひょっとしたら、名前の兼続(かねつぐ)の「続」は、「続く(つづく)」の意味かもしれません。
それなら、「兼」は、本当は金満国家「越後国」の「金」のこと…?


◇上杉は○○王

先ほど、謙信が、越後の布織物で大儲けし、まさに「衣料王」「織物王」であったことを書きました。

さらに、謙信の頃の越後国では、山形や会津(福島)の産物が、新潟の港町(直江津〔上越〕、柏崎など)に集められ、そこから船と陸路で、京のある畿内に運ばれていました。
謙信は、まさかの「流通王」…?

また、日本史の中には、大昔から「燃える水」とか「燃える土」という記述が、時々出てきます。
これは石油のことです。
そうです。越後国(新潟県)では、石油が産出されるのです。
今でも、日本の中に産油県があるなど、ちょっと信じられません。
謙信は、まさかの「石油王」…?

もちろん、日本海の恵みである塩や海産物も、越後国の大貿易品であったのは間違いありません。

新潟県村上市の「塩引き鮭(さけ)」は今でもたいへんに有名ですが、平安時代から、京への大輸出品です。
謙信は、まさかの「塩じゃけ王」…?

新潟に残る風習の「お立ち飯」(豪華な食事で客をもてなす)は、謙信の出陣前の食事の献立からきているといわれていますね。
相当に羽振りがよかったのかもしれません。

* * *

「金満」の越後国と聞いて、まず連想するのが、新潟県の佐渡ヶ島の金鉱山ですね。
金や銀がザックザク…。
後に、佐渡ヶ島は、江戸幕府が直轄地にするほどの埋蔵量です。

実は、謙信の頃まで、この佐渡ヶ島を支配していたの上杉氏ではなく、天皇家から始まる由緒ある本間一族でした。
金があると、一族内の争いは絶えません。
上杉謙信でさえ、この島を手に入れることができませんでしたが、後継者の上杉景勝と直江兼続が武力で奪取します。
これで、上杉氏は、さらに「金山王」…。

ちなみに、武田信玄も甲斐国内の鉱山で、金や銀がザックザク…。

大武将になるには、絶対に金と経済力が必要でしたね。

* * *

実は、新潟県が、今のような「米どころ」になるのは江戸時代以降ですので、当時の魚沼の米はまだあまりとれていません。
前述の直江兼続が、水田開拓を始めてから、江戸時代以降、冬にやっかいな、あの大雪が、名品の米に化けることになります。
兼続のいる上杉氏が移転した山形も、名実ともに、すばらしい「米の沢」の米沢(よねざわ)となります。
上杉氏は、越後国でも「米どころ王」になっていたはずですね。

もともと、新潟・会津・米沢は、上杉氏が支配した同じビジネス圏であり、そのポテンシャル(潜在能力)は相当に高かったのです。

今現在、新潟県の新潟・村上・柏崎・上越・魚沼・三条・長岡を含めて、新潟・会津・米沢の三地域の経済的な関係性をよく知りませんが、真ん中の朝日連峰を中心に、円形の大きな「上杉経済産業圏」があっても不思議はない気もします。

* * *

後のコラムで、越後国の「塩」の話しを書きますが、いずれにしても、大武将が生まれる国には、豊かな水と農地、海や山の産物、貿易品、金が豊富にあり、流通ルートがしっかりあったということです。

金や品物のあるところに人が集まり、品物が売れていく、そしてさらに金や品物が集まり、ますます人が集まってくる…、今も昔もいっしょですね。
単に人を集めようとしても、なかなか集められませんね。
兵力も同じです。

二人の強大な武将…、上杉謙信は新潟県に、武田信玄は山梨県に、誕生してくるのは偶然ではない気がします。
金満国ができ上がり、金満武将が生まれてくる環境が、そこにあったともいえますね。

武将たちにとって、戦争と経済は切り離せない話しですが、時に、別々に対応する内容ではありますね。
「塩の道」の件もそうかもしれません。

「越後国」の人々の中には、政治や戦争とは別に、経済に対する何かの意識が定着していたのかもしれませんね。


◇ファッションも「生き様」

時代劇ドラマで、よく描かれる謙信の白頭巾の姿は、栃木県佐野市にある唐沢山城で、鎧兜を着けずに、黒の衣装に白色の布を巻き付け、少人数で敵中突破をしたエピソードからきているといわれています。
突如として誰も想像していないような行動をするのが、謙信ともいえますね。

個人的な印象ですが、謙信の好むファッションは、派手好きでカッコつけの戦国武将たちの衣装や、いわゆる流行の「歌舞伎者(かぶきもの)」とは、何か別のものを感じます。
謙信は、独自のファッション感覚を持っていたのかもしれません。

* * *

謙信は、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力(ごうりき)す」という言葉のとおり、他の武将たちから支援や助けを求められたら、どこへでも向かったといわれていますね。
「依怙」とは、「えこひいき」の「えこ」のことで、好き嫌いや利権で不公平な態度をとる姿勢を意味しています。
さすがに、「最後の関東管領(室町将軍から任命され、鎌倉公方を補佐する役職。武力で各地の武家を取り締まる)」と呼ばれるほどのことはあります。

彼の言葉や行動そのものが、彼の人物像を作り上げていったのかもしれませんね。

* * *

謙信は、今でいうトランスジェンダーであったという説もあり、周囲からの評価も人物像も、戦国武将の中で、かなり異色で、特別な人物であったようです。
昔の大河ドラマでは、GACKT(ガクト)さんが、まさに異色の謙信を演じて、視聴者から高評価を得ましたね。

昔も今も、謙信のような彼(彼女?)のようなタイプの中には、他者にはない特別な能力を発揮し、人々から大きな注目を浴び、歴史的な偉業を残す人物も少なくありません。

当時の世の中の人たちは、仏の世界を武力で守る「四天王」のひとりで、その四天王のリーダーである「毘沙門天(多聞天)様」を、謙信の中に見ていたのかもしれませんね。
とにかく、戦に強くて、目立つ存在…。

「毘沙門天(多聞天)」は、四天王がいる各四方(東西南北)の北を担当する武神ですが、謙信が、北方にある越後国(新潟県)ではなく、中心地の京のある畿内に生れていたら、歴史は大きく違っていたかもしれませんね。

何か困ったら、北方の地にいる毘沙門天(謙信)を頼れ…。
白頭巾でさっそうと決めている「毘沙門天」は、今どこにいるのだ…。

* * *

有名な「第四次・川中島の戦い」(1561年)の時に、謙信は満年齢で31歳。
武田信玄は、満年齢で40歳。

謙信関連の史跡で有名なものは、春日山城、林泉寺、七尾城,、上杉神社、川中島古戦場などがあります。
さまざまな伝説の史跡は、たくさんありますね。

関連の歴史事項では、川中島の戦い、手取川の戦い、七尾城の戦い、唐沢山城の戦い、関宿合戦、臼井城の戦い、小田原城の戦い、金山城の戦い、永正の乱(越中の戦乱)、越中一向一揆、栃尾城の戦い 、黒滝城の戦い、洛中洛外図屏風、塩の道などがあります。


上の写真は、長野県長野市の「川中島古戦場」にある「一騎討ち」の銅像です。
右側の馬上が上杉謙信。
左側が武田信玄。
見事な、一騎討ちのシーンですね。
これは「第四次・川中島の戦い」の一場面です。

* * *

謙信の愛馬「放生月毛(ほうしょうつきげ)」も、信玄の目の前で急停止!
この馬は、月のような黄白色の身体だったようです。
黄白色の馬に乗り、最高級の越後国の着物、黒色ベースの毘沙門天像のような装飾の甲冑に、あの白頭巾…、ものすごい迫力ですね。

かたや、信玄は、大量のあの白い毛がモサモサついている「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜(かぶと)です。
ここ一番の信玄の兜で、これを着用すると戦に負けません。
そして、こんな大決戦ですから、おそらくは赤色の法衣の上に、黒色のイカした薄衣を着ていたことでしょう。
武田軍といえば、やはりド派手な赤色ですが、信玄の赤と黒のコントラストは、いかにもカッコいい…。
ファッションでは、信玄も、謙信に負けていませんね。

そして、信玄のトレードマークのあの軍配です。
軍配といっても、それは鉄製で、中央部に水晶玉が「日の丸」のように付けてあります。
恵林寺に残る本物の軍配には、なんと刀傷があるそう…。

これから、なかなかの「二人の仲」を掘り下げていきます。

* * *

次回の「塩の道は人の道(2)泥沼の虎」では、武田信玄の概要などを紹介します。

コラム「塩の道は人の道(2)泥沼の虎」につづく。

 

2020.10.9 天乃みそ汁

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