NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。義元の最期。信長公記と太田牛一。戦場につくる狭間。狭間を封鎖せよ。公にしたくない公記。一番槍の謎。

 

 

麒麟(31)桶狭間は人間の狭間(13)
「勝利への狭間」


前回コラム「麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12)オレについてこい」では、信長の檄文(げきぶん)、千秋季忠(せんしゅう すえただ)と佐々政次(さっさ まさつぐ)、熱田衆と津島衆、熱田神宮などについて書きました。
そして、1560年5月19日正午過ぎ頃の、信長の檄文の後、桶狭間に出撃するあたりまでを書きました。

今回のコラムは、その後の展開を書きます。


◇桶狭間に向かう!

ここまでのコラムでも書いてきましたとおり、ここからの展開も、はっきりとはわかっていません。

信長自身が、中島砦から善照寺砦に戻り、そこから何隊かに分かれて桶狭間に向かったとか、中島砦から何隊かに分かれて桶狭間に向かったとか、信長は鎌倉街道を迂回して桶狭間に向かったとか、いろいろな説があります。

ただ、正午過ぎから午後1時頃には、信長を含めた織田軍の特別攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」および、織田軍主力攻撃部隊が、いくつかの部隊に分かれて、桶狭間に向けて出撃したのは間違いないと思われます。

下記マップの「C」地域が、今川義元本陣があった桶狭間中心部です。


史料には、信長自身がいたと思われる部隊が、どこかの山際(やまぎわ)にたどり着いた段階で、雨が降り始めたとあります。
この山際が、どの山なのかは、わかりません。

この雨は、その後、あっという間に、ゲリラ豪雨となります。
雷が鳴り、雹(ひょう)が降り、大風が吹いたとありますから、猛烈なゲリラ豪雨だったと思われます。

当日は朝からかなり暑かったようです。
こうした天候変化が、この数日、続いていたのかもしれません。
現代の今でも、このようなゲリラ豪雨が、一定期間によく起こります。

信長は、この地域の気象情報を綿密に調べていたという話しも残っているようです。
「涼しい風が吹いてきた。今日も豪雨が必ずくるぞ!」…信長は確信していたと思います。

それより何より、5月19日は、豪雨の可能性が相当に高い日であり、その日に義元を桶狭間に誘導したと感じます。
今川軍の瀬名氏俊のチカラで…?


◇勝利への狭間

前述の信長らがたどり着いた「山」が、マップの「D」のあたりなのか、「E」のあたりなのか、「C」の北西側の山なのか…、わかりません。
ただ、「D」や「E」の、今川軍がすでに布陣しているであろう地域をすんなり通過して、「C」の地域の山まで来たとすれば、かなりの作戦が必要だと思います。

「D」や「E」の地域で、織田軍の別の部隊が、信長ら特別攻撃部隊を援護して、信長が山際にたどり着く前から、大きな戦いを行っていたのかもしれません。
個人的には、この「山際」とは、「C」地域にある、どこかの山ではないかと思っています。

* * *

結果的に、この雨は、大豪雨になり、「D」地域の真ん中にある、谷あいを流れる手越川の水量は相当に増したでしょうから、信長らの部隊は、手越川の南側を進軍した可能性が考えられます。

ただ、戦国武将は、川を攻撃と防御の両方で利用しますので、今回の場合に、信長はどう判断したでしょうか…?

手越川の北側の丘に、今川軍の大軍勢の三浦義就(みうら よしなり)の軍がいたと仮定した場合、その攻撃をかわす必要性や、後に豪雨で手越川が増水することを考えれば、やはり手越川の南側を進軍するほうが、確実に桶狭間にたどり着ける気はします。

南側を通るということは、井伊氏、松井氏、久野氏などの遠江国勢の近くを通過することになります。
おそらく彼らが布陣した場所は、マップの「C」の西側の端の丘のあたりで、南北に線上に長く布陣した可能性があります。
久野氏は、少し前方の「E」の地域だったかもしれません。

織田軍は、南北に布陣したとも考えられる今川軍の遠江国勢からの攻撃に、何らかの手を打たなければなりません。


以前のコラムで、信長の土木工事技術のことを書きました。
井伊氏や松井氏の布陣した丘(「C」の西側の隅)のさらに西側には、小さな谷あい地形があり、信長は、その地帯を、泥湿地にする土木工事を事前に行った可能性が高いと考えています。
後の信長と武田の「長篠・設楽ヶ原の戦い」にも似た、土地改良工事です。

信長と内通した、今川軍内の瀬名氏俊は、それを知っており、あえてその泥湿地の東側に遠江国勢を、南北の線上に布陣させた可能性もあります。
これで、織田軍は、遠江国勢の三者から同時に攻撃を受けません。
これも敵兵力の分断のひとつかと思われます。

泥湿地の光景は、一目瞭然であっても、今川軍から見れば、ある意味、義元本陣を守る防御機能としても働きます。
ただ、これも、前述の手越川と同様に、時に、有利にも、不利にも働いてしまう機能です。
使い方次第ということですね。

* * *

今川軍の武将たちの布陣は、実は信長の指示のもと、瀬名氏俊が巧みに作りあげたものだったのかもしれません。

松平元康(後の家康)が、「関ヶ原の戦い」の時に、敵の西軍の布陣が、石田三成ではなく、家康の思い通りに作られたのと似ています。
元康は、この時に、相当に多くの事を、信長から学んだのだろうと感じます。

敵の大将に、自軍の布陣を作られるという点で、この時の今川義元と、関ヶ原の石田三成は、似ているのかもしれませんね。
戦国時代は、得てして、よくあります。

* * *

個人的には、信長は、桶狭間を含めた地域を、「C」「D」「E」に分断し、今川軍の兵が、それぞれの地域から他の地域に行けないようにしたのではないかと考えています。
まずは、大きく、鳴海城地域、大高城地域、桶狭間地域に、兵力を分断し、さらに桶狭間地域を三つに分けたのかもしれません。
その分断に、川や泥湿地、深田を使ったのかもしれません。

* * *

「D」や「E」の地域で、織田軍のそれぞれの担当部隊が、今川軍と激突している最中に、信長と馬廻衆、簗田政綱あたりの特別攻撃部隊が、手後川の南側あたりを、「C」の方向に、時間をかけずに進軍した可能性が高いような気がします。

そして、信長ら特別攻撃部隊が「C」地域の北西側のどこかの山際までやって来たのかもしれません。

* * *

マップの赤色の一番上の矢印の迂回ルートは、個人的には、織田軍の別の部隊が進軍したかもしれないと感じています。

信長本人が、このルートを通ったという説もありますが、個人的には、柴田勝家あたりのベテラン勢が、この部隊を担当したのではなかろうかと感じています。
戦いの主力にはならない地味な部隊ですが、信長は、謹慎中だった勝家にチャンスを与えた可能性も考えられます。
この迂回ルートを、信長自身が通過するには、時間をかけすぎるし、敵の攻撃をまともに受けて、桶狭間にたどり着けない可能性もあります。

とにかく、織田軍からみたら、今回の戦いはスピードと時刻が勝負です。
最短時間で、豪雨が来るまでに、義元本陣の近くまでたどり着かなければなりません。

信長からしたら、義元本陣にたどりつく、最短コースを、ある特定の時刻に、この戦場の中に強引に作り出す必要があったと感じています。
まさに、勝利につながる「狭間」をこじ開ける作業だったと感じます。

個人的には、「D」と「E」のそれぞれの戦場の間にある狭い場所に、一定時間の空間を作り出し、そこを信長らの特別攻撃部隊が通過したのかもしれないと感じています。

桶狭間の手越川沿いという狭く長い空間の「場所」と、この川の両側の戦闘の時間中を、豪雨が来るまでに通過するという「時間」こそが、信長の「勝利への狭間」であったのかもしれませんね。


〔島津氏がつくった狭間〕

この戦いに限らず、戦国時代の武将どうしの戦いでは、戦場に不思議な空間が一定時間にあらわれることがあります。
もちろん、勝者側が、その空間を作り出すことが多いです。

中には、敗者側が作ったケースもあります。

ちなみに、徳川家康は、「関ヶ原の戦い」の時に、敵の西軍の武将の島津義弘の軍に、手痛い打撃を食らわされます。
この戦いの最初から、島津軍は、兵力を失わないために戦わず、ある狭間(空白の時間と場所)をずっと待っていました。
その瞬間が訪れた瞬間に、島津軍は、その場所に向かって猛突進します。
上杉謙信の如く、自らの兵を犠牲にさせながら、主要な人間だけを逃がす猛烈な作戦です。

その場所こそ、家康本陣です。
本来の目標は、家康本陣の少し脇にあった、ある街道です。
一定の時間と空間をつくるため、家康本陣にあえて突進するのです。
もし、軍団が街道に直進していたら、おそらくこの島津軍は全滅したでしょう。
さすがに、戦乱続きの九州の地を生き抜いた、経験豊富な一族です。

家康本陣は、この突然の突撃に、相当に危険なところまで攻められます。
武将クラスの相当な家臣が、何人も傷を負います。
島津軍にとっては、家康本陣に深く入り過ぎたら、全滅します。
目的は、戦場からの大将の脱出です。
家康は、島津軍を追走しますが、ケガ人が多すぎて、追走を断念します。
このことは、家康の一生の不覚…、徳川幕府250年あまりの後悔となりますね。


〔信長がつくった狭間〕

さて、桶狭間に話しを戻します。

あくまで想像ですが、「D」や「E」の地域にいた今川の軍勢は、桶狭間の守備隊とは異なり前線の攻撃部隊ですので、経験のある武将たちが組織的に率いる軍団だったはずです。
ここに織田軍がゲリラ戦法を仕掛けるのは妥当ではないと思います。

彼らには、織田軍の中でも、佐久間信盛、森可成(もり よしなり)、池田恒興などの、経験豊富で組織的に軍団を率いて戦える者たちでないと、対抗するのは難しいと感じます。

手越川の南側の、今川軍の井伊氏や松井氏の遠江国勢には、問答無用の非情な、織田軍のゲリラ部隊が突撃したのかもしれません。
後で書きます、史料の中にある泥湿地での戦いとは、この場面ではないかとも思われます。

織田軍のこの別部隊が、今川軍の強力な攻撃部隊と戦っている最中に、若い世代の特別攻撃部隊「馬廻衆」と信長自身が、ある空白地帯を通過して、桶狭間の義元本陣に向かったような気がします。

* * *

「鉄砲隊」は、戦場にいて、ただ撃っていればいいというものではありません。
適切な瞬間に撃つからこそ、その役割が活きてきます。
防水対策仕様の鉄砲隊が、信長の後を追ったのだと思います。

織田軍は、馬印だの、軍旗だの、戦いに邪魔なものはすべて置いていったのかもしれません。
まさに、装飾をなくした、戦うためだけの、大武装装束だったのかもしれませんね。
そして、その装束は、敵兵とははっきり区別できる姿だったはずです。
私の想像では、色の区別では、豪雨と泥で識別できなくなるので、別のものだった気がします。

* * *

「C」地域の義元本陣からしたら、「D」や「E」の地域で織田軍の攻撃を止めているはずだと考えていたかもしれません。

ここまでの、小競り合いでは、その地域で、今川軍が織田軍をすべて退けています。
前回コラムで書きました、織田軍の千秋氏や佐々氏が討ち取られたのも、おそらくその地域だったと思われます。

信長は、この日のここまでの小競り合いで、この戦場の敵の武将たちの配置を、すでに確認していたと思われます。
信長からしたら、ここまで退けられてきたのは作戦で、退けられない瞬間は一度だけでよかったはずです。
信長は、その一回の機会だけに、勝利すればいいのです。

現代の今でも、ビジネスやプロスポーツの世界では、よくあることです。

今川軍に潜入している、織田軍の蜂須賀小六らの暗躍部隊も、今川軍の情報伝達兵らを殺害し、連絡手段を遮断したかもしれません。
とにかく、今川軍の中に、さまざまな空白の「狭間」を作り出し、そこをすり抜けて、義元までたどり着こうとしたのが、この作戦だったのかもしれません。

* * *

織田信長は、現代の「大相撲」のかたちの原型を作ったともいわれていますね。
彼は、格闘技としての醍醐味を、相撲の世界に加えていきます。
信長が大好きだった格闘技…、これも、戦いの中で、ある瞬間に、勝利につながる一定の空間を作り出します。
作り出せない者に、勝利はありません。
「狭間(空間)」を作り出す思考能力は、武将にとって、欠かせない能力だったのであろうと感じます。

この時の、信長の「狭間」の発想は、まさに「桶狭間」という地名から生まれたのではないかとも思ってしまいますね。


◇狭間を封鎖せよ!

その頃、マップの赤色矢印の一番下の矢印である、水野信元の部隊が、大高城南側の砦のあたりから、桶狭間の南側の出口をふさぐために進軍していたかもしれません。
もちろん、今川義元を、桶狭間の南の出口から脱出させないためです。
あくまで想像です。
もともと、今川軍の松平元康も朝比奈泰朝も、大高城の南側の砦を攻撃していないのが不思議でなりません。

* * *

桶狭間の義元本陣のすぐ近くにいた、今川軍の瀬名氏俊も、この水野勢に合流するため、「C」地域の南側に、密かに移動していたかもしれません。
あるいは、個人的には、瀬名は、前回までのコラムでも書きました、桶狭間の謎の寺に、戦闘に巻き込まれないように潜んだ可能性もあると考えています。
信長軍は、後で重要になる、桶狭間の寺を攻撃対象にはしなかったはずです。

「信長殿、待っておったぞ」と言って、寺から出てくる瀬名氏俊の姿が目に浮かびます。


◇本陣に突撃!〔午後2時頃〕

信長を含めた特別攻撃部隊が、どこかの山際にたどり着いた頃に雨が降り始め、あっという間に、雷、雹(ひょう)、突風が吹き始めます。

突然の豪雨というだけでも、戦場にある雨ざらしの義元本陣は混乱し始めると思います。
ここまでに、武将たちの一部は、飲酒をしていた可能性もあります。

織田軍の特別攻撃隊は、豪雨の中、丘の近くで身を潜め、その瞬間を待っていたのかもしれません。
史料のとおりであったなら、豪雨が終わった瞬間を見計らって、本陣に向けて猛攻撃を始めたのかもしれません。

おそらく、桶狭間での義元本陣周辺の配置の詳細は、織田軍にすでに渡っていたでしょうから、信長らの特別攻撃部隊は、丘の上から何隊かに分かれて、桶狭間の各担当場所に駆け降りていったと思われます。

* * *

義元側からしたら、豪雨をしのいでほっとした瞬間、義元本陣近くの丘の上から、猛烈な鉄砲隊の轟音が鳴り響いたら、大混乱に陥るのは避けられないような気がします。
軍旗を持たない、誰だかわからない集団が、いくつかに分かれて、丘の上から猛烈な勢いで攻撃してくることを想像しただけで、恐怖の極みに達しそうです。

もはや、今川軍は、正確な情報がやり取りできるような状況ではなかったとも思われます。

* * *

義元本陣の前方を守備していた、遠江国勢の井伊氏や松井氏ら遠江国勢の状況を、義元が把握できない状況だったかもしれません。

遠江国勢は、義元本陣の前方の丘の上に陣をはっていたはずですが、じりじり後退させられ、義元本陣に近づいてきたことでしょう。
遠江国勢は、義元本陣とほぼ同時に攻撃を受けていたでしょうから、後退して立て直すことも不可能だったでしょう。

もともと義元本陣周囲は守備隊ですから、戦意を失った兵たちは、役目を放棄し、次々に逃げ出していったことが想像できます。
後で書きますが、史料にも、大混乱の様子が残されています。
もはや義元本陣は、制御不能の状況になったと思われます。

* * *

ある史料には、「ここまで信長は非道なのか」という文章も残っているようですが、軍旗を持たず…、名乗らず…、相手にも名乗らせず問答無用…、編隊を組まず…、「乱取り(盗賊)」になりすます…、ニセ情報を乱発する…、内通者が多数存在する…など、この局面になって初めて、今川軍の首脳陣が目にしたり、気がついたことが、たくさんあったのだと思います。

「松平元康が裏切った…、鳴海城が落ちた…、井伊直盛が討ち取られた…、瀬名がいない…」など、織田軍は声での情報も乱発したことでしょう。

「非道」という表現は、この戦闘スタイルを知って書き残した人間の、率直な思いだったのかもしれません。

今川軍の有力武将たちの最期の場所が、ここまでわからないとは、かなり異常な戦場だったことがわかります。


◇輿を探せ!

おそらく義元が桶狭間の一定範囲にいるのは、情報から間違いありません。

あとは、内通する先導者が、義元本人の居場所を示してくれれば、確実に討ち取れます。

* * *

私の想像では、義元が使う本物の「輿(こし・義元の乗り物)」の色や形状は、蜂須賀小六の情報でわかっていたと思います。
おとりの偽装の輿(こし)は、内通者がすべて破却したでしょう。
残っている輿こそ、本物の輿で、その近くに義元本人がいるはず…。

軍旗や馬印は、偽装が簡単に可能です。
ニセ義元の影武者を仕立てるのも、それほど難しくはないと思います。

ですが、輿だけは…。

まずは、輿を探し出せ…。
特別攻撃部隊の、ひとまずの目標は、輿であった可能性は高いと思われます。

輿を見つけたら、そのあたりに、おそらく本人がいます。

「輿を見つけたぞ~!」
織田軍の誰かが叫んだかもしれません。
あるいは、合図として、爆竹や鐘でも打ち鳴らしたかもしれません。


◇追い詰めて、取り囲め!

史料には、最終局面で、義元を中心に置いて、今川軍の兵たちが円陣を組んで彼を守ろうとしたという記述があります。

草食動物の群れが、ライオンの群れに取り囲まれ、絶体絶命の瞬間になると、子供たちを真ん中に、円陣を組むというスタイルがありますが、時代劇ドラマならともかく、実際の戦場では、この戦法ではほぼ生き残れません。
バラバラになっていたほうが、一部を犠牲にして、まだ大将の脱出の可能性はあります。

織田軍からしたら、この円陣の中心にいたのが、実は影武者だったでは許されません。
影武者を討って、本人を取り逃がしたでは許されません。

織田軍は、本人を確定しなければなりませんね。


◇太田牛一の「信長公記」

ここで、ある史料の文章をご紹介します。

信長の生涯を描いた「信長公記(しんちょうこうき)」という文献が残っています。
これは、織田軍の家臣であった太田牛一(おおた ぎゅういち *読み名多数)が、さまざまな情報をまとめた史料です。
その名からも、文筆好きだったことが想像できます。

牛一は、僧侶から武士になり、その後、行政官僚となります。
弓の名手だったという話もあります。

斯波(しば)氏の家臣から、織田氏の家臣の柴田勝家、丹羽長秀らの家臣として渡り歩きます。
織田家滅亡後は、行政官僚として、豊臣氏へ、そして徳川氏へと、処世を上手に渡っていきます。
私のイメージでは、その時のリーダーに背くことのない、要領のいい官僚という牛一の姿を想像します。
そして、おそらくは軍紀物の文献をまとめることが趣味だったように感じます。
とにかく好奇心いっぱいで、今でいうジャーナリスト感覚を持っていたのかもしれません。

そんな彼が、まとめた信長一代記が「信長公記」です。

* * *

いろいろな関係者の証言や記録などを探し歩き、取材を重ね、この文献を完成させた可能性が高いと見ています。
情報源や証言、記録文書の影響からか、文章表現に統一性があまりなく、結構バラバラです。
あえて、そうした可能性もあります。

文章を書く人間からみると、明らかに、検閲を受けて削除した部分がありそうですし、上からの命令で表現を修正したように感じられる部分が多々あります。
部分的には、牛一の思い入れが、やたらに込められているのかもしれません。
ひょっとしたら勘違いかと思われる部分もあります。

どの程度まで、信用していいのかわかりませんが、あまり残っていない信長に関する内容ですから、確実に目安にはなると思います。

「桶狭間の戦い」の部分でいえば、作戦の内情をまるで知らない(?)か、隠したまま、どこかの証言や記録だけを集めたような内容です。
それに、おそらくは、豊臣と徳川の検閲で、かなり削除、修正された部分が多いと感じます。

もともとは、もっとたくさんの情報が、ここに記されていたのだろうと、私は感じます。


◇信長公記を読む

「信長公記」での、「桶狭間の戦い」の最終局面の部分を書きます。

空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。
弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

(略)

旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。
初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。
信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。
然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。
毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。
是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。
運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き貼、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。
頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

* * *

現代人には、難解な文章表現もありますね。

これを読むと、「豪雨が過ぎ去り、晴れ間が見え、そこで織田軍は、長槍を立てて大歓声をあげ、誰かが『かかれ』」という命令をし、黒い煙がわき上がったのを見て、今川軍の兵たちが後方に崩れ落ち、武器を捨て、輿から離れ、逃げていった」と解釈できそうです。

相当に簡略化された内容なので、状況は想像するしかありません。

確かに、ゲリラ豪雨は、突然に終わり、晴れ間が見える場合も、よくあります。

「信長槍」とは、織田軍特有の長い柄の槍かとも思います。
「かかれ」を誰が発したかはわかりません。

ただ、信長自身が槍を突き立てて、「かかれ」と言ったと解釈できなくもないです。
「信長公記」は、基本的に信長の英雄伝ですので、このように解釈してもいいのかもしれませんが、「信長」と呼び捨てに書くことがあるでしょうか。
誰かの証言やメモ書きを残すにしても、そのまま呼び捨てに書くでしょうか…?
牛一にも、このあたりは確信を持てなかったのかもしれませんね。

簗田政綱あたりの「かかれ」の命令と解釈できなくもないですが、この「大音声(声量)」と「黒煙(鉄砲発砲命令?)」、最初の突撃タイミングの判断と決定からすると、信長自身とも感じます。

「黒煙」が何を意味しているのかわかりませんが、鉄砲発射による黒い煙とも考えられます。
雨上がりでの「黒煙」は、なかなか自然現象や人間行動では起きない気がします。
それに、鉄砲の発射音は、相当な規模の攻撃合図になるはずです。

ひょっとしたら、義元本陣は、織田軍がすぐ近くに来ていたことを、この発射音で初めて知ったのかもしれません。

この文章からは、義元本陣あたりにいた今川軍の兵たちは、突然の出来事に驚き混乱し、前方に向かってくることなく、崩れるように後方に追いやれられ、散り散りに逃げ出したという光景が目に浮かびます。

「黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」とは、本陣にいた、多くのひ弱な下層の守備兵たちの大混乱ぶりをさしているように感じます。
おそらく、本陣の一部の兵だけではなく、織田軍からは、全体がそのように見えたのだと感じます。

今川軍の兵数からみると、そうそう最初から逃げ出す状況だったようにも思えませんが、一度大きく動き出した山は、なかなか止められないと思います。
最後には総崩れの状態で、多くが逃げ出したのかもしれません。
「信長公記」は信長の英雄伝でもありますので、圧倒的な内容に描かれた可能性も考えられますね。


◇義元を追い詰めろ!

「旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。」の部分については、「旗本」とは今川義元のことだと判断していいと思います。
この文言どおりなら、本陣全体が総崩れとなった後で、義元の居場所を確定し、織田軍のトップクラスの命令で、義元らの集団への攻撃開始が始まったとも考えられます。

それが、午後2時過ぎあたりで、西の丘から東の谷あいに向かって、攻撃部隊が駆け下りていったように感じます。
それが、桶狭間のどの場所だったのか…?
「信長坂」か…?

* * *

信長公記の記述では、今川軍は、義元を中心に300あまりの兵が円形になり、かたまっていましたが、徐々に減り、50名あまりまで減ったところで、織田軍の特別攻撃部隊「馬廻衆」、特に精鋭部隊「母衣衆」だと思いますが、その若武者たちが、怒涛のようにその円陣に突入したような内容です。

この「初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。」の部分は、特に感情移入の表現が残っていますね。

刀の鍔(つば)が割れるとは、相当なチカラです。
その場にいた兵からの証言や記録だった可能性もあります。

「火花」では足りず、その火花が「火焔の炎」となって燃え上がっています。
牛一が作った文章表現なのか、誰かの証言や記録に、そうあったのかはわかりません。

ここで注目すべきは、この場面に、しっかりと信長自身がいたことです。
この部分は、呼び捨てであっても、「信長」自身であろうと思います。
とにかく信長公記は、信長を呼び捨てにしたり、突然ていねいに持ち上げたりと、激しく急転します。
文献の管理者が転々とした証拠だとも感じます。

* * *

「然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず」の部分は、織田軍の兵たちが同士討ちをしないように、今川軍とはかなり異なる何かを身に着けていたか、今川軍の兵とは全く違う装束か、相当に身軽な装束だった可能性もあります。

ここでは、織田軍の馬廻衆や小姓たちが、相当に苦戦し、死んでいることから、義元のまわりには、相当な階級の腕の立つ武将が何人かそろっていた可能性もあります。
これが桶狭間の「七ツ塚」を意味しているとも思われます。

このあたりの表現も、相当に簡略ですので、もともとは、もっと詳細な文章表現がされていたのかもしれません。
織田軍の生き残りの武士の多数から、証言を集めたとは思いますが、少し文章が短すぎですね。

歴史オタクの牛一が、こんな、最も大事な部分を、たったこの文字数とは考えられません。
今川軍の武将も特定されていたのかもしれません。
ひょっとしたら、この信長公記の最初の文献では、今川軍の多くの武将たちの最期や、末期の言葉が書かれていたのかもしれません。
それを残すことは、許されなったのかもしれませんね。

傍(かたわら)から、この戦いの様子をじっくり観察していた織田軍の者も、きっといたとは思います。
ただ、この戦いの瞬間は、時間的には、十数分くらいの戦いだったのかもしれません。

そして、この後の文章は、服部一忠の一番槍と、毛利新介の「とどめ」の件(くだり)へと続きます。


◇信長公記の謎

私は、太田牛一の最初の記録では、この戦いをもっと詳細な内容で描かれ、各武将名がたくさん記されていたのかもしれないと感じています。
豊臣政権、徳川政権の検閲により、都合の悪い部分が、どんどん削られ、表現も変えさせられたのではとも感じています。
そこは、背くことのない牛一です。

「仰せのとおりに…」。

信長が生きていた時代から、ひょっとしたら、この取材記の執筆編集作業は行われていたのかもしれません。
信長の記録として、牛一のもとでこの作業が、豊臣政権下でも続けられ、多くの武将が読めるようになる、しっかりとした文献「信長公記」として世に出るのは、江戸時代初期です。

その間に、信長、秀吉、家康の検閲を受けた可能性は高いと考えられます。

ちなみに、秀吉あたりだったら、牛一にこう言いそうです。
「桶狭間近くの名所の大木が、この豪雨で倒れたのは、『草薙の剣』を祀る熱田神宮の神様の怒りのためだ。東国の武将が熱田神宮の大宮司の千秋季忠を討ち取ったため、義元は熱田の神様の裁きを受けたのだ…、そう記して、熱田神宮を喜ばせろ。東国武将を悪者にしたてろ。」
牛一は、二つ返事で、書き加えた可能性もあります。
この部分、他の部分とくらべて、何か変です。

個人的には、織田軍が目立つ大木を切り倒し、桶狭間の北側から沓掛方面への、義元の脱出ルートをふさいだのではと感じています。
ゲリラ豪雨の風や雷で、これだけの太さの大木がそうそう倒れるとは思えません。
もしそうであったとしても、それが、たまたま街道脇にある名物の名所の大木群で、それが街道をふさいだとは、都合がよすぎます。

これだけの大木ですから、地元の御神木だった可能性もあります。
まさか切り倒したとは言えません。
神様が起こした「ゲリラ豪雨」の仕業なら仕方ありませんね。

* * *

私の想像ですが、義元が、桶狭間の北側に逃げ、沓掛城方面に向かう山道に向かったとしても、そこには織田勢のベテラン武将軍団、たとえば柴田勝家あたりが、それこそ迂回ルートを使ってやって来て、この北側の逃げ道をふさいだのではないかと思っています。
倒木は、勝家の仕業だったのかもしれません。

秀吉が、宿敵だった柴田勝家の活躍を、「信長公記」に残させるはずはありませんね。
秀吉にとっては、倒木は、あくまで熱田神宮の神様のチカラです。

家康にとっても、江戸幕府の戦略上、勝家がおさめた福井は最重要の場所のひとつです。
徳川家のチカラで安定させなければならない福井を持ち、桶狭間は三河国と尾張国の国境地帯です。
柴田勝家の活躍話しなどが残っては困りますね。

* * *

とはいえ、さまざまな横やりがあったとしても、歴史オタクの牛一が、信長を英雄視して、記録や証言をまとめてくれたおかげで、こうした文献が残ったのも確かです。
少しだけでも、「桶狭間の戦い」と信長のことがわかってきます。

牛一のような人物が、いたのか、いなかったのかで、実は、歴史が違ってきたりしますね。
権力者から、どの程度の業務命令だったかはわかりませんが、たとえ官僚としての役目だったとしても、本人の好奇心や執念がなければ、これだけのものは残っていなかったかもしれません。

どこかに、もともとの信長公記とか、牛一の取材資料などが残っていたら、うれしいのですが…。


◇織田兵の圧倒的な強さ

さて、前回までのコラムでも書いてきましたとおり、個人的には、この桶狭間の場所を、信長に提供したのは、今川軍の先鋒隊の瀬名氏俊(せな うじとし)だったのではないかと思っています。

瀬名氏俊は、この激戦の中、どこにいたのかよくわかっていませんが、無傷で帰還します。

桶狭間の謎の寺の中に潜んでいたか、桶狭間の南側の脱出ルートの出口で、織田軍の水野信元らと合流したのかもしれません。
義元は、この危機的状況でも、寺に逃げ込むこともできていません。

激戦の混乱の中、義元を逃がすには、桶狭間の寺の南側から大高道方面に逃がすのが最適だと思いますが、私の想像では、この南側をふさぐために、大高城の南側の織田軍の向山砦にいた水野信元が、この南の出口の場所にやって来ていたのではないかと感じています。
マップの一番下の赤色矢印です。
時間的には、すぐに来れる距離です。

大高城の松平元康は、まったく動く気配はありません。

桶狭間の北も、南も、西もふさがれ、東には山…、その山を越えても、その先にある地には、織田の手がすでに回っています。

* * *

今回の桶狭間の義元本陣にやって来た織田軍の戦闘主力兵は、「馬廻衆」のような、とにかくスピードと体力があり、個人戦にめっぽう強い、若い世代の兵士だったはずです。

「袋のネズミ」状態になった、今川軍の兵が狭い地域を、右往左往しながら逃げ回り、豪雨などをものともしない、個人戦に圧倒的なチカラのある織田の兵士たちが、非力な今川の兵士たちを、容赦なく次々になぎ倒していったのかもしれません。

とにかく今川軍の戦死者の数が尋常ではありません。
桶狭間心臓部あたりまでたどりついた織田軍の兵の数は、おそらく1000にも満たないかもしれません。
おそらく桶狭間の義元周辺には、少なくとも数千名の今川兵がいたでしょうから、どのくらい織田軍の特別攻撃部隊が強力だったかと思います。

* * *

今川軍の混乱ぶりは、想像を絶する「地獄絵図」だったのかもしれません。
想像するだけでも、恐ろしい光景です。

今川軍の大混乱は偶然に起きたものではなく、信長が意図的につくらせたものであったのは間違いないと思います。
これだけ条件がそろえば、信長は、桶狭間で、短時間に確実に、義元を討てると思います。

そんな中、義元の最期の瞬間がやって来たのかもしれません。


◇一番槍と、義元の最期

前述の 「信長公記」には、次のように残っています。

「服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。
毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。」

* * *

私のあくまで個人的な想像ですが、「一番槍」の服部一忠は、織田のスパイとして今川軍に潜入し、義元の近くにいたのではないかとも思っています。
義元本人の顔を知っているか、本人であることを認識できる立場であった気がします。

今回の戦いで、服部一族の服部党は今川軍の水軍として参加していますが、その一族か何かに成りすまし、ニセモノではない義元本人を識別できる立場にあったのではとも感じています。

通常、大将を逃がす場合には、大将の鎧兜などを身に着ける、「偽装の大将」になる家臣がいるはずです。
今回は、そうした形跡がありません。
間に合わなかったのかもしれません。
あるいは、影武者がいたとしても、織田軍がそれに惑わされることがなかったとも考えられます。

* * *

義元を囲んで守る今川兵の円陣を、織田の特別攻撃部隊が切り崩しバラバラになった直後に、その円陣の中にいた、一忠が、「一番槍」を義元に突き刺します。
影武者がいようといまいと、これで本人確定です。

致命傷にはいたりませんが、そこに特別攻撃部隊「馬廻衆」の中でも、「母衣衆」のとびきりの戦士である「毛利新介(もうり しんすけ)」が飛び込んできて、義元にとどめをさしました。

私は、信長が、後々のことを考えて、「一番槍」を致命傷にさせずに、毛利新介に討たせたような気がしています。
服部一忠ほどの武芸の達人が、義元程度の剣の腕に、膝を斬られて倒れるとは考えにくいです。

義元の討死を目にして、もはや、円陣を形成していた武将たちの戦意は失われたかもしれません。
この円陣にいた武将たちは、義元の討死の後、すぐに、ほぼ全滅したのだと思います。
自刃した武将もいたかもしれません。

「信長公記」には、そのあたりが一切残っていません。


◇公にしたくない

「信長公記」には、上記の文章の後に、次のように続きます。

「是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。

これを訳しますと、「毛利新介が今川義元を討てたのは、偏(ひとえ)に、清洲城の尾張国守護の斯波義統(しば よしむね)が攻撃され自刃した際に、義統の子のひとりが信長に助けられ、もうひとりの子を毛利新介が救出した、その行為が、冥加(みょうが・神仏からの助力)となった…と世間の人々は噂した。」となります。

私の想像では、こんな歴史の内情を、中下層の家臣や世間の人が知るはずはないと思いますので、信長か、首脳陣の誰かが、毛利新介(毛利良勝)のお手柄として、この文章を加えさせたような気がします。
この「冥加(みょうが)」という表現の仕方も、何かの意図を感じます。

* * *

この文章の後は、次のように続きます。

「運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き貼、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。
頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。」

若干、わかりやすく意訳すると、
「今川義元の運が尽きた原因は、尾張国と三河国の国境の桶狭間で戦ったことにある。
桶狭間は、谷が入り組んでいて、足場の悪い深い水田があり、高低差のある地形に、草木が生い茂っており、難所というほかない。
深田へ逃げ込んだ今川軍の兵は、足を取られて歩けずに、はいずり回るしかなく、織田軍の若武者どもが、そこを追いついて、槍で殺し、ひとりで、2つ、3つの敵の首を討ち取り、織田信長のもとへ戻って来た。
織田信長は、『清洲城で首実検をするので、その時に持って来い』と言って、桶狭間では、今川義元の首だけを確認し、たいへん満足して、来た道を戻って行った。」となります。

* * *

ここでも、信長公記では、毛利新介の話しの後に、すぐに義元の敗因の話しと、信長が上機嫌で帰還したという話しになります。

おそらく、牛一の書いた最初の記録には、誰かが隠したい内容が、相当にこの部分に書かれていたと想像します。

義元の敗因が、桶狭間の地形だけのはずがありません。

ただ、この文章から、戦場の一部では、織田軍にとって、今川軍が相当に弱かったことを意味しています。
信長が、義元の首以外に、ほとんど関心を示していないこともわかります。

この削除された部分には、信長の勝因が詳細に書かれていたのかもしれません。

「公記」という名称とは裏腹に、牛一以外、この内容が「公(おおやけ)」になることを誰も望んでいなかったのでしょう。
すべては、「冥加(みょうが)」に包まれてしまったのかもしれませんね。


◇生き残った武将たち

大河ドラマ「麒麟がくる」では、今川軍の朝比奈親徳(あさひな ちかのり)が、義元の最期を見届けていましたが、一応、史実では、彼はもっと早くに、この戦場を離れています。
傷なども負っていなかったかもしれません。

この朝比奈親徳と、大高城付近にいた朝比奈泰朝(あさひな やすとも)、鳴海城にいた岡部元信は、実は元をたどると同じ一族です。
朝比奈一族の一部が遠江国に移り「遠江朝比奈氏」、駿河国に残った勢力が「駿河朝比奈氏」となり、岡部氏は分家したのです。
元は同じとはいっても、この頃は、すでに完全に別の武家ではありますが、他の一族の者たちよりは、つながりやすい気はします。
駿河国の最大級の一族出身として、今川家の支配を支えた、元が同じの三つの武家でした。

* * *

この三家の元の朝比奈一族は、さらに古い時代にさかのぼると、桶狭間の戦いで討ち死にした三浦義就(みうら よしなり)の先祖の三浦一族から派生した一族です。
実は、織田軍の佐久間一族も、この三浦の一族から派生した一族です。
三浦氏とは、鎌倉時代に源頼朝のすぐ近くで大活躍した名門一族で、その一部が駿河国に来て勢力を誇っていました。

戦乱の時代は、派生した一族や分家どうしが、勢力範囲や後継問題などで、激しく争うことがめずらしくありません。
前回までのコラムでも書きましたが、私は、織田軍の佐久間信盛の軍が、この桶狭間のどこかで、三浦義就の軍と、因縁の激突をした可能性もあると考えています。

* * *

この朝比奈系の三家の武将たちは、「桶狭間の戦い」から、無事に帰国します。
ライバルの三浦氏や久野氏、井伊氏、松井氏らの主要な武将は、みな討ち死にしました。
これが、偶然なのかどうかはわかりません。

もし、松平元康、瀬名氏俊に続いて、この駿河朝比奈氏の朝比奈親徳、遠江朝比奈氏の朝比奈泰朝、鳴海城の岡部元信までもが、織田方に寝返っていたとしたら、今川義元に、もはや勝機はなかったと感じます。

大高城付近にいた朝比奈泰朝はもちろん、鳴海城の岡部元信も、なすすべがなかったのではなく、予定通りの行動だったとしたら、あまりにも恐ろしい陰謀のように感じます。

とはいえ、戦国時代後期の有力武将の戦い方とは、こうしたものです。
潔(いさぎよ)く正攻法でぶつかり合うことなど、まずありません。

「桶狭間の戦い」も、まったくその通りであったと感じます。


◇戦いは、まだ終わらない

さて、義元を討ち取った信長は、すぐに安全な場所まで戻らなくてはいけませんが、織田軍のベテラン勢がしっかり護衛の役割を果たしたのかもしれません。
織田軍の役割分担と人員配置は、見事だと感じます。

今川軍の中に、信長に一矢報いるような者もあらわれなかったようです。
それだけ、今川本体軍を叩きつぶしたのでしょう。

* * *

一方、松平元康や水野信元たち…、信長と約束はしてあったとはいえ、時は戦国時代です。
信長が、裏切って、その足で、三河勢を攻撃してくるかもしれません。
三河勢には、この時に乗じて、信長を襲撃できるほどの武力はありません。

三河勢は、次は自分たちの命を守らなければなりません。
すぐに退却し、地元の三河に急いで帰らなければなりません。
まだ彼らには戦いは終わっていません。

* * *

今川義元が討ち死にし、ひとまず大陰謀は終わっても、すぐに、各武将どうしの思惑のぶつかりあいが始まります。
武将たちには、戦いを止めることは許されませんでした。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、このあたりの内容は描かれないと思いますが、まだまだ「桶狭間の戦い」は終わってはいません。
このコラムでは、さらに続けます。


◇油断も、スキも…

私は、いずれにしても、この作戦計画や陰謀計画を立案し、準備し、進捗状況を管理調整していたのが、簗田政綱(やなだ まさつな)ではなかったであろうかと思っています。

織田信長と、その家臣の簗田政綱(やなだ まさつな)による「義元の桶狭間への誘導・討取計画」に、水野信元、瀬名氏俊、蜂須賀小六らが活発に働き、松平元康や水野勢などの三河勢が協力したことで、桶狭間の地で、義元を討ち取ることが可能になったのではないかと思っています。
ひょっとしたら、今川軍の朝比奈系の三武将も寝返ったか、あるいは状況を静観したか…。

となると、陰謀を知らずに、死んでいった武将は、今川軍だけでなく、織田軍の中にもたくさんいたのか…?
やはり、この戦いの陰謀を、公(おおやけ)にされては困る者たちが、味方にも敵にも、たくさんいそうですね。

「信長公記」を残した太田牛一も、ギリギリで消されずに済んだのかもしれません。
あるいは、後の権力者が、厚遇のまま管理下に置いた…。
多くの者たちが、黙ったまま、墓場に持っていったのかもしれません。

この戦いは、幾つもの幸運が重なって、信長が勝利をつかんだともいわれますが、そうそう幸運が重なっただけで勝てるはずがありません。
運などではない、陰謀や暗躍が幾つも重なって、勝利を呼び込んだように感じます。
それぞれの陰謀がひとつでも狂っていたら、成功しなかったかもしれませんね。

* * *

よく「油断も隙(スキ)もない」という言葉表現がありますが、いつの時代も、人は、小さな「気の緩み」だけでは、負けたり失敗したりしないものです。
「負けるはずがない」という絶対的な思いが、自分の中に生れた瞬間に、人は負けたりもします。

大きな「油断」と、目に見えない「隙(すき)」がどのように生まれたのか…。
この二つが、どうして義元に生まれ、信長には生まれなかったのか…。

信長の勝因と、義元の敗因のまとめは、次回のコラムで…。

マップの「C」地域の番号の場所についても、次回書きます。


 

コラム「麒麟(32)桶狭間は人間の狭間(14)引き寄せるもの」につづく。

 

2020.8.13 天乃みそ汁

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