ねずみ小僧 次郎吉の謎。悪党なのか義賊なのか。本人なのか別人なのか。大名家の蔵屋敷の闇。東京・人形町・浜町。

 


 

みゆきの道(12)ねずみに小判


コラム「みゆきの道(11)座頭とTheマネー」では、東京都中央区の人形町や浜町の「座」や芝居文化の歴史、金座と銀座、座頭市とザトウクジラ、信長の楽市楽座などのことを書きました。

今回のコラムは、クジラにつづき、江戸時代の人形町や浜町にいた、有名な生き物のことを書きます。


◇浜町の「ねずみ」

江戸時代の人形町と浜町のお話しは、いよいよ、今回でひとまずお開きとなります。
最後に、どの話しを書こうかと考えて、この人物のことにしました。

江戸時代の江戸の浜町の最大の有名人…、私はおそらく、この人物ではないかと思っています。
「ねずみ小僧、次郎吉(じろきち)」です。
あの泥棒稼業の次郎吉のことです。

実際は、石川五右衛門のように、歴史に名を残すような大泥棒ではなかったはずです。
後にルパンと、渡り合うような豪快さも持ち合わせては、いなかったでしょう。

ですが彼の処刑後、思わぬ展開の後、現代の今でも、その名を知らない人がいないくらいの、有名な泥棒になりました。
良くも悪くも、この人形町や浜町でなければ、このような有名な泥棒は生まれてこなかったのではとも思っています。

* * *

次郎吉は、生涯で100件以上の泥棒を行ったといわれています。
ですが、自分の犯したものでない事件も、自身の泥棒稼業を大きく見せるため、自分の事件だと語ったものも多かったといわれています。

ただ、泥棒の仕方としては、大名屋敷を犯行先にしぼり、高額な品物の盗みではなく、金銀などの銭専門で、殺しもなかったようです。
おそらく品物の値打ちを見定める力量がなかったか、あるいは単独犯のため、すぐに使うことのできる銭だけに盗品をしぼったのかもしれません。

俊敏な身のこなしではあったようですが、体格は非常に小さかったそうで、前職のとび職も長続きしていません。
最後に捕まる際も、抵抗しなかったようですので、腕力や体力もどの程度だったでしょうか…。

彼を見せしめにする「市中引き回し」の際に、見に行った人の印象では、悪党とは思えないような貧相な姿で、まるで普通の町人だったそうです。

* * *

盗みの仕方は、昼間に侵入しておいて、夜になるまでどこかに潜んでいて、寝静まってから活動しはじめたようです。
まさに、「ねずみ小僧」ですね。
その当時、すでにその名で呼ばれていました。

単独犯なだけに、なかなか捕まらなかったのでしょう。
荒っぽい石川五右衛門とは大違いです。


◇お縄

かんたんに、彼の生い立ちを書きます。

芝居小屋、遊廓(人形町は、吉原に移転する前の遊郭です)、大名屋敷、金が舞う歓楽街…、江戸時代、この人形町や浜町の地域は、華やかさと暗さ、貧困と富裕が、隣り合わせの街であったようです。

次郎吉は、1795年、浜町に生まれます。
父親は、芝居小屋「中村座」の木戸番の仕事をしていました。
「中村座」の下働きであったのだと思います。
ここで「中村座」と関係があったことが、彼の名が、歴史に残った大きな要因だったと、私は思っています。

建具職人、とび職などを経験しますが、長続きせず、25歳のときに父親から勘当されます。
賭博(とばく)が好きで、その資金を得るために、泥棒を始めます。

一度 捕まり、入れ墨され、江戸追放となり、上方に行きますが、江戸の浜町に舞い戻って来ます。
好きな賭博の資金を得るため、大名屋敷にしぼって、泥棒を90回以上は行ったと、自ら語っています。

* * *

この地域に、大名家の蔵屋敷がたくさんあったことは、ここまでの「みゆきの道」シリーズで書いてきました。
ですから、他の地域の大名屋敷とは少し違うのです。

「蔵屋敷」とは、蔵を兼ねていますので、多くの品物と同時に、商売用の金がザクザク置いてあるのです。
そのわりには、藩士が少なかったりしますし、業者や人足たちの出入りがたくさんあります。
昼間のうちに紛れ込むのは容易だったでしょう。

蔵の暗い隅っこにでも、ねずみのように隠れていたら、まず見つからなかったと思います。
もし盗みが家主に発覚しても、大名家は自己責任でしたし、家の恥でもあるため、なかなか奉行所に被害届を出さないことも、彼は知っていたはずです。

金を盗んでは賭博、盗んでは賭博の繰り返しだったようで、芝居やテレビドラマのように、貧しい人たちに金を配ったという事実はなかったようです。

おそらく、その筋の親分たちに借金を返していたでしょうから、親分たちは、その資金がどこから来ているかは、当然知っていたでしょう。
そうでなければ、盗んだ金の洗浄もできませんね。

その筋の者たちは、まるで ねずみのような小男が、夜な夜な、どこから金を集めてきたかを、とっくに知っていたはずです。
蔵に潜む「ねずみ小僧」と呼んで、その名前だけが広まっていっても不思議はありませんね。

1832年、38歳のときに、浜町(今の有馬小学校のあたり)にあった、上野国(今の群馬県)小幡藩(おばたはん)松平家の中屋敷に泥棒に入った際に、藩士たちに捕まります。
三か月後、派手に化粧をほどこされ、市中引き回しにされた後、「小塚原(こづかっぱら)」で処刑されます。

上野国の小幡藩は、まさか、こんなことで、その名が後世まで残るとは思ってもみなかったでしょう。

ここまでなら、犯罪者が「お縄(おなわ / 捕縛のこと)」となり、処刑された、そうそう珍しくない話しです。


◇義賊の誕生

おそらく「中村座」の人たちは、次郎吉のことをよく知っていたのではないでしょうか。
泥棒稼業のことも、知っていたのかもしれませんね。
彼の生い立ちも、性格も、考え方も、よく知っていたでしょう。

前述のとおり、江戸時代、この地域は、芝居小屋、遊廓(人形町は吉原に移転前の遊郭で、1657年に移転します)、大名屋敷、金が舞う歓楽街…、華やかさと暗さ、貧困と富裕が、隣り合わせの街でした。
その身分の格差を、まざまざと見せつけられる地域でしたね。

中村座や市村座などの大きな芝居小屋が、浅草に移転する前の、人形町や浜町の時代です。
遊廓はなくなっていましたが、花街の雰囲気はたっぷり残っていたはずです。
もちろん、歓楽街ですから、賭博場は数えきれないほどあったでしょう。
彼も、毎晩、賭博場のはしごだったかもしれませんね。

* * *

こうした歓楽街の芝居小屋のすぐ近くで生まれ、さまざまな身分の人を見ているうちに、少年の頃に、賭博場で「人生一発逆転」を考えても不思議はありませんね。
もはや悪循環を止めることは、本人はもちろん、周囲の人たちもできなかったのかもしれません。

勘当や、妻との離縁は、どのような状況で行われたのかは、わかりません。
彼の死刑判決の際、勘当や離縁をしていたため、家族には処罰は及ばず、彼本人だけのこととなります。
この件で連座性の罪人がなかったのは、別の要因があったのかもしれません。

彼の生涯を知る周囲の人間たちは、どんな感慨を抱いたでしょうか。
「ねずみ小僧」が、ひょっとしたら自分であってもおかしくはなかったと感じた人もいたでしょうか。

彼が、もし浜町で生まれていなかったら、また違った人生が待っていたのかもしれませんね。
周囲の人間が、彼を、実際にはなかった美談の主役として、歴史の中に残そうとしたのかもしれません。
せめて、死後は、「真人間(まにんげん)」にしてあげようと…。

彼の死後、泥棒だったとはいえ、権力者たちから金を奪い、貧乏な庶民たちに金を配る「義賊」として、人気芝居の主人公になります。

* * *

現代は、民主主義・自由平等の法治国家ですので、犯罪には一定の刑や社会的な評価が下されます。
江戸時代は、封建社会ですから、今以上の大格差社会です。
自由な言動もかんたんではありません。
庶民の訴えや苦境など、権力者側には、痛くもかゆくもありません。

そんな時代に、権力者から金を奪ってくるという犯罪が、今現代の社会的評価と違うのは当然ともいえます。
芝居で彼を美化することが、権力への ささやかな抵抗であったとしても不思議はありませんね。

おそらく、この美談のようにつくりかえられたストーリーは、権力者側にも、理解してもらえる人も多かったでしょう。

彼のお墓は、その墓石の一部を削って持ち帰ることで有名な、東京両国の回向院(えこういん)や、彼の母の故郷である愛知県蒲郡市の委空寺のほか、各地に供養墓があります。

もはや彼は「泥棒あつかい」されては、いませんね。
立派な「義賊あつかい」です。


◇重要な情報を…

ここまで何となく美談の様相で、この話しを終えそうな雰囲気ですが、それでは本コラムではありません。
「美談の、いい気分」を打ち破ってみたいと思います。

疑問点だらけの、この「捕りもの劇」を、本コラムならではの視点で、私なりに少し考えてみたいと思います。

まず、大きな疑問点だけあげてみます。
◎単独犯として、ひとりだけ処刑されたこと。
◎市中引き回しにするほどの罪なのか。また、どうして顔に化粧をほどこしたのか。
◎捕まった時に、ほぼ無抵抗だったのはなぜか。そもそも、これだけの成功回数の泥棒が、なぜこんな簡単な捕まり方だったのか。

私は、腑(ふ)に落ちないことだらけです。
歴史ファンとして、私には、何か、暗躍の匂いがします。

* * *

本命の犯人を捕まえる時に、よく小物を先に別件で捕まえておき、そこから連座制で、本命である大ものを逮捕する手法は、今も昔もかわりません。
江戸時代も、もちろんそうです。

連座制で、共犯者や、関係する悪党たち、ついでに同じ穴のムジナたちを、一網打尽にすることが当たり前の時代です。
まったく連座制の捕縛がなかったのは、どうしてなのでしょうか?

一応、調べた範囲では、連座制がなかった理由は、わかりませんでした。
彼の元の家族は、悪事とは関連が薄いようですので、連座制適用外であったことは理解できないこともありません。

あくまで想像ですが、何かの暗躍、取引きなどがあって、単独犯行として処理し、処刑は彼ひとりとなったのかもしれません。

* * *

大名家の屋敷である江戸藩邸には、上屋敷・中屋敷・下屋敷・蔵屋敷など、さまざまかたちがあり、その役割や機能が分かれていました。
その役割や機能にあわせて、屋敷の呼び名が変わります。
「蔵屋敷」は、文字通り、貯蔵庫としての蔵の機能を意味しています。

地元の特産品や米などを、船で江戸まで運んで、この蔵屋敷に貯蔵するのです。
ですから、ここでは取引きもありますから、金もあります。
正規の品物ばかりではなかったでしょう。
密輸品、密造品、麻薬、武器、弾薬、贈答品、賄賂の品や金、隠し米、隠し金…。
時には、暗躍する隠密スパイ、遊女、逃亡者までいたかもしれません。

以前のコラムで書きましたが、西郷隆盛と勝海舟が、極秘会談を行ったのも、芝の薩摩藩の「蔵屋敷」です。
窓もほとんどないような蔵の中です。
人の出入りも目立ちません。

まさか、大名家の上屋敷の座敷で、庭のながめながら、茶をすすり、「毒まんじゅう」は食べません。

ひょっとしたら、「ねずみ小僧次郎吉」は、大名家の蔵屋敷に潜んでいるうちに、何か、たいへんなことを見てしまったか、聞いてしまったということはないでしょうか。

これが、いち大名家のことだけでなく、幕府の幕閣あたりがからんでいたら、一大事です。
次郎吉は、これほどの数の盗みを行った罪人ですから、「ゆすり」、「たかり」のたぐいを行っても不思議はありません。

最初は、出来心のゆすりでも、そのうちに、にっちもさっちも いかない事態まで進んだかもしれませんね。
賭博場の暗躍一味と、大名家が、よからぬ事で つながっていたら、両方を敵に回してしまいます。

暗躍一味は、大名家とつながっていなかったとしても、幕府や大名家から、「連座捕縛はしないから、秘密を知っている ねずみ小僧を差し出せ」と言われたら、従うしかなかったでしょう。

いずれにしても、次郎吉は、誰か強いチカラから、「単独犯として、遠島の刑にしてやるから、お縄になれ」と命令されたら、もはや捕まるしかありませんね。
勘当や離縁していたとはいえ、家族や知り合いが人質に取られていたら、もう逃げられなかったかもしれません。

* * *

どうも、この筋書きがあるような簡単な捕縛劇は妙です。
連座制がなかったのも、不思議でなりません。

もともと、大名家の一部の人間が、わざと金を盗ませて、資金洗浄の後に、懐(ふところ)にバックさせていたということはなかったでしょうか。

大名家どうしで、裏金の作り方の情報交換をしていたり、どこかに、裏金作りの指南役がいても、まったく不思議ではありません。
蔵屋敷の中で、米や品物の相場操作を相談していた可能性だってあります。
もし、これに麻薬や密輸などが絡んでいたら、どんな事情であろうと、その藩は改易、減封、転封になる可能性もあります。

もし、次郎吉が何らかの重要情報を握っていたとしたら、単なる、盗みの常習犯の逮捕事件では済まされません。
自分の犯行ではない盗みまで、自分の犯行だと次郎吉が語っていることも、何か解せません。


◇ねずみは、何処へ…

私が腑(ふ)に落ちないのは、もうひとつ、顔に化粧をさせて「市中引き回し」を行ったことと、見物人の「大罪人には見えない貧相な小男」という意味あいの言葉の存在です。
わざわざ、こんな庶民?の言葉を、文書に書き残す必要があるのでしょうか。
あたかも、気弱な単独犯の仕業を演出しているかのようです。

「顔に化粧」の意味もわかりません。
ひょっとして、次郎吉ではない…?

何かの条件で、身代わりに死ぬことを引き受けた者がいたということはないでしょうか?
病気の母や子がいる…。
借金取りに追われ、家族だけは助けてあげたい…。
どうせ死刑なら、遺族に大金を残してあげたい…。

身代わりの人物を探すのに、苦労はなかったかもしれませんね。

* * *

「ねずみ小僧次郎吉」を、ある時 消滅させ、もう一度 人生をやり直す…。
そんな条件で、次郎吉を抱き込んだということもないとはいえません。
ひとりの処刑だけではすまされないほど、心配な重大な秘密を知っていたかもしれませんね。

どうも、その後の美談の芝居も、やり過ぎのように感じなくもないです。
大盛況で、芝居小屋は大繁盛です。
まさか、本物の次郎吉が生きていて、芝居小屋で「次郎吉」役を演じていたなんてことはないでしょうね…。
次郎吉が、実は、父親と同じ、「中村座」の木戸番の仕事をしていた…、なんて芝居のオチだと、実はもっと面白かったりして…。

* * *

歴史の表側にある、全体の出来事と、芝居小屋の芝居が、よくでき過ぎていて、何か妙な気分になります。

歴史ファンとしては、歴史の中の暗躍を見過ぎてしまっているのか、想像が膨らむいっぽうですね。

歴史の中では、実際の暗躍は、ほぼ、どこかに消えてしまいます。

ねずみは、いったい何処へ行ったやら…。

「ねずみ小僧次郎吉」が、そう やすやすと「ねずみ捕り」に引っかかるとは、到底 思えません。


◇屋根の上の「ねずみ小僧」

前述のような、夢のない話しで、この小僧さんのお話しをしめるのは、江戸の粋ではないので、ちょっとカッコいい「ねずみ小僧」を紹介します。

今、「ねずみ小僧」の大きな像が、浅草寺の近くの伝法院通りの、あるお店の屋根の上に設置されています。
浅草公会堂の前に行きましたら、少し上をながめてみてください。

まさに、「中村屋」のあの方にそっくりな「ねずみ小僧」がいます。
おそらく、本物のねずみ小僧よりも、はるかに色男なのだと思います。
さすが浅草ですね。

* * *

「ねずみ小僧」の像は、もしかしたら、この浜町にこそ ふさわしい気がしないでもないですね。

「ねずみ小僧」が生まれてこないような時代は、ここまでの日本の歴史にはありませんでした。
被害者は、何かのきっかけで加害者になったりもすると、よく聞きますね。

「ねずみ小僧」は、今でも、芝居やテレビ、映画にたくさん登場しますが、できるなら、自分自身が、次郎吉のように、その闇から抜け出せなくなるようなことのないよう、屋根の上を悠々と歩く、お金に興味のない「猫」でいたいような気もします。


◇ねずみも、猫も…

若い世代の方々、若くない世代の方々も…、闇に潜むたくさんの「ねずみ」たちは、皆さんを手招きしていますよ。
こっちの世界は楽しいよ…。
ねずみたちは、笑顔で手招きし、誘ってきますよ。

時には、猫が、ねずみの振りをして、手招きすることもあります。
「猫に小判」のはずの猫たちは、ねずみを、食べるかわりに、飼いならしているかもしれませんよ。
現代の悪党たちは、下の写真のような、いかにもの「ほっかむり」をしていませんよ。

義賊か、泥棒猫か…、しっかり見分けてくださいね。
義賊は、突然の電話ではやってきませんよ。



人形町や浜町に関連する、何回かの「みゆきの道」シリーズ・コラムでは、いろいろな場所や人物が登場しました。

有馬家、細川家、西郷隆盛、平重盛、マダム貞奴、渋沢栄一、中村勘三郎、市川左團次、三田政吉、重盛永治、辻村寿三郎、川上音二郎、明治一代女(お梅)、竹本義太夫、近松門左衛門、ねずみ小僧次郎吉、水天宮、芝居小屋、寄席、銀座、明治座、甘酒通り、人形師、くじら、人形焼き、浜町公園…、
ほか たくさん。

歴史いっぱいの、人形町・浜町・蛎殻(かきがら)町ですね。
幕末から明治時代へ向かう「みゆきの道」という視点で、この町のことを書いてきました。


◇日比谷に戻ります

この「みゆきの道」シリーズは、江戸城の桜田門から歩き始め、「日比谷(ひびや)公園」まで来たところで、まずは芝・三田地域の大名屋敷地域と、「聖なる地シリーズ」で高輪(たかなわ)地域に寄り道し、幕末に大勢力となった薩摩藩島津家と久留米藩有馬家という ふたつの異なるタイプの大名家のこと、その流れで、人形町や浜町、浅草の一部まで訪れました。

そして、江戸時代の幕末から明治維新にかけての、社会変化や人の心情の変化を中心に書いてきました。
ここで、再び、「日比谷公園」に戻りたいと思います。
日比谷は、本来、明治維新で、東京の最中心部になるはずだった場所です。

いよいよ、明治維新の側面の一部について書いていこうと思っています。
ですが、学校の教科書にあるような明治維新のお話しは、そちらにお任せし、ほぼ書いてない、別の視点で書きたいと思っています。

* * *

本コラムの「みゆきの道」シリーズの「みゆき」とは、もちろん明治天皇の「御幸」、「御行」、「行幸」のことです。

まだ、コラムの歩みは、東京銀座の「みゆき通り」までたどり着いていませんが、日比谷はその通りのスタート地点となります。
このシリーズの終点は、隅田川のほとりで、まだ先が長いですが、どうぞお付き合いください。

「よどみシリーズ」、「みゆきの道シリーズ」、「麒麟(麒麟がくる)シリーズ」を、同時進行していきます。


「みゆきの道(13)鹿の群れ」に続く



2020.2.7 天乃 みそ汁

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