NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。明智光秀・斎藤道三を生んだ「美濃国」。天下を制する者が生まれる国。三英傑(信長・秀吉・家康)はどんな人が好み?

 

 

麒麟(2) 美濃国



◇「麒麟(きりん)」シリーズ

先日、コラム「キリンがくるッ!(麒麟.1)」を多くの方々にお読みいただき、感想もたくさん頂戴し、誠にありがとうございました。

その時に、読者の方々から、明智光秀について、ドラマ「麒麟がくる」の中で描かれなかった、光秀の幼少期や一族について、推測でもいいので書いてほしいというご希望が多数ありました。
他にも、いろいろ、重要な点だけを、わかりやすく書いてほしいというご希望をいただきました。

そこで、「麒麟(きりん)」シリーズを、急きょ つくることにしました。
知りうる範囲と、少し内容確認をした範囲で、少しずつ書いていきたいと思っています。

* * *

明智光秀については、確証がないというよりも、まったく不明という内容も実は多くありますので、それが正確な内容ではないというつもりでお読みください。
本コラムならではの、大いなる推測も、もちろん加えていきます。


◇主君選び

明智家に関する話しは、謎が多い分、研究者や歴史ファンしか知らない話しとか、まさか後世にこんな話しが…、ということも、実は少なくありません。


徳川家康が、明智の関係筋に、わりあい寛大であったことが、明智氏や土岐(とき)氏の復権や名誉の回復を生みます。

明智家と土岐氏の関係は、次回以降のコラムで書きますが、家康は、なぜか彼らにやさしい気がします。

もちろん、将来のためだったと思います。

一応、みな源氏の仲間どうしですし…。

家康は、良い歴史も、悪い歴史も、しっかり学んで、歴史の史実と 人物評価を、きちんと分けていたのかもしれません。
後で、家康の人間観察の話しを少しだけ書きますが、家康がいなかったら、美濃国の明智や土岐の一族は、完全に歴史のどこかに埋没していったかもしれませんね。
特に光秀は、空想のようにつくられた裏切り者として、歴史に刻まれていったかもしれません。

とはいえ、光秀が普通の武将であったなら、「本能寺の変」を絶対に起こすことはなかったでしょう。

どうして、あのタイミングで、あんな無茶を…、したの?、させられたの?

光秀の立場だけを考えると、その時(土岐)では、なかったのでは…?
謎めいた書き方で恐縮ですが、少しずつ書いていきます。

 

普通でない武将が、どうやって形成されていったのか…、歴史ファンたちには、たまらなく興味のわく部分です。

* * *

家康が、孫の家光(後の三代将軍)の乳母として「春日局(かすがのつぼね)」を選んだことは有名ですが、彼女は、明智光秀の最重要家臣 斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘です。
将来、将軍になるにあたり、「本能寺の変」や「戦国時代の美濃国(今の岐阜県南部)の話し」のことは、何より学ぶべき内容だったはずです。

江戸城には、織田家の血をひく、二代将軍 秀忠の正室の「お江(おごう)」がいます。
春日局と、城内で一戦まじえても、何の不思議もありませんね。
お江の息子を、春日局に預けるとは、家康の大胆さとその知略には、頭が下がります。
さすが家康です。
家康も、ひとの扱い方が普通ではありませんね。
歴史をしっかり理解し、説明できなければ、この二人の女性を納得させられなかったことでしょう。

* * *

明智光秀が、信長ではなく、家康に仕えていたら、まず、あのような生涯ではなかったでしょう。

とはいえ、あの段階では、まだまだ発展途上の家康という選択はありえませんね。

武田信玄というのも、むずかしいか…。
「主君」選びは、人生を左右しますね。
今も昔も、いつの時代も、まったく同じですね。


◇鉄砲と光秀

大河ドラマ「麒麟がくる」の初回では、光秀がすでに青年の姿で登場してきます。
そこまでの歴史が割愛されていることになりますね。

光秀については、両親も、親戚も、年齢も、出身地も、よくわかっていません。
一族や関係筋が、すべて消し去ったのです。


第一回の放送内容では、光秀が、京の医者や、堺の鉄砲商人と出会っていますが、これはおそらく、後に、光秀が、医療や鉄砲の知識をかなり持っており、それを買われて出世していくことを物語っているのだと思います。

ひょっとしたら、光秀は、主君であった斎藤道三(さいとう どうさん)から、鉄砲のことを詳しく教わったかもしれません。
道三ほどの武将が、鉄砲のことを知らないはずはありません。
信長も、光秀の鉄砲知識を放っておくはずがありませんね。

光秀の武器は、医療や鉄砲の知識だけでなく、その優れた広い「学識」と、「野心」であったと、私は思っています。
これだけの学識を、どうやって身につけたかは知りません。

それなりの身分の家に生まれていなければ、中国の古い軍学のことなどを知っているはずはありません。
どこかの寺ででも学問を学んでいなければ、広い教養や宗教心も備わっていなかったでしょう。


◇「制する者」が生まれるところ

さて、私は、「下克上(げこくじょう)」の戦国時代に、濃尾平野とその周辺あたり(岐阜県・愛知県・滋賀県・三重県・福井県)の、武家どうしの大抗争地域から、信長・秀吉・家康の「三英傑(さんえいけつ)」が、どうして生まれてきたのかと、昔から つらつら考えています。
三人が同じ地域なのは、けっして偶然ではないと思っています。


 

上の地図の青色の部分が、その地域です。
三英傑はもちろん、明智光秀、斎藤道三が生まれたのも、この地域です。

この地域を制する者が、天下を制する…は、どうしてなのか?

畿内(京都・奈良・大阪・兵庫)や、中国地方、新潟や山梨、北陸、関東ではなく、なぜ濃尾平野やその周辺地域なのか?

* * *

戦国時代、新兵器導入という意味では、京都や大阪から距離が遠いというのは、たいへんなリスクですね。
戦国時代の後期は、鉄砲を早く大量に導入するかしないかは、生死に関わります。

濃尾平野あたりは、北陸・新潟・山梨・関東よりも、はるかに畿内に近く、主要街道も整備されていましたね。
情報や物資が集まる畿内から、ちょうどよい距離のようにも感じます。

新兵器導入には、かなりのお金も必要です。財力のない武家には購入できません。
ただ、新兵器は、所有すればいいというものでもありません。
上手に使いこなせなければ、何の意味もありません。
場合によっては、兵器の改良も必要です。

* * *

では、畿内や中国地方の戦国武将は、なぜ濃尾平野あたりの武将たちから出遅れたのか…、あくまで個人的な考えですが、やはり「応仁の乱」の影響もあり、むしろ、すでに強い武将たちによる群雄割拠や、特定の勢力の支配などが、進みすぎていたか、あるいは、街の数が多く、発展しすぎていて街の周辺で戦いにくいとか、宗教勢力もたいへんなチカラを持っていたとか、中途半端にパワーバランスが進んでいたのではとも感じています。

中国地方では、毛利家という強大な武家が、短い期間に成長しましたが、毛利家のような強力な軍団に対抗できる勢力が、濃尾平野とその周辺域と同じように、たくさん存在して、武将どうしが、もっと長い期間もまれていたら、中国地方から天下の覇者が出てきていても不思議はなかったような気がします。
あっという間に、毛利元就(もうり もとなり)のもとに、多くの中小の武将たちが集結してしまいます。
戦わないと、武将は成長できません。
西国の武将たちよりも、東国の武将たちのほうが荒々しかったといわれれば、それまでですが…。

強大になったとはいえ、毛利軍の不利な点は、背後に有力な九州勢、畿内の手前の兵庫県あたりには、たいへんな武装勢力地域があったことです。
それに瀬戸内海の対岸には四国勢もいます。
水軍で瀬戸内海を制圧できても、畿内での陸上戦では問題がたくさんありますね。

その点、濃尾平野からは、基本的に陸上で畿内に入れますから、侵攻しやすい気がします。
滋賀県を攻略できれば、たやすく京都に入れますね。

* * *

歴史も古く、発展した畿内の地域には、野性味あふれる武将が、なぜか少ない気もします。
都会派…、穏健派…、街育ち…、それなりに富裕層…、カッコつけ…、娯楽や文化など誘惑がいっぱい…、妙に宗教心いっぱい…?
地方から来る、野心いっぱいの問答無用の荒くれ者たちには、圧倒されがち…、だったのでしょうか?

濃尾平野は、高い山脈と雪という大きな壁が、東国勢(新潟・山梨)から守ってくれていたような気もします。
問題は、大平洋側の東海地域の今川家ですね。

東国は東国で、東国勢どうし(上杉・武田・北条・今川など)の覇権争いで手いっぱいです。

戦国時代のある時期までは、畿内をおさえたら、「天下」の半分をおさえたも同じでした。
信長は、その安堵感から油断を生みます。

濃尾平野やその周辺地域が、他の地域よりも位置的に優位にあったのは、あきらかだと感じますね。


◇戦国の地

濃尾平野には、「美濃国(みののくに・今の岐阜県南部)」と「尾張国(おわりのくに・今の愛知県)」があります。
美濃国は、まさに濃尾平野のど真ん中です。

岐阜県北部は、ほとんどが山間部で、当時は「飛騨(ひだ)の国」です。
明治時代には、飛騨県、高山県、信州の筑摩県の一部を経てから、岐阜県に編入されますが、飛騨国は、美濃国とは、少し別に考えてもいいような気がします。

あくまで個人的な見解ですが、「戦国の地」という意味で、濃尾平野(美濃国・尾張国)の特徴を、もう少し書きます。

・土岐(とき)氏という、鎌倉時代からの有力で勇猛な源氏の一族がいた。
・宗教勢力が比較的少なかった。
・戦術的に使える大きな河川が三本もあった。
・豊かな農地がたくさんあった。
・城を作りやすい場所や、戦場にしやすい場所がたくさんあった。
・台風や大雨などはあっても、水不足や食料不足が少なかった。
・平らな濃尾平野は遠くまで見通しがきく。
・時に大雪で畿内と遮断できる。
・濃尾平野の南に大きな湾がある。
などなど他の地域にはない特徴が山ほどあります。

関東平野ほどではないにせよ、濃尾平野は広大で平らです。
長い外周を山に囲まれています。
大きな街や寺社も少なく、大きな三本の川に小高い丘…、まるで、自由に使える広大な戦場が目の前に広がっているようです。
これなら、陸上戦に強い武将が次々に生まれてきても不思議はありませんね。

* * *

信長は、奇襲戦法などの奇抜な戦術の天才。
秀吉は、調略などの情報戦や、城攻めの天才。
家康は、やはり情報戦や、広い原野での「野戦(やせん)」の天才。
でしたね。
秀吉と家康が戦って、結局 決着がつかなかった戦争が行われたのも、この濃尾平野でした。
「あ・うん」の呼吸といいますか、決着をつけないところが、この二人の「天下人」ならではですね。

* * *

「三英傑(信長・秀吉・家康)」は、もともと、海の戦いは不得手だったかもしれませんが、陸上戦では、まず負けません。
負けないというより、敗れても、逃げが非常に上手で早いのです。
そこからの反撃も早いです。
信長は、鉄でおおわれた巨大船までつくって大反撃し、海戦に勝利しますね。

三英傑のすごさは、失敗を繰り返しません。

戦闘準備の期間も非常に長く、ち密で入念です。
逃げや敗戦を設定しない戦いなどに、だいたい出陣しません。
上杉軍や武田軍、毛利軍、今川軍、北条軍とは、何か差がある気がします。

濃尾平野で もまれた武将たちが、天下を取るのも、不思議ではありませんね。
本来、濃尾平野あたりの戦いでは、「裏切り」も想定していなければ、まず勝てません。
いずれ、土岐氏が没落するのも、これらへの想定の甘さが原因になります。
次回以降に書きますが、道三の想定の眼力には驚かされます。

* * *

一方、濃尾平野のお隣の福井や滋賀の武将たち(朝倉・浅井・六角など)が、みな腹黒ばかりで、何かと「裏切り」に関与してくるのです。
そして、決着をつけずに、頃合いを見計らっては、すぐに地元に戻っていくのです。
もちろん戦術です。
こうした地域で、忍者の一族が成長していくのもわかる気がしますね。
環境が人をつくります。

濃尾平野の武将たち…、どんどん知恵をつけていくことになりますね。

濃尾平野やその周辺地域は、まさに「戦場の王様」、「戦いの聖地」ではなかったかと、私は思っています。
「裏切り」を「悪」と考えたり、ちゅうちょした武将は、濃尾平野では「死」を意味したのかもしれませんね。

* * *

濃尾平野あたりの武将たちの最大の問題は、まずは、濃尾平野を統一あるいは制圧しなければならないことです。
うかつに畿内に侵攻しては、背後を敵に襲われます。

これは、滋賀や福井の武将たちも同じですね。
とにかく、背後の濃尾平野に強大な勢力が生まれては困るのです。
かといって、そこを勢力範囲にするには戦力を削がれてしまいます。
みな、狙うは畿内です。

濃尾平野の多くの武将たちは、天下云々と言う前に、まずは「美濃」と「尾張」を手中にすること…。
それが第一関門ですね。


◇美濃国

濃尾平野は、栄えた街がまだまだ少なく、畿内ほど発展していません。
おそらく、濃尾平野あたりの有能な武将たちに、何よりチカラを貸したのは、この、まだまだ発展していないという状況だったと思います。

大坂の堺あたりにある最新兵器や、最新の戦闘技術などの情報が、あまり入ってきていなかったことです。
ですから、情報収集能力や、それを購入できる資金力さえ持っていれば、敵に圧倒的な差をつけられるのです。

織田信長が、鉄砲や長やり、馬房柵、鉄甲船など、新兵器の情報をやっきになって探し回るのもわかる気がします。
彼は、地形や土壌のこと、気象天気のこと、人集めの方法、資金を集める方法、城の建築方法なども、徹底的に研究しますね。
後の豊臣秀吉の「一夜城」の建築工法や、楽市楽座のアイデア、穴太衆(あのうしゅう)などの城の石垣職人集団も、こうしたものの一つかと思います。

* * *

とにかく美濃国には、天才的なアイデアマンで情報収集の天才、斉藤道三(さいとう どうさん)がいましたから、並大抵の知恵では対抗できません。

たしか「麒麟がくる」の第二回では、斎藤軍4000名の兵力で、織田軍2万の兵力を撃破する場面が出てきましたが、濃尾平野は、そうしたことが当たり前のように起きています。
斎藤道三がいたから、他にも知略のすぐれた武将が、次々に生まれてきたといってもいいのかもしれません。

こうやって下克上を行うのか…、城を攻めるのか…、戦で戦うのか…、陰謀や暗躍をめぐらすのか…、など、斎藤道三の存在が、濃尾平野の武将たちに与えた影響は計り知れないような気がします。

同じ頃、広島県あたりには、毛利元就(もうり もとなり)という、やはり知略に優れた大天才武将がいましたが、対抗できるような武将が少なく、比較的、短期間に大勢力にまで成長しましたね。
前述しましたが、あっという間に、中小の武将は元就のもとに集結します。
濃尾平野やその周辺地域は、簡単には集結しません。

* * *

戦国時代最強の軍師、竹中半兵衛も、この時代の美濃国で生まれています。
まさに美濃国(岐阜県南部)の斎藤家の家臣から、信長ではなく、秀吉の軍師となります。
彼のその優れた知略は、黒田官兵衛へと受け継がれていきますね。

半兵衛も、官兵衛も、「主君選び」を間違えませんでした。
さすが「両兵衛」です。

現代でもそうですが、失敗する人は、たいてい相談する相手を間違えています。

こうした知略は、戦いだけに活きるわけではありません。
それぞれの生き方や生き残りに関わってくる話しです。

* * *

武将たちは、戦いを通じて、知略を学び、軍学を学び、生き残る方法をどんどん学んでいきます。
知識や教養と比例して、武将の武力は大きくなっていきます。
そして、より強い武将だけが生き残っていくのです。

「三英傑(信長・秀吉・家康)」や竹中半兵衛の、常人を越えた知略は、元をただせば、斎藤道三が誕生させたのかもしれないと、個人的には思っています。

さらに、道三も含め、こうした知略にすぐれた武将たちを次々に誕生させたのは、美濃と尾張という地域そのものだったような気もします。
他の地域から、天下まで たどりつけた戦国武将が出なかったのは、こういうことなのかもしれないと、個人的には感じています。

謙信も、信玄も、政宗も、官兵衛も、何かが足りなかった気がします。
彼らが、濃尾平野で誕生し育っていたら、天下を取れたのかもしれませんね。


◇どんな人が好み?

さて、斎藤道三は、信長や光秀など、とにかく頭のいい人間が好みだったと思います。

私のあくまで印象ではありますが…、
信長は、自分の考えやアイデアをすぐに正確に理解できる人間や、それをすぐに的確な行動にかえられる人間が好みだったのではと思っています。
豊臣秀吉や明智光秀は、そのタイプですね。
その逆が、腕っぷしが頼りの柴田勝家のようなタイプです。でも、軍団には、こうしたタイプは不可欠ですね。

信長は、あまり説明をしないタイプだったと思いますので、自分の短い言葉を理解できない家臣には、烈火のごとく怒ったことでしょう。
「もっと、わしのように勉強し、研究し、努力しろ!」
信長は、期待する家臣ほど、怒る、叱るという行為を行ったのではないかと感じています。

* * *

秀吉は、自分に敵意を示さない人物であれば、誰でも味方に引き入れようとしますが、相手が自分の思いどおりにならないとみるや、すぐに対策を取り始めます。その打開策が、これまたすごい。
自分から、相手に強い敵意や威圧感を示すのは、もう勝ちが見えたときだけです。

また、いつも、自分の駒として、家臣や相手を見ていたふしがあります。
家臣に対しては、適材適所という考え方があったかも少し疑問です。他の基準が、秀吉の中にあったようにも感じます。

農家の出身でも、強引に、由緒ある武家をとりこんで、幕府を作れないわけではなかったとも思います。
ですが、つくりません。
これは、基本的に、武将や武家という思考がなかったからとも感じます。

「下克上」なんて、どこかの武家の武士のこと…、わしはわしの道をゆく…。
とにかく、考えの中心にあるのは、自分自身、せいぜい親と子、妻だったのかもしれませんね。

信長に対して、どれほど、「主君」という意識があったのかとも思います。
その点は、光秀も同様だと思います。
秀吉の最後の時期は、自分の顔色をうかがう者しか、好みではなかったかもしれませんね。

* * *

家康は、その生涯の苦労の多さを反映してか、とにかく いろいろなタイプの人間を、たくさんまわりに置きます。
好き嫌いは、二の次のようです。
甲賀忍者も、ライバルの伊賀忍者も、仏教ならどこでも、天下を狙わない武将なら、みんなまわりに置け…。
もともとキリスト教も、外国も敵視していたものではありません。

家臣のそれぞれの長所短所、家のつながりや歴史、バランス、競争意識をよく考慮し、適材適所をよく考えていたと思われます。
今の学校にあるようなクラス替えもよく行っています。
人の組み合わせは、事の成否を左右することがありますよね。
プロ野球で優勝するチームとは、そうしたものですよね。

秀忠軍担当の武将や、豊臣家へのスパイも含め、「関ヶ原の戦い」をめぐる、家康の適材適所は見事というしかありません。
家康のすごいところは、家臣でない武将たちをも、適材適所で使いこなしたことです。

家臣たちの個々の能力の最大化をよく考えていた反面、最小化させるシステムも考え出しますね。
巨大組織の運用と管理は、個々のメンバーの能力の最大化や適材適所だけでは維持できませんよね。
見事なバランス感覚です。
だからこそ、270年間の江戸時代ができ上るわけですね。

ですから、家康の、バランス感覚や、そうした考え方を理解し賛同できない者は、好みではなかったと思います。
前述した、春日局の登用の話しも、同じ発想からきているのだと感じます。

* * *

とにかく教養と思考能力は、武将の生き残りの生命線でした。
こうした能力は、特に濃尾平野あたりの武将だけが持っていたということではありませんが、この濃尾平野あたりなら、磨かれた可能性は高いかもしれません。
自分で学ぼうとしなくても、敗れていった武将たちをよく研究すれば、おのずと能力は身についていったのかもしれません。

家康は、土岐氏、斎藤家、浅井家、朝倉家、織田家、明智家、豊臣家など、多くの武将の失敗を学んで、最後に大舞台に登場してきた戦国武将でしたね。


◇土岐氏

美濃国での、斎藤道三の「成り上がり」の歴史は、多くの武将たちの手本になっただろうと想像します。
そして、その強力な斎藤道三を生んだ大元こそが、美濃国の「土岐(とき)氏」です。

明智光秀を語る上で、戦国時代の美濃国の守護大名、土岐氏の動向は欠かせないかもしれませんね。
光秀の人生観をつくりあげるのは、濃尾平野あたりの、土岐氏や斎藤家に関連した、多くの武将の抗争劇そのものだったとも感じます。

本コラムの「麒麟」シリーズでは、光秀をたどりながら、少し戦国時代のことを書いてみたいと思っています。
何を具体的に書いていくか、考えている最中です。

* * *

ひとまず次回は、今の岐阜県・愛知県・三重県を勢力下においていた土岐氏について、少し書いてみたいと思います。

鎌倉時代から、長いあいだ、源氏の大勢力であった名門武家の土岐氏が、まるで一夜のごとく短期間に没落するとは、想像もしなかったでしょう。
濃尾平野だったからこそ 実現できた、絵に描いたような「下克上」劇です。

まさに、光秀のすぐ目の前で起きた、大下克上劇です。
このことが、彼の人生観に影響しないはずはありませんね。

この土岐氏の没落模様は、斎藤家でも同じことが起きます。
ある意味、朝倉家も、浅井家も、織田家も同じです。
光秀は、土岐氏にからんで、一度目は敗者側、二度目は勝者側、三度目は敗者側です。そして四度目は敗者側にまわることは、絶対に避けようとします。
彼は人生の岐路に何度も立ちます。
最後の岐路は「主君選び」ではありませんでしたね。

本コラムの「麒麟」シリーズでの、果てしない「下克上」の旅…、「麒麟」はやってくるのでしょうか…。

読者の皆様が、大河ドラマ「麒麟がくる」を見る際に、本シリーズが、少しでも 参考になればと思っております。

* * *

本コラムは、「みゆきの道」シリーズ、「よどみ」シリーズ、「麒麟」シリーズの三本立てで、同時進行していきます。


コラム「麒麟(3)水色桔梗」に続く

 

 

2020.1.28 天乃みそ汁

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