浜町の明治座と浜町公園。川上音二郎と川上貞。マダム貞奴。明治一代女と金色夜叉。新劇の真砂座。三田政吉と濱田家。蝶々夫人「マダム・バタフライ」。

 


 

みゆきの道(10)The 浜町・後編


コラム「みゆきの道(9)The 浜町・前編」では、浜町や人形町の芝居文化、浅草の江戸三座、吉原や山谷堀のことなどを書きました。
今回は、その浜町(はまちょう)のことや、江戸の演劇文化の歴史を書きます。


◇歴史ある明治座

今、浜町にある「明治座」は、浜町の隣の久松町に1873年(明治6年)に開業した「喜昇座」から始まり、「久松座」、「千歳座」を経て、1893年(明治26年)、初代市川左團次が千歳座を買収し、「明治座」として再スタートさせました。

9代目市川團十郎、5代目尾上菊五郎、初代市川左團次の三人による、歌舞伎の「團菊左時代」のことは、前回コラムでご紹介しました。
「新富座(旧守田座)」のトップ(座頭)でもあった左團次は、明治座をてこ入れし、さまざまな芝居の新機軸を打ち立てます。
生涯最後の舞台も、明治座でした。
その後、明治座は、歌舞伎や、前回コラムで書きました「新派」の大劇場になっていきます。

そして、関東大震災で焼失後、今の浜町に移転しました。
さらに、東京大空襲で焼失後は、松竹や松坂屋、実業家の三田政吉(みた まさきち)らのチカラで復活します。
その後の焼失でも、三田政吉の尽力で明治座は復活します。
三田政吉とは、テレビでよく見かける、あの方の祖父ですね。

* * *

前回コラムで、江戸時代の「江戸三座」のことを書きましたが、「守田座(森田座)」は「新富座」となりますが関東大震災で消滅、「市村座」は大正時代に黄金期をむかえますが、昭和初期に消滅しました。
「中村座」は明治期に消滅していましたが、今は、時折、期間限定で復活しています。
ですから、かつての江戸三座は、常設の芝居小屋として残っていません。

「市村座」なきあと昭和の時代に、「明治座」は、東京新橋の「新橋芸妓協会」がつくった「新橋演舞場」(大正時代に建設)、オペラやバレエも上演できる「帝国劇場(帝劇)」、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」とともに、この四つが、東京のエンターテイメントの大劇場の中心となります。

そして門戸も広がり、芸能ショーや現代劇も開催されるようになっていきます。
今や、関連ビジネスをかかえる大劇場ですね。

下の写真は、今の浜町の「明治座」です。

 

「江戸三座」以外の、明治時代まで残った他の主要な芝居小屋のうち、京橋の澤村座、蛎殻町の中島座、四谷の桐座、本郷の奥田座、芝の河原崎座、神田の薩摩座は、その後の経営難で消滅していきます。

猿若町から両国に移転した、人形芝居の結城座は、今も、東京都小金井市に劇団として残っています。
中村座は、前述のとおり、時折、期間限定で復活しています。

ですから、江戸時代の常設芝居小屋は、小屋名の開業年を厳密に考えれば、すべて残っていません。
結城座も劇団で、中村座も一時的な復活ですので、歴史が途絶えることなく続いているという芝居小屋はありません。

ただし、明治6年に開業の「喜昇座(きしょうざ)」から始まり、「久松座」、「千歳座」を経て開業した「明治座」だけは、江戸時代からの芝居小屋の流れを、途絶えることなく続けていると考えてもいいと思われます。

実は、「喜昇座」の前身は、江戸時代に江戸の両国にあった、富田三兄弟による芝居小屋で、明治政府による両国での芝居禁止令により、久松町に移転し、「喜昇座」という名称にしたものですので、その後の小屋名の改称や移転はあったものの、江戸の芝居小屋の歴史が途絶えていないといえます。
「明治座」のスタートは、実質的には、その名のとおりの明治時代ではなく、江戸時代だったのです。
とはいえ、初代市川左團次がつけた由緒ある座名を、今後 変えることは許されないかもしれませんね。

今後、江戸三座の常設芝居小屋の復活を、考えられないことではないのかもしれませんが、今は、東京に大劇場がいくつもありますから、当面あまり可能性はないような気がします。
「明治座」は、実は、東京のどの大劇場よりも歴史が長い、江戸時代からのたいへん貴重な存在ということですね。

明治座のサイト

* * *

ちなみに「現存する」日本最古の(大型本格の)芝居小屋は、香川県琴平町にある、1835年開業の「金丸座(旧金毘羅大芝居)」だそうです。

日本各地の小さな集落のお寺や神社にある、いわゆる「農村歌舞伎」の小さな芝居会場は「芝居小屋」とは言わないのかもしれませんが、相当に歴史の古そうな会場が多いですね。
「農村歌舞伎」の、芝居の風習そのものが残っているケースもあります。
「素人歌舞伎」とはいえ、相当なレベルのものもありますよね。
こんな山奥の村にまで歌舞伎があるのかと、その芝居文化の普及の深さに、たいへん驚かされます。


◇玄冶店の濱田家


今 この浜町の明治座の近くにある老舗料亭「濱田家(はまだや)」さんは、前述の三田政吉の父親である五三郎が、大正元年に創業したものです。

この料亭がある地名を、江戸時代は、「玄冶店(げんやだな)」といいました。

有名な歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛(よわなさけ うきなの よこぐし)」の中に出てくる、 劇中の「源氏店」のお富の家とは、この「玄冶店(げんやだな)」の家のことです。
昔の恋人の お富に再会した、与三郎の台詞「いやさ~、お富、久しぶりだ~な~」は、昭和生まれの方なら、子供の頃にものまねをしたものですね。
おじいちゃんやお父さんに聞いてみてください。
たいていの人は、上手に台詞を言ってくれると思いますよ。

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、 いやさ、これ、お富、久しぶりだ~な~。
お富:そういうお前は…。
与三郎:与三郎だ。
お富:えっ。
与三郎:お主(のし)、おれを見忘れたか。
お富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)。命の綱の切れたのを どう取りとめてか 木更津から…。

ここまで語れる方も、少なくないかも…。
そのくらい有名な場面でしたね。
この与三郎やお富の役は、歴史的な名優たちが、みな演じています。

* * *

昭和から平成まで活躍した、歌手の春日八郎さんの大ヒット曲「お富さん」のほうで知っている方も多いと思います。
歌詞の一部、「死んだはずだよ、お富さん。生きていたとはお釈迦様でも、知らぬ仏の、お富さん。え~さお~、玄冶店(げんやだな)」で、「玄冶店(げんやだな)」を知った方も多かったと思います。

この曲の、なんとも ただよう「歌舞伎感」と「与三郎感」、それに「料亭感」…、今の作曲家には、こうした「江戸感」をつくるのはむずかしそうですね。
歌詞にある「見越しの松」なんて、今の都会では、よほど広い敷地の大豪邸でしか見られません。
むしろ地方の古いお屋敷のほうが、たくさん残っていますね。

歌詞に出てくる、「明鳥(暁烏 / あけがらす)」、「地獄雨」、「茶碗酒」…、昭和の時代を感じる用語で、今はほぼ死語になりましたが、なかなか想像力豊かな、粋な表現に感じます。
つくづく、人の音楽表現は、その時代のあり様を映すものだと感じますね。

* * *

老婆心(ろうばしん)ながら、本日の成人式で成人になる若い世代の方々にちょっとだけ…。
新しくビジネスを始めたり、重要な交渉をする際に、こうした古い言葉表現を知っておくと、スムーズにことが運んだりすることが現実に多かったりします。
「見越しの松」は、はじめての名刺交換の際の「上句(かみのく)」だったりすることもあります。
しっかり門構えやビルの外を見てから、門戸を叩きましょうね。

これから相手にするのは、同世代ばかりではありません。
交渉事や挨拶に困ったら、昭和時代の言葉表現を探してみるのもいいと思いますよ。
「昭和」は、ある意味、戦いの時代でしたから、社会の先輩たちは、「百戦錬磨(ひゃくせんれんま)」の強者たちです。
真っ向勝負は、チカラをつけてから…。
「海千山千(うみせんやません)」なんて、先輩たちに言ってはいけませんよ。
「矍鑠(かくしゃく)として…」という言葉表現も、中年層でさえ、その使い方に細心の注意を払いますので、平均年齢がますます高くなってきた今の時代、くれぐれも気をつけて…。
伝わる方には、しっかりあなた自身のことが、最初の数分で伝わりますよ。

人が、社会で認められ、その存在を確かな者として認識してくれるのは、「成人の日」からではありません。
その日は、あなた自身がつくるのです。

お父さんやお母さんに聞きにくいのでしたら、「じぃじ」や「ばぁば」に尋ねてみてください。
いい応えと、おこづかいを、返してくれるかも…。
失敗を防ぐ…、人生経験のときを短縮する…、いろいろな「歴史」は、人生にも役立ちますよ。

「おせっかい」はこのくらいにして、さて、この「お富さん」…、ネットで「お富さん」と検索すれば、曲を聴けると思います。

そんな、老舗料亭の「玄冶店(げんやだな)濱田家」さんです。
そんなって、どんな?

「濱田家」のサイト では、歴史なども紹介しています。

* * *

もともと、この「玄冶店(げんやだな)」とは、徳川家の御典医の岡本玄冶が、三代将軍 家光を病気から回復させ、その功績で、この地を拝領します。
そして、この地に庶民向けの借家をたくさん建て、住まわせたそうです。
その名称が「玄冶店(げんやだな)」なのです。
いってみれば、「玄冶さんが経営するアパート」のような意味です。

江戸時代の浮世絵師の歌川国芳(うたがわ くによし)も、この玄冶店で暮らしていたようです。
玄冶さん…、なかなかのお医者さま・実業家でしたね。

* * *

この料亭「濱田家」さんのすぐ近くには、前回コラムで書きました吉原に移転する前の人形町遊廓の「大門通り」があり、「濱田家」という花街芸者の置屋(おきや)が明治の末まであったそうで、明治時代末に廃業となります。

三田政吉の父、五三郎は、大正元年、この人形町に深いつながりと歴史がある「濱田家」という屋号を譲り受け、修行した日本橋の料亭から独立営業を始めたそうです。

歴史が消えることなく、伝えられていくとは、こうしたものなのですね。
三田一族は、江戸の料亭の味だけでなく、「玄冶店(げんやだな)」と、置屋だった「濱田家」の名前、それと「明治座」をしっかり今に残してくれました。
人形町にとって、三田氏は、有馬家や細川家に匹敵する貢献度かと思います。

昭和の時代、この料亭でも、春日八郎さんの「お富さん」を相当に歌っていたでしょうね…。
みんなで、「玄冶店(げんやだな)」の部分を大合唱していたのかも…。


◇マダム貞奴

三田一族が、その名前を守った「濱田家」は、明治時代に、すごい歴史上の人物を残してくれました。

後で川上音二郎のことを書きますが、妻であった「川上 貞(かわかみ さだ)」は、結婚するずっと前に、なんと濱田家の養子となり、その後女将となります。
芸妓(げいぎ)としても活躍し、「貞奴(さだやっこ)」の名で、まさに日本の最高位の芸妓となります。
あの「マダム貞奴」… その人です。

* * *

音二郎の影響で、後に女優になり、明治時代に、アメリカやヨーロッパに巡業公演しています。
各地で大反響となり、今の日本の芸者のイメージを定着させたのは、おそらくこの時の「貞奴」の大人気があったからではないでしょうか。

音楽家のドビュッシー、画家のピカソ、彫刻家のロダンなども、貞奴の虜(とりこ)になり、貞は、ロダンの彫刻のモデルの申し出を断っています。
あの「考える人」をつくったロダンです。
もし、申し出を受けていたら、ロダンは、貞に どんなポーズをとらせたでしょうね。

* * *

音楽家プッチーニがつくったオペラ「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」は、たいへん有名な作品ですね。
日本好きだった、大作曲家のプッチーニも、1902年のパリ万博の際に、貞奴に会ったといわれています。
おそらく貞奴の存在なしに、オペラ「マダム・バタフライ」は生まれてこなかったのではと思います。

日本最高の芸妓の魅力は、世界にもしっかり通用したのですね。
まさに、美しい蝶に見えたのだと思います。
当時の彼女の写真を見ると、着物風の「ヤッコドレス」が世界で大流行するのも わかる気がしますね。

* * *

彼女の壮絶で華やかな人生は、音二郎を越える気もします。
女優引退後に、名古屋に設立した「川上絹布株式会社」や「二葉御殿」は、よく知られていますね。
今は、その場所に「文化のみち二葉館」として邸宅が残っています。

「川上絹布株式会社」の工場で働いていた女工さんたちは、全寮制で、制服はセーラー服とくつ。
それに、お茶やお花の教室、テニス場やプールまで備え、貞奴得意の演芸会も行っていたというから驚きです。
大正時代のお話しですよ。
ドラマ「あゝ野麦峠」で知られる、厳しい環境下の女工さんたちがいた時代と、ほぼ同時代のお話しです。
さすが料亭の名女将だった、世界的スターの女性社長でしたね。

1985年のNHK大河ドラマの主人公にもなりました。
淀君、北条政子、日野富子などと肩を並べる、大河ドラマの女性主人公です。
なんとなく、女性の社会進出が当たり前になった今の時代に、もう一度見てみたい番組のように思います。

それにしても、今 考えてみても、それぞれが強烈な個性と行動力を持つ、川上音二郎と貞奴が夫婦だったとは、日本史上の最強夫婦の中の一組であったのは間違いないですね。

* * *

今、人形町や日本橋に、貞奴の銅像がないのは、不思議な気がします。
浅草には、9代目市川團十郎の、迫力あるカッコいい銅像があるのに…。
柴又には、寅さんも、さくらも、銅像があるのに…。

米国の世界的な有名誌「ライフ」は、かつて、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」を発表した中で、日本人では唯一、江戸時代の浮世絵師の「葛飾北斎(かつしかほくさい)」を選びましたね。
ダビンチ、ナポレオン、シェークスピア、ベートーベン、アインシュタインなど、誰もが納得する100人かと思います。
私も、日本人からひとりというなら、「北斎」で納得です。
ノーベル賞受賞者は、少し意味あいが異なりますので、「世界の100人」と言われると、残念ながら他には頭に浮かびません。

おそらく、世界でもっとも有名な日本人の絵は、北斎の作品だと思います。
アフリカの草原の片田舎の人でも、知っていたりします。
若干のゴシップ性があるためなのか、東京は、北斎と貞奴に少し冷たいような気がしています。

西郷隆盛のことは世界のほとんどの人が知らないのに、上野に立派な銅像がありますね。
東京では、戦時中の軍人や、家康の銅像は、ほとんど残っていません。
西郷は特別です。

個人的には、世界クラスの歴史的ビッグネームのこの二人に、西郷級の銅像が、東京にあっても不思議ではないと思っています。

貞奴だけでなく、川上夫婦の銅像なんてあったら素敵です。
浜町の「弁慶」の銅像もいいですが、明治座の前に、貞奴夫婦の大きな銅像があっても、なんの不思議もありません。
濱田家さんに、ついつい期待してしまいます…。

* * *

世界に比べ、東京には、芸術・芸能・スポーツ分野の大きな銅像が少なすぎだと感じています。
そのかわり、キャラクターものがたくさんあります。
ゴジラやウルトラマンもいいですが、そこは、本多猪四郎や、円谷英二の銅像ではないのかとも感じます。

このほど完成した新国立競技場の周囲にも、武術、お相撲、野球などのスポーツ関連の銅像が建ち並んでいてもおかしくありません。
多くの人が、その功績や歴史を知るチャンスを逃してしまうような気がして残念です。

* * *

「サダ」という呼び名の名前が、若者やある中高年世代に、何かネガティブな印象を抱かせているのも、あまりいい気がしません。
古いあの事件や、あの映画の影響が大きいのだと思います。

国連で「サダ」と聞けば、それは、昨年惜しくも亡くなられた、緒方貞子(おがた さだこ)さんのことを思い出しますね。
国連の中での、あの堂々たる風格と振るまいは、日本人のイメージを変えるものでした。
ひょっとしたら、明治時代の「マダム貞奴」も、そうだったのかもしれませんね。
おそらく、世界の人は「サダ」という声音の日本名の中に、ある姿を想像するのだと思います。

* * *

貞奴のことは、これからも、書く機会があると思いますので、今回はここまでにします。

それにしても、明治座、濱田家、貞奴、音二郎、オペラ「マダム・バタフライ」が、みな つながっていたとは、演劇の神様は演出しすぎですね。


◇旧派と新派

歌舞伎を「旧派」というのに対し、明治期になってからの新しいスタイルの古典劇を「新派」と呼びました。

とはいっても、歌舞伎界とのつながりは深く、今の歌舞伎界や芸能界にも、この新派の流れをくむ、そうそうたる役者さんたちがおられます。
明治期には、「オッペケぺー節」で一世風靡した川上音二郎、初代水谷八重子など、歴史上の有名な新派の役者がいました。
川上音二郎とは、前述の「貞奴」の夫だった人物です。
川上音二郎は落語家でもあり、その名は「浮世亭〇〇(うきよてい まるまる)」です。

今の時代でも、こんな名前は、なかなか つけられませんね。
今の時代に、芸人が変わった名前をつけるのとは、少し違う気がします。

坂本龍馬が、最後の時期に文書に残した人物名「○○(まるまる)」を、思い出しました。
〇〇名と、オッペケペー…、これだけでも、音二郎は、明治時代の歴史の申し子のような気がします。

音二郎の人生は、龍馬と同じで、破天荒そのものです。
彼も、龍馬と同じように、さまざまな「旧派」をぶち破ったのかもしれませんね。

* * *

幕末から明治維新の時代は、単に政治システムの転換期ではありません。
人々の思想の転換期でもあります。
武士道を中心にした忠臣精神から、天皇中心の尊王思想になり、自由民権運動も始まります。

この時代の人々の思想の困惑は、かなりたいへんだったかもしれませんね。
人々の迷いからくるような、妙な事件も起き始めます。

人の心情や思想を描くような芝居の題材には事欠かなかったかもしれません。
新派も、そうした中で生まれてきたのかもしれません。

* * *

明治時代、川口松太郎が書いた小説「明治一代女(めいじいちだいおんな)」は、芝居用に変えられ、新派の芝居の大ヒット演目になりました。
前述の18代中村勘三郎さんの姉で女優の波乃久里子さんも演じておられましたね。
もちろん今でも、各地で上演される演目です。
昭和時代には、映画でも大ヒットしましたね。
同名の歌謡曲も、美空ひばりさんをはじめ、たくさんの歌手が歌われました。

「劇団新派」はその流れにある劇団です。

劇団新派のサイト

この「明治一代女」の芝居は、明治時代に、この浜町で起きた ある殺人事件を、人情芝居に脚色したものです。
この犯人は明治時代に「毒婦(どくふ)」と呼ばれましたが、死刑にはなっておらず、女性の悲しい側面を見ることもできる気がします。


◇金色夜叉

この新派の隆盛には、前述の川口松太郎のほか、尾崎紅葉(おざき こうよう)の門下生の泉鏡花(いずみ きょうか)などの、優れた作家の存在が欠かせません。
未完ではありますが、尾崎紅葉の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」も、新派の大演目ですね。

熱海の海岸で、捨てられた間貫一(はざまかんいち)による、金に目がくらんだ許嫁(いいなづけ)だったお宮への、最後の別れの言葉、「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる」は芝居の台詞ですが、あまりにも有名で強烈な芝居の台詞ですね。
「一生、毎年この日の夜、月が見ないように、私の涙で曇らせてやる。絶対に忘れさせない。」という意味あいです。

武士道中心の江戸時代であったら、こうした芝居の台詞が生まれてきたでしょうか。

毎年のこの日…、もうすぐです。
1月17日です。
月は涙で雲るでしょうか。

この日は、「阪神淡路大震災」のあった日でもあります。
今年の25年目のこの日、別の涙で曇るかもしれません。


◇新劇の真砂座

明治時代の中頃、1893年(明治26年)、浜町のすぐ近く、清洲橋付近に、「真砂座(まさござ)」が開業します。
真砂座は「新劇(しんげき)」の中心的な芝居小屋でした。
まさに「新劇」の巨人がやって来たのです。
そして、この巨人は、大正6年に、この地から去っていきます。

* * *

明治時代には、旧派や新派とは別に、「新劇(しんげき)」と呼ばれる演劇スタイルが生まれてきます。

「新劇」は、島村抱月、松井須磨子らの芸術座、本来は歌舞伎役者の市川左團次(前述の明治座の創業者)や小山内薫の「自由劇場」などに始まり、その後、築地小劇場、文学座、俳優座、劇団民藝、青年座、劇団四季などに受け継がれていきました。
昭和時代のアングラ劇場や小劇場も、ある意味、この流れですね。

古典色の強い、旧派の歌舞伎や、新派とは違う、近現代的で和洋をとわない自由なスタイルを「新劇」と呼んでいましたね。
私は、演劇分野に明るくはありませんが、この数年、「新劇」という言葉をすっかり耳にしない気がします。
自由な演劇スタイルが当たり前の現代の日本ですから、あえて そう名乗る必要もないのかもしれませんね。

* * *

真砂座があったあたりは、今の浜町のすぐ南側の「日本橋中洲」という地域で、江戸時代中頃までは、葦(あし)が生い茂る隅田川の中洲でした。

今、この付近の、首都高速道路が通っている部分はすべて水路や川だったところです。
ですから、この地域は、隅田川とその分流に囲まれた三角形の中洲でした。
歌川広重の「江戸名所百景」では、「みつまたわかれの淵」として描かれています。

江戸時代中頃に、この中洲の埋め立て工事を行い、浜町と陸続きにし、大きな繁華街になっていたようです。
ですが、その影響で隅田川の洪水が頻発してしまい、もう一度、水路を開いて、もとの三角洲に戻したようです。
今でいう、液状化現象も起きたのかもしれません。
そうして、人の暮らす街ではなくなりました。
江戸時代ですから、地盤工事も十分にできなかったのかもしれませんね。
その後、明治時代になって、もう一度、しっかり埋め立てを行って、街にしたようです。

* * *

今、京都の鴨川沿いには、料亭が建ち並んでいますが、おそらくこの隅田川の中洲も、明治時代には、真砂座を中心に、京都の鴨川のような料亭が建ち並ぶ、華やかな河岸の風景だったと思われます。
昭和30年代まで、料亭がたくさんあったそうですが、今は一軒もなく、防波堤で囲まれたビルやマンションばかりです。
今でも、清洲橋近くには、昔からの「金毘羅宮」が残っていますが、石造りの囲いには、当時の料亭の名がずらりと残っています。

今の隅田川沿いは、遊歩道や公園などがあり、それなりに整備され、きれいではあるのですが、繁華街のような人々の賑わいを感じることはありません。
防災という側面も大切ではありますが、何か水辺から人がいなくなると、さみしい川に見えてきますね。

今、この中洲地域からは、美しい清洲橋もよく見え、隅田川の対岸には松尾芭蕉さん(銅像)が正座して、こちらを見ています。
料亭の縁側からなら、なかなかいい景色で、川風も気持ちよさそうなのに、おしいですね。


◇歌舞伎座の登場

今、銀座にある「歌舞伎座」は、明治政府が1889年(明治22年)に国策でつくったもので、中村座・新富座・市村座・千歳座は「四座同盟」を結び、人気役者を歌舞伎座に出演させないという戦略で対抗します。

その後、金銭で決着しますが、前回コラムで書きましたとおり、中村座、新富座は、関東大震災や火災などで、廃座となっていきました。
市村座は、まだまだ大正時代まで発展し続けます。
千歳座は、経営難の後、前述のとおり明治座となります。

大正時代は、消滅していなかった市村座を含め、歌舞伎座、帝国劇場の三つが大隆盛となります。
帝国劇場は明治時代末期に建設されました。
この時代の市村座は、人形町ではなく、猿若町から移転した秋葉原近く(台東区台東1丁目)です。

昭和時代になると、1932年(昭和7年)、市村座が焼失し廃座となりました

その後、東京新橋の「新橋芸妓協会」がつくった「新橋演舞場」(大正時代に建設)、オペラやバレエも上演できる「帝国劇場(帝劇)」、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」、そして浜町の「明治座」の四つが、東京のエンターテイメントの大劇場の中心となっていきます。

下の写真は、今の銀座の「5代目 歌舞伎座」です。
2013年(平成25年)に改修された姿です。
外観は、その前の時代の姿を踏襲していますので、一見あまり変わっていないようにも感じますが、内部はかなり変わり、高層の歌舞伎座タワーも加わりました。

◇幸運は突然に

さて、日本橋のお隣りとはいえ、人形町や浜町の地域から、中村座も、市村座も、遊廓も、この地を去り、さらに明治維新で、かつての賑わいにかげりがくるかに思えたこの地域に、なんと水天宮と明治座がやってくるのです。
前述のとおり、近くには真砂座もやってきます。

映画やテレビがやって来る前の時代で、人形町や浜町には、まだまだ浅草に負けない、落語や演芸の寄席がたくさんあったとはいえ、明治期に、前述の三つ(水天宮、明治座、真砂座)がやって来なかったら、この地域は、今とはまったく違う街の姿になっていたかもしれませんね。
華やかな、人の賑わいは、しっかり維持されます。

1900年(明治33年)頃になると、映画が人気を得るようになってきます。
その後、芝居小屋の俳優たちは映画にも出演するようになっていきます。

テレビの登場はずっと後で、NHKがテレビ放送を始めたのは、1953年(昭和28年)です。
映画とテレビの登場は、その後また、時代の大きな変化を生みましたね。

* * *

一方、大正期の関東大震災の後、昭和4年に「浜町公園」が誕生します。
「浜町公園」の開園当時の写真を見ると、相当な豪華さで、当時は、まさに近代洋風建築が突然、この街にやって来たようなものです。

公園ができた頃は、庶民はまだまだ洋装とはいかなかったでしょう。
そんな人たちが、下駄や草履で、洋風庭園を、「何これ」と言いながら歩いていたと思います。
この近くでは、隅田公園と錦糸公園も、同じころに誕生します。

今の浜町公園には、残念ながら、そうした西洋風大庭園の雰囲気は残っていませんが、正門の前には下の写真のような、手入れされた美しい並木の道が残っており、大庭園の面影を感じます。
この道沿いに「明治座」があります。

これからもずっと残っていってほしい、「本当に憩える 並木道」、「震災復興という大きな変化の中で夢見た並木道」ですね。
浜町や人形町の未来は、ひょっとしたら、この並木道の先にあるのかもしれませんね。


 

「浜町公園」は、かつての肥後国(熊本県)の熊本藩主 細川家の下屋敷の敷地で、昭和初期に公園になるまで、細川家の大きな屋敷として使われていました。
今でも、公園内に、戦国武将の加藤清正を祀るお堂「清正公寺」が残っていますが、細川さんは、この地にしっかり残していってくれましたね。

よくよく考えると、水天宮の有馬家といい、浜町公園の細川家といい、何か九州の方々から恩恵を受けていますね。
ちなみに、昭和時代の浜町公園での、ナウマン象の全身骨格発掘のお話しは、コラム「ダンボみたいに(前編)」で少しだけ書きました。

次回のコラムでは、ある「金運」のことも書きますが、この地域は、歴史的にみると、とんでもない出来事や幸運が突然やってきますね。

掘っていくと、いろいろなモノが発掘できる、歴史いっぱいの「The(座)浜町」です。

* * *

ちなみに、本日は、2020年の「成人の日」ですね。
2000年に誕生した人が、晴れて「成人」となります。

たくさんの「御蝶」たちが、思いきり 羽ばたいていってほしいと願っています。

* * *

次回コラムは、織田信長の「楽市楽座」、「座頭市」など、いろいろな「座」の歴史のお話しと、人形町にあった、もうひとつの あの「座」のことを書きたいと思います。

コラム「みゆきの道(11)座頭と Theマネー」に続く

 

 

2020.1.13 

天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.

 

 

にほんブログ村 音楽ブログ 洋楽へ   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ 

 

 

ケロケロネット