桜田門外の変。日比谷公園。桜田門・桜田通り・日比谷公会堂・日比谷花壇・松本楼・旧長銀本店ビル

 


 

みゆきの道(1)運命の桜田門


◇みゆきの道へ出発

コラム「御行(みゆき)の先に幸がある」の中で、「祝賀御列の儀(祝賀パレード)」のことを書きました。
その中で、東京銀座の「みゆき通り」のことも簡単にご紹介しましたが、私は、今回の「祝賀パレード」の直後に、明治天皇が通った、東京銀座の「みゆき通り」を歩いてきました。

「祝賀パレード」と同じ日(2019年11月10日)に、天皇の「行幸」や「御幸」に関連した「みゆき」の道を、記念に歩いて、写真撮影でもしてみようかと思ったわけです。
歴史的な場所もたくさんある通りです。
何回かに分けて、この通りのことをご紹介したいと思います。

* * *

本来の「みゆき通り」は、銀座の「山下門橋」から、築地の「采女橋(うねめばし)」までのことですが、今回は、みゆき通りの前後も含めて、今回、私が祝賀パレードを見た桜田門から、隅田川の勝どき橋までの道をご紹介します。

それほど長い距離ではありませんので、ゆっくり散策するにはちょうどいいくらいです。
この道には、江戸時代からの歴史があり、最先端のファッション街があり、高級ブランド店があり、劇場や高級ホテルがあり、大きな公園があり、外国人がたくさんいる場所があり、銀座の中心を突き抜け、日本三大料亭の二店があり、歌舞伎座と新橋演舞場もすぐ近く、築地場外商店街があり、最後は海のすぐ近く隅田川河口にたどりつきます。
江戸東京の新旧が混在した、とても面白い道です。
歴史好きにも、楽しめる道ですよ。

今回は、祝賀パレード当日に撮影した写真に合わせて、22年前の1997年に撮影した写真もご紹介していきます。
変わったもの、変わっていないもの、さまざまに登場します。


◇桜田門

私は、天皇皇后両陛下の祝賀パレードを、下の写真のとおり、警視庁の建物のすぐ直下の道路から見ました。
警視庁は、桜田門の目の前にあります。

この場所は、江戸時代末期の安政の頃は、大分杵築藩の松平家の屋敷と、美濃大垣新田藩の戸田家の屋敷でした。
警視庁裏の総務省や国土交通省の場所には、広島藩浅野家(浅野内匠頭の親戚筋)の広大な屋敷がありました。

ここから、国会議事堂方面を見ます。
下の写真中央部の樹木がたくさんあるあたりに、彦根藩 井伊家の上屋敷がありました。
この樹木のある場所は、現在、憲政記念館があり、公園となっています。
井伊家屋敷の井戸「櫻の井」が残っています。

* * *

ちなみに、彦根藩井伊家の中屋敷は、赤坂の紀尾井町にありました。
「紀尾井(きおい)」とは、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の頭文字を並べたものです。
江戸幕府の中枢の三家の屋敷は並んでいました。

西郷隆盛と並んで、江戸時代を終わらせた、明治政府の実質的最高権力者の大久保利通は、この紀尾井坂で暗殺されます。
何という、皮肉なつながりでしょう。
井伊家の下屋敷は、千駄ヶ谷でした。

* * *

東京の世田谷区にある、井伊家の菩提寺の「豪徳寺(ごうとくじ)」あたりは、彦根藩の領地でした。
世田谷城の跡地に豪徳寺があります。井伊直弼の墓もあります。

実は後で書きます吉田松陰を、祀る松陰神社は、烏山川(暗渠)を挟んで、豪徳寺の反対側にあります。
500メートルほどしか離れていません。
吉田松陰は、井伊直弼の「安政の大獄(たいごく)」で処刑されました。
江戸幕府は松陰神社を破壊しますが、松陰の門下生たちがつくった明治政府は、松陰神社を復活させます。
松陰の墓のひとつが、松陰神社にあります。

紀尾井坂と大久保利通、豪徳寺と松陰神社…、江戸幕府と明治政府の因縁の深さが、この距離感を生んだのかもしれませんね。

* * *

この国会議事堂横の敷地には、江戸時代の最初の頃は、加藤清正の屋敷がありました。
国会議事堂の建物のあたりは、永田性の、大名よりも格下の旗本の屋敷がいくつかあったようで、「永田の馬場」とも呼ばれていたようです。
「永田」の地名が、家名からきたものか、古い地名かたきたものかは、わかっていないようです。
「永田町」、「霞が関」など、今では、地名だけで、何を意味するかわかりますね。

* * *

江戸時代、大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、この屋敷から、かごに乗り、下の写真のバイク車列の場所を通って桜田門に向かいました。



 

桜田門の前は、祝賀パレードの報道陣が集まっていました。

 

◇桜田門外の変

江戸時代の1860年(安政7年)3月3日、上の真ん中の写真あたりから、桜田門の正面近くまでのあいだで、「桜田門外の変」がおこります。

3月3日の「桃の節句」の祝賀行事のため、幕府の大老、井伊直弼(いいなおすけ)は、朝9時頃、井伊家の上屋敷を出発し、江戸城に向かいます。
井伊直弼は、将軍を除いて、実質上の政治の最高権力者です。

井伊家の列は、警備兵20名、足軽40名の計60名、直弼はかごに乗っていました。
その朝は、ぼたん雪が猛烈に降っており、警備兵は重い雨具(雨がっぱと、刀の防水具)を着ていました。
雨まじりの雪だったという説もあります。

* * *

水戸藩の脱藩浪士ひとりが、直弼の行列の前に立ちはだかり、彦根藩の警備兵ひとりを斬り殺します、
他の警備兵が前のほうに向かう瞬間、もうひとりの水戸脱藩浪士が、けん銃で、かごの中の直弼を銃撃します。
直弼は、どうも、足を負傷したようです。
そして、他の水戸脱藩浪士15名が、いっせいに斬りかかります。
水戸脱藩浪士は全部で17名でした。

列の前に立ちはだかった浪士は、彦根藩士に斬り殺されます。
彦根藩の警備兵たちは重い雨具のため、うまく戦えず、最終的に8名の死者、13名の負傷者を出します。逃げた彦根藩士は後に処刑。

かごの外から水戸藩士が刀を突き刺します。
その浪士は、彦根藩士に斬り殺されます。この彦根藩士も落命します。
直弼はその時点で重体となったようです。

かごの扉を開け、水戸藩ではなく、薩摩藩士の有村治左衛門が、直弼の首を上げます。
有村は、彦根藩士に斬られますが、首を持ったまま、今の東京駅近くの丸の内方面に逃げていきます。
今の日比谷公園から、馬場先門、和田倉門の前の大きな通りを通り、今の大手町交差点あたりにあった遠藤但馬守の屋敷までやってきます。
他の水戸脱藩浪士も丸の内方面に逃げていきます。
有村は、遠藤但馬守邸に入れてもらえず、門の前で自刃します。
他の水戸脱藩浪士数名も、それぞれの場所で自刃します。それ以外の浪士は逃亡します。

桜田門の前の襲撃は、10数分程度だったようです。
井伊家屋敷から、すぐに彦根藩士たちが桜田門に駆けつけましたが間に合いませんでした。
胴体部分をすぐに屋敷に運び、遠藤家に首をもらいに行きますが、すぐには渡してもらえませんでした。
井伊家は、江戸幕府や遠藤家と、さまざまなやり取りの後、斬り殺された彦根藩士の首として、直弼の首を井伊家に持ち帰ります。

公式には、直弼は病気療養中として、その死と襲撃は隠されます。
3月28日、直弼は病死として処理されます。
江戸幕府は、彦根藩井伊家、水戸徳川家、薩摩藩島津家の大きな争いを防ごうとしました。
外国の艦隊が、複数、日本に来ており、日本内部で内乱をおこしている暇はありませんでした。

* * *

3月3日の朝、水戸脱藩浪士の襲撃情報が、井伊家にもたらされていたという話もありますが、特に警備を厚くすることはありませんでした。
「桜田門外の変」の2年後の1862年、やはり水戸脱藩浪士ら6人により、老中の安藤信正の暗殺未遂である「坂下門外の変」がおきます。
その5年後、1867年、大政奉還が行われました。
直弼の死から、わずか7年で、江戸幕府は消滅しました。
直弼が生きていたら、幕末は、また違った展開になったことでしょう。

1867年は、坂本龍馬が暗殺された年です。
1859年に吉田松陰や橋本佐内が処刑、1864年に佐久間象山が暗殺。
江戸時代末期の幕末の時代は、大弾圧の処刑と暗殺だらけでしたね。

* * *

「桜田門外の変」のことは、数々の映画やテレビドラマでも描かれましたね。
その中でひとつだけ、斬新な切りクチで、重厚な内容の、素晴らしい映画をご紹介します。

2014年の映画「柘榴坂(ざくろざか)の仇討(あだうち)」です。
明治時代になっても、襲撃犯を追いかけ続ける彦根藩士の苦難の道を描いています。
江戸時代から明治時代への世の中の変化も描かれています。
主演は中井貴一さんで、生き残った彦根藩士役です。
宿敵の水戸脱藩浪士役に阿部寛さん、井伊直弼役は中村吉右衛門さんです。
俳優陣や映像美も素晴らしいもので、まさに日本の重厚な時代劇です。
機会がございましたら、どうぞ。

桜田門から明治に続く「道」が、見えてきますよ。

* * *

桜田門を通って中に入ってから、江戸城本丸までは、まだ距離がかなりありますが、桜田門を入ってからの襲撃は、まず不可能だと思われます。
井伊家の屋敷付近でも、おそらく無理です。
桜田門の直前でしか、襲撃のタイミングはなかったと思います。

当日の朝は、大名行列見物の町衆がたくさんいて、襲撃犯たちは町衆に紛れていたようです。
襲撃事件発生時は、町衆も逃げるのに必死だったことでしょうね。
上の写真の光景とは大違いだったと思います。
今は警視庁があるので安心…。


◇桜田通り

桜田門の前には、明治時代より現在まで、霞が関の官庁街が広がっており、桜田通りという大きな通りがあります。
江戸時代も、同じように大きな通りがありました。

レンガ造りの法務省旧本館(旧司法省)は、霞が関で唯一、明治時代の官庁街を思い起こさせる建築物として残されています。戦後にきれいに再建されました。
この裏側の庭からの眺めも、たいへん素晴らしいです。
テレビや映画の撮影にも使用されます。

法務省旧本館の場所は、江戸時代の安政の頃は、米沢藩上杉家の上屋敷がありました。
旧文部省や財務省の建物も古いですが、昭和初期の建物を後に改修したものです。

 

祝賀パレード後に、大勢の人が、駅や、それぞれの目的地に向かいました。
霞が関の官庁街に、これほどの群衆が歩く風景は、初めて見ました。

この通りが桜田通りで、法務省旧本館の向こうの白いビルが、各種裁判所が入るビルです。
現代の奉行所、評定所といったところです。
この裏に、江戸時代の南町奉行所の大岡越前の屋敷がありました。

* * *

下の写真の、大きな白い建物が、警察庁や国家公安委員会、総務省などが入るビルです。
このビルの裏が、国土交通省や海上保安庁。このビルの向こうの、通り沿いにちらっと見えるのが外務省です。
遠くに、金融庁や文部科学省の高層ビルが見えます。
その向こうに、「キイハンター」の「霞が関ビル」があります。

この写真を見ていましたら、ゾンビ映画や、米国テレビドラマ「ウォーキング・デッド」を思い出してしまいました。
桜田通り…、ゾンビものに結構むいているのかも。

 

下の写真の、中央の日が当たっているところが「日比谷公園」です。
この群衆は銀座方面に向かっています。

下の写真の通りの左側の並木の奥に、大岡越前こと大岡忠相(おおおか ただすけ)の屋敷がありました。
南町奉行所は、今の有楽町駅付近です。通勤時間、徒歩15分くらいでしょうか。

通りの右側は、福岡藩黒田家の上屋敷がありました。

 

◇日比谷公園

「日比谷(ひびや)公園」の中を通ります。
公園に、もともと来ていた人たちが、叫んでいました。
パレード帰りの大群がやって来た!

実は、ゾンビ軍団です。

 

雲形池(くもがたいけ)の鶴さんも、元気いっぱいに水を吹いています。
真冬になると、この鶴さんは、氷のつららだらけになります。
この池の下を、地下鉄丸ノ内線が通っています。



 

公園内のレストラン「松本楼(まつもとろう)」は、相変わらず素敵な風情です。
1903年の日比谷公園の開園とともにオープンし、数々の歴史を刻んできました。
1971年の沖縄返還運動の際に焼失し、1973年に再建された建物だそうです。

明治の文豪はもちろん、有名政治家たち、あの孫文も訪れました。
「森の中でカレーを食べて、コーヒーを飲む」
明治時代から現在まで続く、まさに歴史と伝統のレストランです。

ここも、容赦なく、ゾンビたちの襲撃を受けていました。

 

日比谷公園は、毎週のように、何かのイベントが行われています。
下の写真の一番左側の茶色の建物が「帝国ホテル」です。



 

日比谷公会堂は1929年(昭和4年)に完成しました。
コンサートホールや演説会場、イベント会場です。現在、改修中。
1960年、日本社会党委員長の浅沼稲次郎の暗殺事件は、この公会堂での演説中でした。

「野音(やおん)」と呼ばれる「日比谷野外音楽堂」は、上の写真の公会堂の近くにあります。

* * *

日比谷公園は、1903年(明治36年)に開園しました。
江戸時代までは、この場所は名だたる大名屋敷が並んでいました。
安政の頃は、長州藩毛利家、佐賀藩鍋島家、唐津藩小笠原家、盛岡藩南部家らの上屋敷があり、明治時代になってからは、帝国陸軍の施設が多数ありました。
軍施設の移転後、西洋風の公園として整備されました。

明治政府は、当初、東京中央駅を今の有楽町駅あたりにつくり、日比谷公園を取り囲むように、かなり大規模な官庁街をつくる計画でしたが、予算不足など、さまざまな理由で完成できませんでした。
日比谷公園は、明治政府の官庁街計画、帝国陸軍、関東大震災、太平洋戦争など、大きな変革や被害を乗り越え、今日に至っています。

下の写真は、帝国ホテル前の「日比谷門」です。

 

上の写真の門の右側にある白色の建物は、「日比谷花壇(ひびやかだん)」の日比谷公園店です。
「日比谷花壇」は、花、園芸、造園などの専門業者さんです。
皇居をはじめ、東京の大型施設の庭やイベントには欠かせない存在となり、今では日本全国に進出しています。

1872年(明治5年)、東京都葛飾区堀切で庭園業を開始し、1944年に帝国ホテル内に出店、1950年(昭和25年)に都知事の要請で、日比谷公園内にフラワーショップを出しました。
日本では、まだまだ公園内にフラワーショップをあまり目にしませんが、戦後すぐの時期に、これを行ったのは、かなり斬新だった気がします。

この白色の建物は、2009年に建て替えられたものです。
中高年世代には、下の写真の建物を記憶している方も多いと思います。

ここからは、1997年に撮影した写真です。

 

緑に囲まれた、落ち着いた雰囲気の、日比谷花壇のお店です。



 

松本楼や日比谷茶廊など、他の公園内施設は、22年前と変わっていません。
下の写真は、公園の外から見た、1997年の日比谷公会堂ですが、ここも変わっていません。


 

ですが、公園の周囲はかなり変化しています。

 

上の写真のビルを記憶されている方も多いと思います。
1993年に、日本長期信用銀行(長銀)の本店ビルとして建てられたビルです。
山一証券、北海道拓殖銀行などが、バブル崩壊後の景気後退の中、1997年(平成9年)に経営破綻した後、長銀も1998年に国有化され、後に新生銀行となりましたね。
このビルは2013年に解体され、今は日比谷パークフロントという、まったく別のビルになっています。
わずか20年のビルの寿命でした。

1990年(平成2年)、日経平均株価は、わずか9カ月で、ピークの半分まで値を下げました。
あまりにも恐ろしい事態に、日本中が大激震しましたね。
そんな激震の真っ只中で、このビルは完成しています。
なんとも皮肉な運命のビルです。

このビルのデザインといい、贅沢な雰囲気といい、まさにバブル時代を象徴するようなビルのように感じます。
私も、日比谷あたりに来るたびに、このビルを見て、バブル崩壊の時代を思い出したものです。

* * *

今、オリンピックを前に、東京のあちらこちらで、このようなバブル時代の置き土産のような古い建物が、次々に建て替えられています。
いかにも、バブリーな外観の建物たちです。
今の東京は、新ビルの完成ラッシュに見えます。

1990年のバブル崩壊の前後を知らない世代が、ビジネス界の主戦力になってきましたね。
リーマンショックさえ知らない若者も働き始めています。

江戸時代以降、何度も、バブルは膨らみ、大きくはじけてきました。
いつかは、またはじけるのでしょうが、次の、激震や破綻、崩壊も、かなりたいへんでしょうね。
日比谷公園周辺の風景は、どう変わっていくのでしょう…。

上の写真は、上の旧長銀本店ビルのすぐ近くの「日比谷シティ」の22年前の姿です。
この施設建物は、1981年の開業で、ニューヨークの当時のロックフェラーセンターを真似たような雰囲気で話題になりましたね。
冬になると、スケートリンクがつくられていましたが、現在のことは、私はよく知りません。
今は、フットサルのコートがあるようです。
もちろん今も現役の建物施設で、あまり変わっていません。
ここも、かつては、バブリー感いっぱいでしたね。

* * *

日比谷公園のことは、今回はこのくらいにいたします。
他にも、日比谷公園には、心字池、日比谷見附跡、三笠山、音楽堂など、まだまだご紹介したい歴史的な場所がありますので、あらためて別にご紹介いたします。
昨年、日比谷公園や皇居(江戸城)の風景に、また新しい風景が加わりました。そんな写真もご紹介します。

仙台藩のあの伊達政宗の最期の場所も、この日比谷公園の場所です。
どのような目で、隣の江戸城を見ながら亡くなっていったのでしょうね。
特に、日比谷や新橋、汐留(しおどめ)の地域は、仙台藩の恩恵を受けています。
そんなお話しは、あらためて…。


* * *

次回の「みゆきの道(2)薩摩どん」では、日比谷公園のすぐお隣にあった「鹿鳴館」に関連し、いろいろな歴史のお話しを書いてみたいと思います。

「みゆきの道(2)薩摩どん」に続く
 

 

2019.11.16 天乃みそ汁

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