子育ては
「ひとを育てさせてもらっている」のだという
この捉え方は客観的になれるから、好き。
子育てにおいて
「そんなふうに育てた覚え無いんだけどなぁ」とボヤきたくなることは、よくある。
自分も親からそう思われたことは多々あるに違いない。
昨日も、
私が思ってたのと違う動きをするムスメを眺めながら
慣れない高校生活の多忙さで、明らかに疲労が溜まっているのに、休日は1日中フルに友達と遊びに出掛ける
いつ休息するのだろう。いつ勉強するのだろう。
若いときは、遊んだほうが充電になるんだったか?
もう遠い昔すぎて忘れた。
でもまぁ、楽しそうだから良いか。
親が子をコントロールできるなんて思うのが
おこがましいのだ、と思い出す。
善きところへ向かっているのは間違いない
という大前提を思い出す。
まぁ大丈夫だな、という視点に戻ってくる。
『善き』の内容なんて分からない。
どんなルートを通っていくのか。
どこへ行くのか。
思いもよらない過程を経ていくだろう。
それが面白いのだ。それだから面白いのだ。
🌱
で、植物を育てるときのことを思う。
枯らしちゃった、うまく育たなかったなんて、あたりまえ。そこにイライラ、しない。多少のショックくらいはあるけど。
逆に予想を超える綺麗な花を見ることができたり、想像以上のたくさんの実をつけたりも、する。予想以上の嬉しさを味わう。
おなじバラなのに
去年と異なる色で咲いたりもする。
どうした?と思うけど
なんか知らないけど今年はこの色なのね、
と受け止める。
去年の薄ピンク一色も良かったけど
今年の、縁だけ濃いピンクも、良い。
そこに
こんなはずじゃなかったのに!
なんとかして色を変えなくては!
…なんて思わない。
あー、そうなんだ。今年はそうのね。
と受け止める。
自分に操作できることじゃない。
操作しようとしなくて良い。
あきらめではない
受け入れ。
ひとも自然の(宇宙の)一部だと思い出す。
いつ芽を出すか
いつ蕾をつけるか
いつまで蕾でいるか
いつ咲くか
どう咲くか
操作しなくても
タイミングが来たら
咲きたいように、必要なように、
咲く。
植物は下で
人間は上?
というのも
一部の人間の思い込みだろうね
