遊行聖の寺社巡り三昧                            Yugyohijiri no Jishameguri Zanmai -3ページ目

やっと美月との同居環境も整ってきたので、2024年9月7日、中断していた坂東三十三観音霊場巡りを再開することにしました。

 

 

目指すは17番札所、出流山満願寺(栃木県栃木市)です。

満願寺本堂自体が深い山中に位置しているのですが、更にその山奥にある懸造(かけづくり)の奥之院へ登る決意で美月と出掛けました。

(満願寺のホームページより)

ところが参詣道入口に貼られた物々しい『ヤマビル注意』の貼り紙と、噛まれてしまった時に手当てする塩が置かれているのを見て、すっかり戦意喪失してしまいました。

ヤマビルの恐ろしさは比叡山延暦寺で何度か体験しており、今年も「比叡探訪、横川・観音巡り」で重篤な被害者を目の当たりにしたばかりだったからです。

 

 

 

奥之院はまたいつかチャレンジしたいと思いますが、その途中で美月と共鳴した事柄について、ここでは書いて行くことにしましょう。

まずは満願寺へ至る山道に連なる石灰石の露天掘り(栃木県佐野市)です。

千葉県房総半島でも砂利の露天採掘場は見て来ましたが、江戸時代から始まるこの露天掘りの壮大さは桁違いでした。

自然環境保護の観点からご批判もあるかと思いますが、ダンプや鉄道もなかった時代を想像すれば、人間の血と汗と涙にまみれた産業遺産であることに間違いはありません。

佐渡金山、そして同県の大谷石資料館ではありませんが、一般人が功罪含めて考えることが出来るよう一部区画を開放して貰いたいと思いました。

次に私と美月が吃驚したのは、『くずう(葛生)原人まつり』立て看板です。

ガチャピンのような絵姿に美月が飛びついたのですが、何故佐野市葛生が原人で祭りをするのか街中を歩いても全くわかりませんでした。

帰って調べてみると葛生原人は、前述した石灰岩の地層から直良信夫らが1950年に発見した旧石器時代の人骨に端を発しているようです。

ちなみに考古学者の直良信夫は明石原人の発掘者で、私達世代の方はそれが教科書に堂々と載っていたのをご記憶だと思います。

ところが現在は明石原人も否定的な意見が多く、葛生原人に至っては15世紀頃の人骨や動物の骨であることが学問的に証明されています。

2000年に発覚した「旧石器捏造事件」(東北地方)もあって、ニセの葛生原人を使っての町おこしなど当然批判されても仕方ないかと思います。

しかし「Googleマップ」でこの映像を発見した私と美月は、「まあ、これもいいのかな」と一緒に撮影出来なかったことが悔しくで堪りませんでした。

自民・民主の総裁選・・地域創生をしっかりとお願いします。

日蓮上人の鎌倉入府ルートの二つ目は、六浦(横浜市金沢区)から朝比奈切通しを抜けて鎌倉へ至る六浦道(むつらみち)になります。

六浦の湊は古くから房総半島と海運で繋がる鎌倉の玄関口で、日蓮上人は行徳(千葉県市川市)から船を使ってこの港に着岸されたと寺伝に残されています。

「宗祖船中問答御着岸霊場」は、下総中山(千葉県市川市)の豪族である富木常忍(ときじょうにん)と日蓮上人が同じ船に乗り合わせて仏法論を戦わせたという言い伝えです。

これにより富木常忍は法華経に帰依し、日蓮上人入滅後、出家して日常上人となって現在の中山法華経寺(中山門流大本山)の基礎を築きました。

(たまたま屋根を修復中の中山法華経寺大祖師堂)

これは富木常忍が日蓮上人の壇越(有力後援者)となった経緯を説明するものですが、初期日蓮教団の支援者については後に改めて検討してみたいと思います。

なお安立寺に祀られている『感応の祖師』像は、日蓮上人の姿を富木常忍が彫り、日蓮上人が自ら開眼したと言われています。

次に上行寺ですが、ここは元々富木常忍の祈願寺であり、船中での問答を聞いて真言律宗から法華経弘通の道場になったと伝わっています。

その後道場は一時衰退しますが、南北朝時代、六浦の豪商だった荒井平次郎景光が開基となって現在の上行寺が開創されました。

この景光の夢枕に称名寺(横浜市金沢区)の仁王尊が現れ、「身延山の護神となるから連れて行け」と告げたそうです。

(金沢北条氏の菩提寺である称名寺)

そこで景光は称名寺に掛け合いましたが受け入れられるはずもなく、囲碁好きだった住職と自身の領田を賭けて渾身の勝負をして二勝一敗で勝利してしまいます。

称名寺住職はどうせ一人で運べるはずもないと侮っていると、景光は仁王像二体を背負って三日三晩歩き通して身延山に納めてしまったそうです。

その功績で景光は身延山から正式に妙法院日荷上人という尊称を賜りました。

これは現在の称名寺山門と仁王像ですが、この二体を身延山まで背負って運んだことから、日荷上人は健脚の神様、勝負の神様(囲碁)として信心を集めることになり、東京都台東区谷中にある六浦山延壽寺の日荷堂も参拝者が絶えることが無いそうです。

2021年5月5日、杉田の妙法寺(横浜市磯子区)を参詣した際、私と美月はこの日荷上人の石像を見つけて吃驚仰天してしまいました。

後に調べてみると、この杉田妙法寺も上行寺と同様、景光即ち日荷上人の開基と伝えられていました。

「いくらなんでもこれは無いだろう」と日荷上人像の荒唐無稽さに私と美月は笑い転げてしまいました。

美月に至っては日荷上人の真似をして大はしゃぎする始末です。

当然、仏罰が下りました。

この後、私は膝を痛めて正座出来なくなり、美月はしばらく腰を痛めてしまいました。

日荷上人、大変申し訳ございませんでした。

横須賀の米が浜に上陸した日蓮上人は、鎌倉を目指して三浦半島を横断、現在のJR横須賀線衣笠駅付近を通って相模湾に面する葉山・逗子へ山を越えて進みます。

横須賀線もこのE235系への置き換えが進んでいますが、去り行くE217系に出くわした際に「お疲れ様でした」と手を合わせてしまうのは私だけでしょうか?

この三連並ぶ前照灯が見られなくなるのは寂しい限りです。

どちらかと言うと横須賀は京浜急行の沿線が賑やかで、横須賀駅~久里浜駅が未だに単線区間である横須賀線はローカル色溢れる沿線風景になっています。

中でも衣笠駅周辺は駅舎にしても駅前商店街にしても、どこか昭和が色濃く残る懐かしい雰囲気の街です。

三浦半島の中央に位置しており、平安末期から三浦氏一族の拠点である衣笠城があったのですが、同氏の滅亡により日蓮上人が歩いた頃は廃城になっていたかと思われます。

その衣笠駅近くに金谷山大明寺があります。

前述した龍本寺が狭隘であったことから、1392年に堂宇を移転したのが大明寺で、三浦郡日蓮宗32寺の本山として栄えたと伝わっています。

もちろん現在も私と美月が長く画像蒐集している日蓮上人像がおられる立派な寺院です。

さて、更に鎌倉へと歩みを進めた日蓮上人は、現在の葉山町木古庭の山中に滞在されたところが今の大明山本圓寺とされています。

(本圓寺ホームページより)

その際、硯水として使われた「高祖井戸」が今も霊跡として残っています。

これは日蓮上人が鎌倉へ移った道筋の一つと言われていますが、もう一つの有力な説としては朝比奈の切通しから入府したルートがあります。

それは六浦(現在の横浜市金沢八景)から横浜横須賀道路の朝比奈IC辺りの山を越えて鎌倉に入るルートです。

この鎌倉入りを伝えるのは福船山安立寺・六浦山上行寺(横浜市金沢区)の寺伝です。

まずは福船山安立寺からご紹介しましょう。

坂本龍馬の「船中八策」ならぬ「宗祖船中問答御着岸霊場」と書かれていますが、次回はここから伝説の力持ちと言われる日荷上人へと話を脱線させましょう。