こんにちは、塾長のオチウミです。
本日のテーマは日本史です。覚えることが多いですよね。しかし、どの大学を受けるにしても
日本史の教科書に書いてある史実は覚えていることが前提です。
全ての問題が、教科書に書いていない史実で構成されている入試はありえませんよね。入試問題で示される文章や図表は確かに初見かもしれませんが、それらの内容はその時代の様子を描いたものですから、東大の入試問題ですら、内容は教科書に載っている史実です。その時代がどういう時代だったのかを覚えておくことが重要だということです。
日本史の参考書はヤマト政権から始まり、時代ごとに書いてありますね。歴史は流れですから、順番に読むと一つの物語のようになって面白いですが、覚えるのがとっても大変ですね。そこで、今日はテーマを1つ決めて、歴史を追ってみましょう。
ごちゃごちゃして分かりにくいものに「土地制度」があります。
そこで
旧
↓
新
になるように、土地制度をまとめてみます。
大和政権時代
屯倉(大和政権の直轄地)・田荘(大化の改新以前の豪族の土地)
↓
飛鳥時代
645 大化の改新!
↓
公地公民制(土地・人民が国有化)
奈良時代(律令時代)
①班田収授法
(6歳以上の男女に口分田を班給 良民・陵戸・官戸・公奴婢の男子2段
女子は男子の3分の2
家人・私奴婢は良民の3分の1)
②百万町歩開墾計画
(長屋王政権下、口分田の不足を補うために722年に発した法令。実施してないかも)
③三世一身の法
いよいよ口分田が足りなくなった!!ので、723年新溝池をつけて開墾した土地は
3代(本人→子→孫または子→孫→ひ孫)にわたって私有を認めました。
※元々の溝池を使った場合は本人1代の私有を認めた
私有を認めたわけで、だんだんと公地公民制が崩れていきます…。
④とうとう墾田永年私財法
743年とうとう、墾田永年私財法が発せられます。
新たに開墾した土地は、ずーっと自分の土地にできるというものです。
これで公地公民が完全に崩れますね。
そして、いろんな土地の名前ができてしまいます…。
勅旨田(ちょくしでん)…天皇の勅旨により開墾した皇室の私有地
公営田(くえいでん)…大宰府直営の土地
官田…畿内に置いた朝廷直営の土地
↓
墾田永年私財法のために、みんなどんどん開墾を始めます!
その中でも、貴族や寺社、有力豪族が開墾した土地を荘園と呼びます。
新しく開墾した土地は自墾地系荘園
元々あった土地を寄進されたものが既墾地系荘園
(字を見たらわかりますね。漢字は素晴らしい!!)
この二つを合わせて初期荘園といいます。
乱立する荘園の停止・抑制を目的に荘園整理令が出されます。
醍醐天皇が出した延喜の荘園整理令(902)が有名ですね。
初期荘園の土地は輸租田だったので中央から派遣された国司によって税を取られていましたが、有力豪族にとっては、この税が結構きつかったために、考えた開発領主たち(荘園を開発して私有していた有力豪族たち)は中央の貴族(これらが荘園領主)に荘園を寄進してしまいました!
荘園領主は本家・領家と言ったりもします。
支配の流れは、荘園領主(本家>領家)>荘官(預所>下司・公文)。
このような荘園を寄進地系荘園といいます。
寄進した開発領主は荘官となり、実質的に土地を支配していました。
寄進地系荘園は、貴族の権力を活かして不輸の権・不入の権を得ていました。
(不輸の権は地租を免れるもの、不入の権は検田使の立ち入りを拒否できる権利です。)
これにより、国司が無茶な税を取り立てることができなくなり、荘官は重税から逃れました。
10世紀あたりから、自分の任地に出向かない遙任(ようにん)と呼ばれる国司が増えます。
で、ちゃんと任地に出向いた国司を受領といいました。
受領は自分の任地の公領(=国衙領(こくがりょう))を名(みょう)という徴税単位に区分しなおし、その土地のことも名(名田)と呼ぶようになります。
そしてこの名の耕作を受け持った農民を田堵(たと)といい、
たくさんの名を受け持った田堵を大名田堵といいます。
ここまでが奈良~平安時代です。
↓
ここからが鎌倉時代。
鎌倉時代の大きな特徴は、国は守護、荘園は地頭が治めることになったということですね。
ということは、鎌倉時代になってもまだ、引き続き荘園はあるのです!!
地頭は「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれたくらい、権力を傘に横暴を働いていました。
徴収した年貢を荘園領主に支払わない地頭もいたりしました!!
トラブル解消法が、下の2つ!
①
荘園領主は、一定の年貢を支払うことを条件に、荘園の管理などをすべて地頭に任せることにしました。これを地頭請(じとううけ)といいます。
荘園領主は作物が不作でも一定の年貢が徴収でき、地頭は相変わらず自分の好きな量の年貢を徴収でき、荘園領主と地頭の関係はwin-winになりました。
農民は年貢を取られることは変わりませんが……。
②
いっそのこと荘園を2つに分けてしまえ!ということで、一つの荘園を荘園領主と地頭で半分ずつにしました。
これを下地中分(したじちゅうぶん)といいます。
地頭がめちゃくちゃしていたのが、鎌倉時代ということですね。
↓
室町時代は比較的穏やかです。
守護がだんだんと力をつけ、土地の管理もし始めます。そのため、地頭は次第に権力を失ってしまいました。
室町幕府は、守護が荘園や公領から徴収した年貢の半分を、戦に出る武士のためにためておくことを認めました。これを、半済令(はんぜいれい)といいます。
そして、荘園領主は守護に荘園の運営を一任します。これを守護請といいます。(地頭請と同じ流れですね)
↓
豊臣秀吉の登場です!
超有名な太閤検地で、石盛(こくもり)(標準収穫量)を決定し、土地の石高を決めました。
その土地の直接耕作者の名前が検地帳に載り、一地一作人の原則が確立しました。
今までは、地頭や守護が間に入って年貢を横取りしたり、荘園領主と開発領主がいたり、年貢納入がぐちゃぐちゃしていました。一地一作人の原則では、これを整理しました。
↓
これが何と明治時代の地租改正まで続きます!!
次回は、明治以降の土地制度を書きます。
明治時代にも、色々ありました!