両毛地域に刻まれた大東亜戦争の記憶:その2 「新田飛行場跡」 

 

 実際にあちこち探してみれば、わが郷土群馬県にも戦争遺跡がたくさんあります。陸軍前橋飛行場をはじめ、すでに当ブログで紹介させて頂いたものもあります(参照:「群馬の森」は奇妙な歴史空間 ~陸軍岩鼻火薬製造所跡~(前編) 吾妻谷で首都防衛に務めた防空監視隊 ~長野原町防空監視哨跡~ 風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(1/4) )。

 

 でも、それはまだ氷山の一角に過ぎません。できれば群馬県内の戦争遺跡を完全踏査し、その成果を当ブログで公表したいビックリマーク大東亜戦争の記憶を風化させてはいけない!!

 

 そんな想いもあって、先月26日に「ねむの会」両毛研修を決行しました。当日の参加者は寅市先生と織平先生、そして私、白髪磨人の3名。いつものメンバーですにひひ

 

 今回は、その成果を詳しく紹介させて頂きますDASH!

 

 当日最初に向かったのは、熊谷陸軍飛行学校新田分教場跡(太田市新田市野倉町)。同所には少年飛行兵の教練のための飛行場も設けられたことから、一般には所在地の地名をとって新田飛行場、または生品飛行場と呼ばれました(以下、「新田飛行場」で統一させて頂きます)。なお、至近の生品神社は、元弘3(1333)年5月8日、後醍醐天皇から鎌倉幕府討幕の綸旨を受けた新田義貞が旗揚げをした伝説の場所と伝えられ、国指定史跡「新田荘遺跡」の一つに数えられます。

 

 VOXYくんは関越道高崎JCTから北関東道に入り、柔らかな朝日を浴びながらしばらく西進。太田薮塚ICで下り、後はカーナビくんの力を借りて市野倉地区に到着。南端の新新田変電所を起点に、地図で現在地を確認しながら、ほぼ正方形の敷地からなる新田飛行場跡の外周道路を時計回りにぐるりと一周してみました車

 

 新田飛行場跡の位置 当地では地名「新田市野倉町」(太田新田市野倉町)がそのまま新田飛行場跡を表し、その敷地は一辺が約1600mの正方形に近い形をしています。 図中に記したA~Dの各地点は同飛行場跡のそれぞれ南端・西端・北端・東端の角地で、「蛙又三叉路」はB地点の北側があります。そして、図中のE-G間の直線道路は滑走路の名残、F地点(下掲写真)がその南東端付近と思われます。以下、写真の無断転用は一切禁止します。

 

 地形図に刻まれた新田飛行場跡の地割 周辺地域が東西南北の方向に道路がほぼ真っ直ぐ延びる碁盤目状の地割をもつなかで、市野倉地区だけは、碁盤目状ではあるものの斜めに傾いた北西―南東、北東ー南西方向の地割がみられます。つまり、周辺とは明らかに異なる方向性をもつ、この地割こそが新田飛行場の痕跡です。

 

 

 以下、新田飛行場跡の景観を当日撮影した写真で紹介させて頂きます。

 

 まずは新田飛行場の南端角に当たるA地点付近から・・・

 

 新田飛行場跡の景観(1) 上掲地図中のA地点付近から北側に広がる市野倉地区の農村景観。畑のホウレンソウが収穫を待っています。平成28年11月26日撮影。以下同じ。

 

 

 なお、新田飛行場に関する資料は軍事機密とされ、その詳細は明らかにされていません。それでも、『新田町誌』には、同飛行場に関する記述がみられます。その主な内容は次の通りです。

 

(1)飛行場の規模は東西約1850m・南北約1350mで、総面積は約249万㎡(いずれも原文のまま)。 ※実際には東西2400~2500m、南北約2300m(地形図で測定)。

 

(2)飛行場が建設される前、当地は広大な平地林で、建設予定地の4分の3はマツ林で、残りはナラなどの雑木林だった。

 

(3)着工は昭和10(1935)年に着工。以後、工事は2年間にわたって行われ、昭和13年3月に最初の練習機が同飛行場を飛び立った。

 

(4)唯一の資料として練習機である「陸軍九五式一片乙練習機(通称「赤とんぼ」)」の写真が現存。

 

(5)昭和20年7月・8月に米軍機による爆撃で飛行場が被災。とくに7月の爆撃で格納庫を含む諸施設が壊滅。

 

 終戦後、新田飛行場跡地をめぐって、昭和20年11月の閣議決定(大規模開拓事業実施方針)に伴い、中島飛行機太田製作所の離職者たちの失業対策の一環で当地を農村として開拓する計画が持ち上がりました。その計画は「生品飛行場跡三百町歩開耕計画」と呼ばれ、延べ200戸の入植世帯を募り、それぞれに1町5反歩の耕地を割り当てるというものでした。

 

 そして、同年ただちに復員軍人や海外引揚者などを中心に地元の生品村やその近隣から入植者を募集。最終的には各役場の推薦や抽選で入植者が決められました。翌年3月に鍬入式が行われ、入植が正式に始まったもののやせ地のため、最初はサツマイモなど小指程のものしか穫れなかったそうです(以上『新田町誌』を参照)。

 

 いずれにせよ、新田飛行場跡が「市野倉」開拓集落に生まれ変わった背景には、終戦に伴う日本の武装解除、そして早期に解消すべき国内の失業問題がありました目

 

 なお、市野倉地区は元々水利に乏しい場所とみられ、水田は全く見られません。現在は肉牛を飼育する大きな畜舎もみられますが、従来、広大な耕地で野菜やイモ類などを生産する畑作が営農の中心とされてきたようです。

 

 さて、次は東端角に移動。先述した通り、市野倉地区特有の地割の関係で、この場所を北端と錯覚してしまいがちですえっ

 

 新田飛行場跡の西端角 上掲地図中のB地点です。織平先生が立っていますにひひ 

 

 新田飛行場跡の西端角-南端角間の直線道路 上掲地図中のB地点で撮影。この真っ直ぐ南東方向に延びる道が新田飛行場の外郭(南西辺)の名残ですグッド!

 

 新田飛行場跡の西端角-北端角間の直線道路 上掲地図中のB地点で撮影。この真っ直ぐ北東方向に延びる道も新田飛行場の外郭(北西辺)の名残です。余談ですが、左側に停車中の車が、私が13年間連れ添った愛車「VOXYくん」。そろそろ引退ですしょぼん

 

 

 至近には「蛙又(かえるまた)三叉路」と呼ばれる古街道(河岸街道)の交差点があります(上掲地図を参照)。

 

 ここで現地・現物観察至上主義者の血が騒ぎ、少しだけコースアウトし、東南角から約m北北西に位置する蛙又三叉路に向かいましたDASH!

 

 何か発見があるのでは?
 

 蛙又三叉路 同所に立つ道標に刻まれた字句によると、蛙又三叉路は、北は大原を経て大間々方面に、南西は綿打村金井を経て境方面に、南東は市野井を経て木崎方面にそれぞれ至る交通の起点とされたことが分かりますひらめき電球

 

 蛙又三叉路の道標(1) 「名木かへるまた 昭和八年六月建立 生品村山林保護組合」 と刻まれています。なお、「山林保護組合」は市野倉地区を含む当地が広大な平地林であったことの証左です。

 

 蛙又三叉路の道標(2) 「東南市野井ヲ経テ木崎方面二至ル」と刻まれています。奥に見えるのが当地に新設された道路です。

 

 蛙又三叉路の「名木かえるまた」? 石造の祠のすぐ隣に木が生えています。支柱が施された、この木が「名木かえるまた」でしょうか?いずれにせよ、同所に生える(生えた?)木が地名の由来となったようです。 

 

 

 新田飛行場の敷地を選定する際、交通アクセスの利便性などが考慮され、この蛙又三叉路がその基準とされたのではないでしょうか?つまり、同三叉路付近を予め飛行場の西端角に決めた上で、そのスケールが順次決められていったのでは?

 

 私の考えすぎでしょうか?

 

 いずれにせよ、新田飛行場は蛙又三叉路、そして同所から分岐する3本の旧道(とりわけ南東に延びる旧道)をぎりぎり避ける形で敷かれています。

 

 そして次は、新田飛行場の北端角付近に当たるC地点に移動。その北側は北関東自動車道にほぼ接しています。

 

 新田飛行場跡の北端角(1) 新田飛行場の北端角に当たるC地点で撮影。すぐ北側に北関東自動車道が通り、赤城山の眺望が遮られてしまうこともあり、同所が同飛行場の東端角に当たるかのような錯覚を覚えますえっ 

 

 新田飛行場跡の北端角(2) クマさん(織平先生)・おさるさん(寅市先生)の奥が、2つ上の写真と同じ、新田飛行場北西辺の外郭に相当する直線道路です。

 

 新田飛行場跡の北端角から南東に延びる直線道路 上掲地図中のC地点で撮影。直線道路の突き当り付近には大きな工場が並び立ち、「市野倉地区工業団地エリア」を構成しています。その辺りに熊谷陸軍飛行学校新田分教場の主要な建物が置かれたものと思われます。 

 

 新田飛行場跡の景観(2) 新田飛行場跡の北東辺で撮影した市野倉地区の農村景観。ダイコン畑が11月の早過ぎる積雪に見舞われています。同地区には大きな牛舎も見られますが、こうした畑作が農業の中心となっているようです。

 

 

 新田飛行場北東辺の外郭は、現在その一部が工業団地(市野倉地区工業団地エリア)となっており、他の三辺に比べて不明瞭です。ヨシカワ新田工場さん(自動車部品・建築部材)、しげる工業市野倉工場さん(自動車部品・用品)、岡田工業さん(産業用パレットなど)、永徳(エートク)(段ボール包装資材)さんなどの大きな工場が並び立っています。

 

 そして、東端角の栄久太田工場さん(リネンサプライサービス)の角地のフェンス脇の草地には、元少年飛行兵が建立した「陸鷲修練之地」の石碑が建っています目

 

 生品飛行場跡の東端角 栄久太田工場さんが生品飛行場のほぼ東端角に当たり、同所に熊谷陸軍飛行学校新田分教場の主要な建物があったものと思われます。写真右側の電柱の後ろに「陸鷲修練之地」の石碑が建っています。 

 

 新田飛行場跡の東端角に立つ「陸鷲修練之地」の石碑(1) 当地で修練に励んだ少年飛行兵を「陸鷲」にたとえ、大東亜戦争の記憶を刻んでいます。 「陸鷲修練之地」と大きく書かれた脇に「少年飛行兵操縦教育校 旧熊谷陸軍飛行学校」、そして「新田教育隊跡地」と添え書きされていますグッド!

 

 新田飛行場跡の東端角に立つ「陸鷲修練之地」の石碑(2) 当石碑の裏面には「平成七年八月 終戦五十周年記念  元少飛 柳文夫」と刻まれています。こうした先人たちに感謝です。合掌

 

 

 実際に現地を観察してみると、この石碑が建てられた場所、つまり新田飛行場の東端こそ、教室をはじめ、練習機の格納庫、修理工場など、熊谷陸軍飛行学校新田分教場の主要な建物が置かれていたものと容易に想像が付きます。

 

 新田飛行場跡の東端角-南端角の直線道路(1) 上掲地図中のD地点で撮影。やはり、ここでも南西に真っ直ぐ延びる道路が新田飛行場の外郭(南東辺)の名残です。なお、道路に沿って続く桜並木は「桜並木太平記街道」と命名されているそうです。

 

 新田飛行場跡東端付近の工場 飛行場跡の外郭東寄りで操業中の永徳(エートク)さん(段ボール包装資材)の工場です。この辺りに練習機の格納庫や修理工場などが置かれていたはずです。

 

 新田飛行場跡の東端角-南端角間の直線道路(2) 今度は道路の右側に桜並木が続いています。

 

 

 そして最後に、飛行場跡の中央を南東-北西方向に貫く、滑走路の痕跡と思しき直線道路を探りました。

 

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 新田飛行場の滑走路跡(推定)(1) 上掲地図中のE地点から北西方向を撮影。往時の滑走路を偲ばせるこの二車線の道路が、平らかな畑地を貫き、北西方向に真っ直ぐ延びています。なお、突き当たり(北西方向)のやや右側に霞んで見えるのは赤城山です。

 

 新田飛行場の滑走路跡(推定)(2) 上掲地図中のF地点から北西方向を撮影。この辺りが滑走路の南東端でしょうか?いずれにせよ、新田飛行場で修練に励んだ少年飛行兵たちはこの辺りで飛行機を発進させ、赤城山を右手に見ながら離陸したものと思われます。

 

 

 最後になりますが、今回尋ねた新田飛行場跡と以前当ブログで紹介させて頂いた前橋飛行場跡を比較させて頂きます(参照:風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(1/4) 風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(2/4) 風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(3/4) 風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(4/4)

 

 まず飛行場の敷地自体を地形図を使って比べてみると、前橋飛行場が東西約1900m・南北約1700m(ただし不定形)あるのに対し、新田飛行場は東西約2400~2500m、南北約2300mで、新田飛行場の方が広いことが分かります。そして、新田飛行場は正方形に近い、整然とした形をしている点が前橋飛行場との大きな違いです。

 

 そして、教室や格納庫、修理工場など主要な建物が置かれた場所は、前橋飛行場では西側が中心であったのに対し、新田飛行場では、先述させて頂いた通り、正反対の東端角付近だったようです。

 

 逆に、両飛行場の跡地に共通してみられる最大の特徴は、跡地に残る地割でしょう。いずれも、周辺とは明らかに異なり、北西-南東方向(北東-南西方向)に傾いた地割が特徴的です。これは両飛行場とも滑走路とそれに付随した路地がそうした規格に則って敷設されたことに由来するものと思われます得意げ

 

 なぜ、滑走路がそうした傾きをもって敷設されたのでしょうか?

 

 それはおそらく、冬場の季節風、すなわち空っ風の風向(北西風)を考慮したことによるものでしょう。風が強いことで知られる群馬にあって、とりわけ冬場の強烈な空っ風を考慮した場合、それが離着陸の障害(つまり横風)にならないよう、あえて滑走路を空っ風の風向と重ね合わせたものと思われますひらめき電球

 

 また、飛行機の離着陸は、向かい風の方向に行うことが望ましいとされています。その前提に立てば、車輪を出して滑走路を走る飛行機が空っ風の吹く方向、つまり向かい風を真正面に受けることで得られる揚力は機体のスムーズな離陸につながるはず。逆に着陸の際は、向かい風が機体の勢いを止める自然のブレーキの役割を果たします。とりわけ赤城山の南側に吹き荒れる冬場の空っ風は「赤城おろし」と呼ばれ、新田飛行場ではそれが飛行訓練で巧みに生かされたものと考えられます得意げ

 

 なお、中島飛行機太田飛行場跡(現在は富士重工大泉工場:太田市朝日町~大泉町いずみ)にも前橋・新田両飛行場と同様に「傾いた地割」が確認できます。

 

 中島飛行機太田飛行場跡(現・富士重工大泉工場)の地割 新田・前橋両飛行場と同様、太田飛行場でも滑走路は北西-南東方向に敷設されたことから、同飛行場跡である富士重工大泉工場の敷地はその方向性を反映し、斜めに傾いた細長いほぼ長方形で成り立っています。また、同工場の敷地内に残る地割も同じ方向で大きく傾いていることが地形図から詠み取れます。

 

 

 今回、両毛研修で新田飛行場跡を訪れたことで、すなわち前橋飛行場跡の地割が傾いている理由がよく分かりました。大東亜戦争の最中、群馬県内各所に建設され、特攻を含む大勢の飛行兵を育てた主要な陸軍飛行場は、いずれもご当地名物の空っ風を考慮して建設されていました。

 

 まさに目からうろこが零れ落ちました目

 

 これだからフィールドワークは止められない、止まらない・・・

 

 もちろん、クマさん(織平先生)もおさるさん(寅市先生)も興味津々でした合格

 

 

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 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 

 次回は、戦時中の中島飛行機の創業者である中島知久平の邸宅(国指定重要文化財 中島知久平邸)
紹介させて頂きます。乞うご期待!