白髪を染めていた武将・斎藤実盛 | 白髪もしわも こわくない ー 老いを素直に受けとめていきませんか

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いつまで白髪を染めますか? 
いつまで若作りを続けますか?
老けていくことをあるがままに受け入れ、
年を重ねることをもっと楽しんでいきませんか。


白髪染め・ヘアカラーの歴史を調べていたら、
興味深い史実がわかりましたので、ご紹介しましょう。

平安時代末期の話です。
武将・斎藤実盛(さいとう さねもり)は、
木曽義仲を追討するため、北陸に出陣しましたが、
加賀国の「篠原の戦い」で敗北しました(1183年)。

このとき、見方が総崩れする中、覚悟を決めた実盛は、
老齢の身を押して一歩も引かずに奮戦し、
ついには、義仲軍の手塚光盛によって討ち死にとなりました。

実盛は高貴な衣装を身に着けていたものの、
首実検でも実盛本人であることは明らかになりませんでした。
けれども、近くの池でその首が洗われると、髪もひげも真っ白に……。



埼玉県熊谷市にある「妻沼聖天山(めぬましょうてんざん)」にある斎藤実盛の銅像。
右手に筆、左手に鏡を持っているのは、
実盛が墨汁で髪を黒く染めて出陣したという史実にもとづいたもの。




実盛はかねてから、
「60歳を越えて戦の陣に向かうときは、
髪の毛を黒く染めて、若返ろうと思う。
白髪頭で若殿のごとく先駆けを争うのも大人げないし、
老武者と人の侮りを受けるのも口惜しい」と語っていたのだそうです。

白髪を染めた武将が実盛であったことを知った木曽義仲は、
幼い頃に命を救われたことを思い出し、
さめざめと涙を流したと伝えられています。



この平安時代は、地理的・政策的な判断などから、
主君を変えることはさほど珍しくなかったと言われています。

実盛も、そのような時代の流れに翻弄された一人で、
主君が源義朝→源義賢→源義朝→平清盛→平宗盛と変わりました。
その結果、最後は、最初に仕えた義朝の子どもの頼朝や、
一時仕えた義賢の忘れ形見であり、自らが命を救った義仲と対峙することになったのです。

けれども、実盛は、その義仲に対し、かつての恩にすがることもなく、
また、老将の哀れみを乞うこともなく、
名前を伏せたまま、武士らしく立派な最期を遂げました。



この「篠原の戦い」における実盛の壮絶な最期の様子は、
「平家物語」巻第七に「実盛最期」として一つの章にまとめられています。

また、江戸時代後期から明治時代にまとめられた伝記集の「前賢故実」にも取り上げられ、
「最後ぐらい若々しく戦いたいという思いから墨汁で髪を染めた」という記述が
残されています。



「前賢故実(ぜんけんこじつ)」に紹介されている斎藤実盛。
墨汁をあごひげに塗ってもらっている姿が描かれている。




73歳で生涯を閉じた斎藤実盛は、「武士の鑑」と尊敬され、
「源平盛衰記」、歌舞伎「実盛物語」、謡曲「実盛」などにも
語り継がれています。


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槙まきこ


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