「二わの小とり」(1年生道徳教材)を考える(2) | 元小学校教師による学校現場目線からのメッセージ

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(1)からのつづき
 
「道徳を語り合う」とは、『生活(生き方)を語り合う』ことである。物語の教訓・「価値」を子どもたちに教え込むこと…、そして "良い子に生きる" ことを強いることが道徳ではない。
 
そこで、この作品からリンクできる子どもたちの「生きづらさ」について考えてみる。
 
今の子どもたちは、一年生であっても、直感的に友達間の力関係を見る。友情や正しいことよりも、強い力に引っ張られることはよくあること。排除される生きづらさは、すでに幼児期から直感的に感じている。
 
こういった生きづらさの中、どのように行動するのか、そしてそのために何が必要なのかを一緒に考えることが大切ではないだろうか。
 
今の子どもたちの第二の傾向として、いい意味でも悪い意味でも、「気遣いをする」ということがあげられる。
 
音楽会を「そっと、抜け出して」の行動について、 "どうしてうぐいすや小とりたちを誘わなかったのか"、とか、 "みんなで行くことが正しい行動だったのではないか"、と考えるのは子どもたちの「生きづらさ」に共感した考えとは言えない。
 
みそさざいは、小とりたちを気遣ったのであろう。せっかく楽しんでいるのに誘うのは申し訳ないと考えたのであろう。それが今の子どもたちの思考である。同時に、そのことは、自分だけが排除されることを覚悟した行動であるとも言えるのである。そのリスクを超えて、やまからのことを考えたのである。
 
このように考えると、みそさざいの行動は、みそさざい個人、あるいはやまがらとの関係の中だけで生まれたのではないことがわかってくる。うぐいすや小とりたちとの関係の中で生まれていると考えるべきである。
 
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さて、授業としてどう扱うかであるが、私としては、原作を扱いたい。教科書に載っている教材は、子どもたちの思考を「友情」だとか「思いやり」だとかに誘導しようとして不自然な部分が多すぎるからである。
 
原作を読み聞かせながら、最後の(きて、よかったな。)に注目して、一人で来てよかったのか、みんなで来た方がよかったのかを、私だったら聞いてしまうかもしれない。
 
そしてそこから、そして、「そっと」抜け出したみそさざいの「そっと」に共感しつつ、今のこともたちの生活の「生きづらさ」について、一年生なりに話し合うと思うのである。
 
(未完)

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